第30話:あなたを待っています
『助けて、景……』
静まり返った室内に、携帯端末の小型スピーカから漏れる
「彩……なのか。今どこにいる」
「そいつは宮部じゃない。
『一昔前の原子力潜水艦に積まれていたような、そんな灰色の箱。これは原子炉格納容器かしら……。ねえ、おかしいの。加圧水の温度は三百度以上あるはずなのに、とても寒いわ。もっと温めないといけない』
「南関東原子力開発機構が保有する原子炉は、全て田邊重工製の加圧水型軽水炉です。間違いありません。ネットワークを追い出されたミトコンドリアは、南関東平野の原子力発電設備にいます」
いつも冷静な前田の声は微かに震えていた。
ネットワークに潜んでいた
「温める……。君は何をするつもりだ」
原子炉を冷却する加圧水を温める。それはある種のメタファーなのかもしれないが、一時冷却用の加圧水を喪失すれば、緊急炉心冷却装置が作動する意外に、原子炉を冷却する術はない。
『あなたならきっと理解してくれる。だって、あなたは私の希望だもの」
「来宮さん、原子力安全委員会の連中は、南関東で作業中ですよね」
前田は、端末の送話口に自分の声がは入らないよう、隣に座る
「そのはずだ。彼らにも危険が及んでいるのは分かっている。前田君、本社の危機管理部に急いで連絡してくれ。南関東原子力機構所管の原子炉で、原因不明の緊急事態が発生していると。これまでの状況は全て説明していい。頼む」
前田は返事の代わりにうなずくと、静かに立ち上がり、ミソラの制御室を後にした。
「なあ、彩。僕たち人間は、理解可能なものだけに目を向け、それだけを理解しようと努めてきたのだと思う。そして、理解できないものからは容易に目を逸らしてきた。いや、理解できないものを排除しようとして、人間は人同士で争いを繰り返してきたと、そう言った方が正確かも知れない。繋げた線にだけ意味を見いだし、他の点は存在しなかったことにしてしまう。そんなことの繰り返し。それが僕たち人類の歴史さ」
「海崎、お前はいったい何の話しているんだ……」
海崎は左手を上げると、問いかけた神尾を静止して話を続けた。
「でも、常に大事なことは関心のない所にこそあった。それまでの思想や価値観を編みかえるような発見は、いつだって常識からは生じえない。理解はある種の驚きに近しいものだ。その驚きの瞬間に、人は少しだけ前に進むことができる」
『私のこと、理解してくれるの?』
理解とはそれ自身が創造的な作業だ。それは理を解する、というよりはむしろ、理に巡り会うことに近い。理解ではなく理会。その中にこそ主体的に物事を探究する姿勢が宿る。
前提を疑い、自分なりに問いを立てること、その問いに答えようとすることによって情報の読解がより能動的になる。常に疑いを持って、本当はどうなっているのだろうと問いを立てる力。自然科学の探究において最も大事なことはそういうことだと、新藤啓二は言った。
海崎は端末を耳に押し当てながら恩師の言葉を思い浮かべ、そっと目を閉じる。
「君に、会いに行くよ」
そう言って、再び瞼を開けた彼は、携帯端末を耳から離すと、送話口を指で塞ぎながら、来宮を振り返った。
「来宮さん、原子炉建屋周辺の隔壁は?」
海崎の問いに、来宮の顔がサッと青ざめる。
「オフラインで再稼働の作業中だ。もちろん隔壁を開放しなければ、内部に侵入できない」
「つまり今、原子炉が暴走して炉心融解を起こせば、南関東の生産地帯は壊滅するわけですね?」
冷却手段を失った原子炉内は、あっという間に水蒸気爆発を起こし、原子炉建屋を吹き飛ばす。非常時の備えに張り巡らされた様々な安全設備も、それと同時に破壊されるだろう。そして、完全にコントロールを喪失した原子炉は、炉心の耐熱性を上回る高熱によって自らを溶融させ、
建屋内から漏れ出た高濃度放射性物質は、周辺環境を汚染し、隣接する南関東の生産地帯はやがて壊滅に至る。
「壊滅は免れ得ない……」
絶望にほど近いその声を聞いた海崎は、再び携帯端末を耳に押し当てた。
『彩。そこで待っていてくれないか?』
「お前、いったい何をするつもりだ」
室内の気温は真冬のそれとほとんど同じはずなのに、神尾の額には汗が滲み出ていた。
『ええ、もちろんよ。待っているわ』
「ありがとう」
通話を終了すると、海崎は携帯端末を胸ポケットにしまい、神尾を振り返った。
「これが、ミトコンドリア・ウィルの目的だった」
「目的……」
「ソーシャル・アポトーシスの実行手段だよ。この現実世界には、細胞内のようにタンパク質が浮遊してるわけじゃない。ましてやアポトーシスを引き起こすようなカスパーゼなんて存在しない。彼女はグリーンオルガネラの完全破壊によって、電力を原子力に依存しなければならない状況を作り上げたのさ。しかも日本に残る唯一の原子炉を稼働させるには、施設を何重にも取り巻く隔壁を全て開放する必要がある。なぜならネットワークはついさっき、僕らが全て破壊しまったから。ローカルな電話回線を使えば、おそらくは遠隔操作できたはずなのに……」
「ウイルスをそのために使わせただと? 全てトコンドリア・ウィルの筋書き通りってことか……。くそっ。ソーシャル・アポトーシス、それが
ほとんどの意識的行為は、一定の推測に基づいている。先の未来が、より豊かな世界であるよう祈りながら。だがしかし、推測が必ずしも豊かな世界を導くわけじゃない。推測とは、いわば非合理的な創造性のことだ。人間に可能な問題解決とは、問題そのものの最終的な克服ではなくて、むしろ後退的な問題移動に過ぎないのかもしれない。
「ミソラを乗っ取って、住民登録データを調べていた理由が今となっては良く分かる。人類の生活状態を把握して、必要な資源の生産量を把握。それを生み出している場所の特定。電力需要予測システムのデータベース拡充を彼女が提案した時から、ミトコンドリア・ウィルの計画は着実に進行していた。予測精度がほとんど向上しないにも関わらず、データベースの拡充を提案してきたのは、宮部彩をまとったミトコンドリアだった。すべてが最初から計算されていたんだ」
「このままでは、この国全体の生活資源が壊滅する……」
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