第29話:助けてください
「ミトコンドリアは
「つまり、ミトコンドリアというのは、真核細胞には最初から存在しなかったと言うわけか?」
「はい。そう考えられています。これを細胞内共生説と呼びますが、
「ミソラへのアクセス、その正体はミトコンドリアの意志だったのか」
意志がネットワークを介して世界のあらゆる情報にアクセスできるようになる……。
言語化することで、思考はより客観的になっていく。海崎は自分が語った言葉の意味を振り返った。何か大切なことを見落としているような気がしたから。
『給電システムがミソラとリンクしてから、ちょとトラブルが多い気もするけど、そっちは大丈夫なの?』
宮部彩を象ったミトコンドリアの意志。その目的が実行に移された最初の瞬間はどこにあったのかと考えれば、やはり東急線の踏切制御装置への電力送給を疎外し、列車を遅延させたことが始まりなのだろう。
「人類にとって、共生と考えられていたミトコンドリアですが、ミトコンドリアにとっては寄生だったのかもしれません。最終宿主は人間ではなくネットワークだったのですから。そして、最終宿主を見つけたミトコンドリアは今、不要なものを抹消しようとしている」
「不要なものとは、どういうことだ?」
「ミトコンドリアは、アポトーシスと呼ばれるプログラム細胞死に関わっているんです。宮部彩のミトコンドリアも同じように、ネットワークに寄生することで、ネットに依存したこの社会を自壊に追い込むことができる。それはいわばソーシャル・アポトーシスと言えるようなものに近いかもしれません。いずれにせよ、この社会の自壊をもくろんでいる、そう考えるのが妥当かと思います」
ソーシャル・アポトーシスを達成するという、明確な目的を持った意志。とはいえその手段はいったい何か。海崎は再度、考えを巡らしてみる。
度重なる停電の発生に、事態を重く見た経済産業省や関係省庁は、状況を改善するべく、東亜電力に圧力をかけることになった。結果的に電力需要予測システムの中核、ミソラの解析データベースは拡充された。そして、ミソラのデータベース拡充とともに決定されたのは原子炉の再稼働。
『それと、もう一つ、安定的な電力送給を維持するために、非常時に備えて南関東にある原子炉を再稼働させること、この二つが許諾条件だ』
一連の流れ、すべてがミトコンドリアの想定していた通りだとしたら、その後に何が起こり得るのか……。
「だから、ネットワークに寄生したミトコンドリアそのものをコンピューターウイルスによって破壊してしまおうというわけか」
「いえ、ちょっと待ってください……」
そう言った海崎は、頭を抱えながらじっと目を閉じる。やはり何かが大事なことを忘れているという、なかば強迫じみた感情の波が彼の動悸を早める。
その時、指令室の扉が勢いよく開けられ、スーツ姿の二人組の男が入ってきた。彼らは真っ黒な警察手帳を広げながら出入り口を塞ぐように立ち尽くす。
「警視庁捜査一課のものです。海崎景さん、それと神尾大さんですね。署まで任意同行願います」
静まり返った室内で、来宮が立ち上がった。ゆっくりと扉まで歩みを進めると、仁王立ちしている刑事の正面で止まる。
「刑事さん……ですか。我々は民間企業のいち社員ですが、今は公務中でしてね。任意ならば、今は電気事業法に基づく緊急措置を優先させてもらいたい」
「何っ!? 公務執行妨害で逮捕してもいいんだぞっ」
声を荒げて身を乗り出した若手の刑事を、片割れの男が制する。
「分かりました。出直しましょう」
そう言って、刑事たちは足早に指令室を出ていった。
「どうやら時間がないみたいだ。事情は概ね理解したよ。さぁ急ごう。ウイルスソフトは既に完成している」
海崎は未だ腑に落ちない面持ちで、椅子から立ち上がった。何かが上手く言葉にされていない。しかし、言葉にできない以上、形の無い不安定な感情を拾い上げることはできない。
☆★☆
電力需要予測システムの中枢、ミソラの制御室で、
「ありがとう前田君」
「このウイルスは感染すると、標的プログラムをでたらめに書き換えて無効化します。従いまして、ミソラの基幹プログラムとネットワーク上の全てのソフトウェアを容易に破壊しますが、同時に我々は永久にグリーン・オルガネラを永久に放棄することになります」
「グリーン・オルガネラまで影響を及ぼすのか?」
「はい、再起は不能です。電力需要予測に使っていたデータベース拡張に伴い、ミソラとグリーン・オルガネラが直接リンクするようにバージョン変更されていました。つまり、この端末からウイルスを流し込めば、グリーン・オルガネラの駆動をサポートしている端末はじめ、関連する全ての機関がダメージを受けることになります」
「どのみち、正午は過ぎている、グリーン・オルガネラの復旧は叶わない」
時計を確認しながらそう言った神尾は、コンソール前の椅子に腰かけた。
「ところで、ネットワークにアクセスできない我々が、どうやってウイルスを流し込むんだ?」
「神尾さんは技術戦略研究所の中央操作室から電話をかけてきたかと思います。つまり、光回線ではなく、電話回線は生きているんです。このノート型端末は旧式のものですが、有線接続にて電話回線からネットワークにアクセスできます」
そう言って、前田は端末から延びる回線を指さした。それは床を伝って、電話機に取り付けられている。
「これで、回線接続完了です。ウイルスプログラムを送信します」
「まってください。何かおかしい。都合が良すぎませんか?」
「海崎、このまま見過ごすことはできない。ソーシャル・アポトーシスは何としても阻止しなければいけないんだ」
「なあ、神尾。もし、僕たちがウイルスプログラムをネットワークに感染させようとしていることに主体性がないのだとしたら、これも全てミトコンドリアの意志の元にあるのだとしたら……。この行為こそがあいつの意志そのものなんじゃないか……」
「どうします? 中止しますか?」
閉口する神尾の隣で、来宮はじっと端末のモニターを眺めていたが、やがて小さくうなずくと「ミソラとネットワークを破壊してくれ」と言って、席を立ちあがった。
「了解しました。ウイルスプログラムを起動します」
小さな端末のハードディスクが微かな唸りを上げ、シークエンスが順次起動していく。
「ミソラの基幹プログラム破壊を確認しました」
作り上げたものが一瞬で朽ち果てていく瞬間の儚さ。それは無常と呼ばれるものに近い。
「グリーン・オルガネラの各機関、シャットダウンを確認」
「成功か?」
「いえ、むしろこれからです」
その時、海崎の胸ポケットの中で携帯端末のバイブレーションが作動した。取り出した端末モニターを確認すると、表示されていたアイコンは宮部彩のものだった。海崎は震える手で、携帯端末を耳に押し当てる。
『助けて、景……』
夢は終わる現実かもしれないが、夢の終わりが希望の始まりに繋がっているとは限らない。
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