第31話:必ず帰ってきます
「僕は南関東の原子炉に向かうよ」
力なく座り込む
「危険すぎるだろっ。既に原子炉がメルトダウンを起こしているかもしれない」
「いや、彼女は僕が行くまでそんなことはしない」
「なぜ、そうと分かる?」
「僕を利用して、もう一度ネットワークに潜り込むためだ。そして、日本だけじゃない。この世界全体をアポトーシスしようとしている」
沈黙に満ちた空気を少しだけ押し戻すように、制御室の扉が開かれた。扉の向こうに立っていたのは、息を切らして戻ってきた
彼は少しだけ呼吸を整えると、来宮の前まで歩み寄る。
「本社の危機管理部を通して、内閣府へこの状況が通達されます。本件の直接的な指揮は今後、東亜電力本社ではなく、政府機関に一任されると……。それまで我々はここで待機せよとのことです」
「御苦労さまだったね。この件はもう、東亜電力や給電指令所で対処できる問題は無くなってしまった。海崎君、あとは当局の対応に任せよう。前田君、すまないがこれまでの経緯の詳細を整理してくれないか。どのみち本社には公式な形で報告せねばならない……」
海崎は真っ直ぐ来宮を見据える。決断ではない覚悟。それは判断。
「来宮さん、やっぱり僕は行きます。ここで待っていても、おそらく事態は収束しません。原子炉の暴走を迅速に止める手段を、人類は持ち合わせていないのですから」
「とはいっても、現地に行っても何もできません。とても危険です」
まだ粗い呼吸をしている前田の声も高ぶる。
「彼女に直接会ってきます。そして、彼女をこの世界から末梢します」
「末梢って、君に何ができるっていうんだ?」
「マイトファジーと呼ばれる現象です。ミトコンドリアの選択的分解機構を誘導する薬剤を使ってミトコンドリア・ウィルをこの世界から抹消します。僕にはそうする義務がある」
義務には能動性が希薄だ。だからこそ人は前に進めるのかもしれない。
きっと能動的になったら、方向性を誤るだろうから。
「ふむ……。僕が止めても、きっと無駄なんだろう? でもね、海崎君。約束してほしいんだ。身の安全だけは確保するように。必ず戻ってきなさい」
「来宮さん、ありがとうございます。いろいろとご迷惑をおかけします」
海崎は深く頭を下げると、踵を返し制御室の扉へ向かって歩み始める。
「待て海崎。この事態を招いた発端は俺にある。俺も行く」
「最後は僕に任せてくれないか、神尾。大丈夫、何もかも終わらせてくるさ。僕の感情も、君の想いも、すべてはあの頃から少しずつ歪んでいってしまったのかもしれない。僕があの時、彩に自分の気持ちを伝えていなかったら、世界はもう少し変わっていただろうか。今となってはそんな世界があっても良かったのかもしれないと思う。僕の選択で、結局のところ幸せになれた人間など、誰一人いないのだから」
「いや、どんな選択をしようが、同じ帰結がもたらされたんだと思う。自分が幸せか、そうでないか、そんな判断基準を持っている事こそが不幸の始まりだ。きっかけや人生の選択なんて、振り返って眺めるから大げさに映るんだ。お前も、俺も、ただその時々を自分の信条に従って真剣に歩んでいただけだ。そこに主体性があろうが、なかろうが、そんなことは、もうどうでもいい」
何が幸せなのか、本当のところは誰も知らない。人はその時々で正しいと思った道を歩いているだけだ。その道が険しかろうが、平坦だろうが、幸せを定義付ける何かが、主体的な選択行為の中にあるわけじゃない。
「すまない神尾。僕は君の感情を直視できなかった。嫉妬や妬み、焦りや不安、そんな気持ちがなかったと言ったら嘘になる。君は彩に劣らず天才だ。僕とは比肩もできないくらいに。僕には何か自慢できるような魅力や特技だってない。でも、彩はそんな僕に寄り添ってくれた。そんな彼女が僕から離れていくのが、とても怖かった……」
「いや、誤るのは俺の方だ。一方的な感情をお前たちに向けてしまったこと。本当にすまないと思っている。お前の気持ちはよく分かった。俺はここで待っている。だから必ず、帰ってこい」
「ありがとう、神尾」
「車の鍵だっ」
神尾の放った車の鍵を片手で受け取ると、海崎はそのまま制御室を出ていった。
☆★☆
窓から差し込む陽の光で満ちたコンコースを歩く。光があるというのはそれだけで深い安心感をもたらす。闇は昼と夜の境界ではなく、幻想と恐怖の境界を作り上げるのだから。
「海崎さんっ」
海崎が向かう先に立っていたのは、
「田部さん……」
「お話を前田さんから伺いました。これから南関東へ向かうって」
「はい。事態の収束に向けて善処したいと思っています」
収束には、少なからず淘汰というプロセスが含まれている。
収束点に向かう中で、淘汰されるのはミトコンドリア・ウィルか、それとも人類か。
「どうせ私が止めても、聞いてくれませんよね」
そう言って、田部は微かに笑う。その瞼は少しだけ腫れていて、微笑の後ろ側には、悲しみの影が張り付いていた。
「必ず帰ってきます」
「帰ってきてもらわないと困ります。ウメワサビラーメン、もう一度食べたいですから」
海崎は、分かりましたと、小さくうなずきながら笑みを作った。
「あのね、きっと寒いですからね、これを着けていって下さいっ」
田部は右手に下げていたクリーム色の紙袋から、マフラーを取り出すと、海崎の首に巻いた。
「これ、お世話になっていた人へのプレゼントって……」
「プレゼントしたい相手って、海崎さんのことなんですよ。だましてごめんなさいっ。少し早いですけど、メリークリスマス……です」
「田部さん……」
「とても似合っていますねぇ」
笑う田部の頬を涙が伝っていく。その涙を隠すように彼女は床に視線を向けると、そのまま海崎の胸に顔をうずた。
「海崎さん、本当に。必ず戻ってきてください。どうか、必ず……」
海崎は彼女の背にそっと手を当てると、そのまま抱きしめた。
「大丈夫です。きっと」
風が吹き抜けるコンコースを抜け、エントランスの階段を降りると、目の前には数台の警察車両が物々しく停車していた。あちこちで無線通信が漏れ伝え、辺りは緊迫感に包まれている。
そんな様子を尻目に、海崎が地下駐車場に向かおうとすると、数名の警察官が彼を取り囲んだ。その真ん中には、先ほど指令室に入ってきた二人組の刑事が立っている。
「海崎景だな。逮捕状が出ている。署まで同行願いたい」
気の粗い若手の刑事が、白い紙きれを海崎の目の前で振った。
「なぜ僕に逮捕状が?」
「詳しい事情は、署で伺います」
隣に立つ年配刑事は、後ろの警察官に顎で指示すると、踵を返して背を向けた。
「ちょっと待ってくださいっ」
「連れていけっ」
若手刑事のどなり声と、サイレンの音が響く中、正面の車道に迷彩柄の軽装甲機動車が急停車した。
後部ドアが開き、迷彩柄のバイザーヘルメットと防弾チョッキで武装した男たちが、自動小銃を構え、海崎とその周りの警察官を取り囲んだ。
「なんだお前ら」
「陸上自衛隊です。内閣総理大臣による治安維持出動命令が出ています。警察官職務執行法の準用が許可されました。警視庁捜査一課は、統合幕僚監部の指揮下に入ってください」
「な、自衛隊? 統合幕僚監部だと? 俺は聞いていないぞっ」
「ご理解ください。あなた方と争っている余裕はありません」
「どういうことだ……」
「説明している余裕もありません」
警察官たちを払いのけ、唖然と立ち空くす海崎の前に進み出た自衛隊員は、姿勢を正すと敬礼した。
「陸上自衛隊第一師団、第一普通科中隊の
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