最終話:色をあげよう
「なぜ、僕を……」
お世辞にも乗り心地が良いとは言えない軽装甲機動車の車窓には、地平線の彼方まで広がる田園風景が続いている。
関東平野南部、かつて首都圏のベッドタウンとして栄え、広大な住宅街を形成していたこの地域は、半世紀前に発生した大震災により壊滅的な被害を受けてしまった。さらに少子高齢化による人口激減の影響から、街並みの復興は叶わなかった。
完全に廃墟と化した旧神奈川県の平野部一帯を、日本国政府は食糧やエネルギー資源の拠点となる一大生産地帯へと変えたのだ。
「北関東州立大学の
「僕の名前が?」
「はい。マイトファジーに関する資料の一部でしたが、東亜電力から提出された本件の関連資料と照らし合わせ、この状況、つまりあなた方がミトコンドリア・ウィルと呼んでいるものに対処するには、新藤教授の実質的後継者である
「何もかもご存じ……というわけですか。マイトファジー誘導剤についても……」
彼のコートのポケットに入っているマイトファジー誘導キットは一回分だけ。失敗は許されない。海崎はポケットに手を入れたまま、誘導剤の入ったアンプルを握りしめた。
「私は専門家ではありませんし、新藤教授の研究がどのような内容だったかは分かりません。だからこそ、あなたの力が必要なのです。私たちの任務は、あなたの行動支援にすぎません。あなたがミトコンドリア・ウィルに接触できるよう、そして、無事にこの世界から末梢できるよう全力を尽くします」
やがて、平坦な田園風景と地平線の間に巨大な建造物が見え始める。南関東原子力開発機構が保有する日本で唯一の原子力発電施設。その周囲を取り囲んでいるドーム状の隔壁だ。
「前方の隔壁が大きく開いています」
助手席に座る自衛隊員は、カール・ツアイス製の黒い双眼鏡を覗き込みながら声を荒げた。
原子炉建屋を三重に取り囲む巨大な隔壁は、本来であればドーム状に発電施設を覆いつくし、さながら軍事要塞のような外観をしている。しかし、前方に見えるのは、隔壁が大きく開け放たれ、内部を露出させた無防備なその姿だった。
原子炉へと続く国道をはじめ、南関東エリアを通行する車は皆無だ。しかし、巨大な隔壁手前の路肩には白いワゴン車が一台停車していた。
車体の側面には東亜電力のロゴマークが見える。軽装甲機動車は減速しながらその隣に停車した。
「車内に人はいませんが、東亜電力の原子力安全対策チームがこの中にいることは間違いありません」
如月三等陸佐は、ガイガーミュラー計数管のモニターを確認すると、後部座席に座る自衛隊員三名に向かって小さくうなずいた。彼らは後部ドアから車外へ出ると、自動小銃を抱えたまま、大きく開かれた隔壁にむかって走り出す。
その様子を窓越しで確認した如月は、バックパックから小型の無線機を取りだすと、海崎に手渡した。
「イヤホンを装着してください。離れていても通信ができるようになります。ワイヤレスですから、そのまま耳に押し込んでいただければ大丈夫です。私たちも出ましょう」
彼はそう言って自動小銃を担ぎ直すと、灰色のアスファルトに足をついた。海崎も反対側のドアを開け、車の外に出ると如月の背に続く。
見上げた先の空で、陽は少しだけ傾きかけていた。冬の空は、あっという間に青さを失い、長波長光の散乱に満たされてしまう。
視線を周囲に向ければ、目の前の巨大な建造物以外に建物は見当たらない。冷たい風が、広大な田園風景をあてもなく駆け抜けていった。
『隔壁内、クリア』
イヤホンから聞こえた先行隊員の合図で、如月と海崎は走り出す。
隔壁の内部は常夜灯が点灯してたが、視界は決して良いとは言えない。原子炉建屋までは、外層、中間層、そして最深層の隔壁を通過する必要がある。薄暗い空間の中で、足場の悪い狭い通路を、足早に進むのことは少し厳しい。如月率いる一個中隊はナイトスコープに切り替え、海崎をエスコートしながら深部へ進んでいった。
「ここから、原子炉までは、ほんの数メートルしかありません」
如月が指差した通路の先には、黄色に黒字で記された放射能標識が見える。
「現時点でミトコンドリア・ウィルの位置は特定できていませんが、いずれにせよ隔壁の開閉操作はこの先に中央操作室で行うのが確実です」
万が一の事態に備え、隔壁は閉じておかねばならない。いずれにせよ如月の言う通り、中央操作室へ向かうのが賢明と言えた。
狭い通路の両脇には、巨大な発電タービンがいくつも並んでいる。核融合反応によって生み出された熱エネルギーが、大量の蒸気を生み出し、その運動エネルギーがこのタービンを回転させ電気を生み出す。その基本的な原理は、火力発電や水力発電と変わらない。しかし、目の前に並ぶタービンはいずれも稼動しておらず、通路内に響いているのは、忙しない靴音だけだった。
「風の行き先はどこなのだろう……」
先を行く自衛隊の背を見つめながら、海崎はそっと呟く。
タービン建屋を過ぎると、巨大な貯水槽が見えてきた。真っ青な水面が、配管渦巻く灰色の天井を反射している。水面が青く見えるのは、水の色ではなく貯水槽の壁面が競技用のプールみたいに青色で塗装されているためだ。
「あの貯水槽下部には、使用済み核燃料が保管されています。冷却装置が無効化されれば、ここも危険でしょう」
如月は、貯水槽の真横に取り付けられたハシゴ状の階段を上層に向けて駆け上がっていく。階段を登った先の踊り場付近には巨大なサーバーがいくつも立ち並んでおり、鈍い電気的な音が鳴り響いていた。この発電設備の制御中枢がすぐ近くにあることをうかがわせた。
廊下をさらに奥へと進むと、中央管理室と書かれたプレートが見えてくる。その手前の事務室入口付近で、先を行く自衛官からの無線がイヤホンに鳴り響いた。
『人が倒れています。五名、いずれも死亡しているものと思われます。周囲に人影はありません』
海崎の先を行く如月は、自動小銃を構えながら、事務室に入り込む。
「この臭い……」
室内には焼け焦げたようなにおいが充満していた。床に倒れている男たちのジャケットは半分以上が炭化していたが、腕の部分に刺繍された東亜電力のロゴマークをかろうじて確認することができた。
「何か、焼かれたような……」
「身元詳細は現在確認中ですが、東亜電力の原子力安全対策チームと思われます」
遺体の脇にひざまずき、小型の端末モニターを確認しながらそう言った自衛隊員は、ゆっくり立ち上がると辺りを警戒した。
「おい、あれを見ろっ」
事務室と、中央制御室の間はガラス張りの壁になっている。その強化ガラスの向こう側、制御コンソールの正面に立っていたのは、ミトコンドリアの幻影をまとった
その姿を確認した如月が右手を上げると、同時に後方に展開した三名の自衛官が一斉に自動小銃を構える。
「ちょと。待ってください」
そう言って、自衛隊員たちの前に躍り出た海崎は、高鳴る動悸に抗いながら、ガラス越しに宮部彩を見つめた。透きとおった大きな瞳は、記憶の中の彼女と何も変わらない。だけれど、その奥に宿る意志は別物。
頭では理解していても感情が暴走しそうになる。
大きく息を吸い込んだ海崎は、ガラスの壁面に手を置いて瞳を閉じた。
「待っていたわ、景」
その声にゆっくり瞼を開けると、宮部はガラス壁を挟んですぐ正面に立っていた。
「海崎さん、下がってくださいっ。危険です」
背後で叫んだ自衛隊員の声に、宮部の表情は鋭く変化していく。彼女の視線の先で自衛官がうずくまり、床に膝をつく姿がガラス越しに垣間見えた。
「熱いっ、熱い、助けてくれっ。あああっ」
床をのた打ち回る自衛隊員の体から小さな炎が舞い上がった。その異様な光景に、海崎は後ろを振り返る。
「やめろ、彩っ。君は……」
如月は、海崎を後ろから抱えると、彼をガラス壁から遠ざけ、後方の自衛官に向かて「撃てっ」と命令した。
自動小銃の照準から放たれた赤いレーザーポインターの光が、ガラス壁の向こう側に立つ宮部の頭部に集中する。
「如月さん、待って……」
海崎の声をかき消すように、自動小銃から放たれた無数の弾丸が、正面のガラス壁を破壊していく。
「目標は、破壊したか?」
ガラスの破片が散乱する床の向こうで、何事もなかったかのように立ち尽くしている宮部彩。彼女は相変わらず首を少しだけ斜めに傾けて、微かな笑みを浮かべていた。
「あなたが守りたいものは何?」
彼女がそう言った瞬間、自動小銃を構えていた自衛官たちの体から次々と炎が燃え上がっていく。身体の内部から舞い上がる炎、彼らを焼き尽くしていくその熱は、室内の空気を突き動かす気流となって、海崎と宮部の前髪を揺らした。
「やめてくれっ」
「少しばかりミトコンドリアのエネルギー効率増やしてあげただけよ。あなた以外はみんな邪魔なの。ねえ、景。答えて。あなたが守りたいものは何?」
彼女は、完全に崩壊したガラス壁の向こう側から、ゆっくりと海崎に向かってくる。
「……日常の中の、倫理」
「倫理? それは、あなたにとっての倫理でしょう? そもそも倫理って何? 人類の生なんて、一瞬で燃え尽きる塵や埃と変わらない。彼らみたいに。生命にとっての倫理をあなたたちに人間に語る資格なんてないのよ」
自分の色を探している。いや、人は多かれ少なかれ皆そうだ。それは個性、あるいは自分を基礎づける何か。この広い世界のどこかに自分というものを基礎づける居場所が欲しいと、誰もがそう願う。
「確かに、正しいこととか、悪いこととか、そのどちらも希望を奪うことがあって、誰かを助けるだの、誰かを守るだの、誰かを傷つけることも、誰かを失う事も……、きっと、そんな単純なことじゃない。でもその迷いの中で、必死でもがき続ける姿が愛おしい。僕はそんな葛藤と常に向き合って、常識的な価値観に抗いながらも、日常の中の倫理を探しづけた君を、心から愛していた」
「愛!?」
そう言った彼女の瞳が大きく見開かれる。
「人に期待されていた主体性は、人によってではなく、環境に規定されているのだと思う。少なくとも君たち、ミトコンドリアの意志によって規定されているわけじゃない。人は確かに自由な意志を持たないのかもしれない。むしろ、意志とは自由な原因じゃなく強制された原因なんだと、今となってはそう思うんだ」
「くだらないわ。どのみちあなたたち人間に自由意思など存在しない」
「もういいんだ、彩」
海崎は、宮部の前に歩み寄るとそのまま彼女を抱きしめた。
「ここで何もかも終わりよ。冷却装置は既に停止しているわ。じきに炉心融解が起こる。その先のことは、あなたも理解しているでしょう?」
「ならば共に滅びよう」
そう言って海崎は、宮部を左手で抱きしめたまま、コートのポケットからマイトファジー誘導剤の入った注射器を取り出した。
「何を言っているの?」
「僕はいつでも君のそばにいる」
口元に持って行った注射針の安全キャップくわえながら、シリンジを後方に引き抜き針を露出させる。そのまま抱きしめた彼女の首に注射針突き立て、薬液を一気に押し込んだ。
「くっ……。景、あなた何をしたの。 あなたは……あなたは間違っている。私はあなたの知るような私ではないし、私は、きっと……。私は……何色だったんだろう……」
宮部の輪郭が海崎の腕の中でぼやけていくのが分かった。正直、何が起きているのか、彼自身も理解できていない。ただ、彼女の感触が、手の平から少しずつ消えていくのは確かだった。
「この社会から、君はずっと疎外されてきた。幼いころから天才と呼ばれ、多くの人が畏怖の念をこめた視線で君を見つめていた。研究者となってからも、同業者からは妬まれ、いつだって君に居場所なんてなかったんだ。だからこそ、君は自分の色を見失っていた。ずっと色を探していた」
「わ、からない……。感情なんて、とっくの昔に……。どこかにおいてきたわ……」
消え入りそうな声でそういう宮部の声は、どこかに置き忘れたはずの感情が少しだけ入りまじっている。それはミトコンドリアの意志ではなく、宮部彩の意志として。
言葉はその性質上、排除されてしまうものが確かにある。それを感情とか、意志などと呼ぶのだとしたら、意志の非実在は、単に言葉の問題であって、人は意志や感情の本質に触れることができるのかもしれない。
「目の前の色を上手く言葉にできないのはみな同じだ。何色かどうかなんて、それを見た人の感じ方次第。でも、僕にとって君の色は常に鮮やかだった。いつだって君は豊かな色彩そのものだ。君の感情が上手く言葉に乗せられないのなら、僕が君の感情ごと受け止めてあげる」
彼女がまだ少しだけ色彩を残しているのは、過去が過去になりきれていないからだ。強い意志は色彩を失わず手元にある。ならばその色彩を、モノクロに返すのではなく、自分の色として、これからを共に歩んでいけばいい。
「愛されていたと気づくのは、いつも全てが過ぎ去ってから。あなたは空色よ。悲しい時も、つらい時も、いつだって、その暖かい青の色で私を包んでくれた」
「遅くなんてない。風の行き先に僕はいつだって君を待っている」
宮部彩を象ったミトコンドリアの姿は、もう原型を確認できないくらい空気に溶け込んでいた。
「どうして……そこまで」
ただ、意識に囁きかけてくる彩の声だけが鮮明だ。
「風と共に」
「景、ありがとう。さようなら………」
世界は色で満ちている。たとえどんな色彩であろうが、色を感じることができるのなら、それはきっと素晴らしいことだ。
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