第27話:残されたものがあります
北関東州立大学の正門を抜けた先に、陸上自衛隊需品科の特殊車両が数台停車していた。その奥に広がるグラウンドでは、自衛隊員による炊き出しが行なわれている。大規模停電の影響で、自宅に帰れなくなってしまった人や、生活困難者のために、大学構内が避難所として解放されているようだった。
そんな人だかりを尻目に、
二人は階段を登ると、蛍光灯が消えた廊下を駆け抜け、突き当りの扉の前で立ち止まる。海崎は肩で息をしつつも、左手で胸を抑えながら荒ぶる呼吸を整え、ドアノブに手をかけた。すぐ後から、神尾が息を切らして追いついてくる。
細胞生物学研究室。
この場所に来るのは何年振りだろうか。
海崎にとっての空白の時間。決して長い期間ではないはずなのだけれど、時の積み重なりは静止したままだ。
扉を開けると、応接ソファに挟まれたガラステーブルの上で、サイエンシーレポート最新号の表紙が、風にめくれてカサカサと音を立てていた。きっと、部屋の奥の窓が空いているのだろう。冷たい風が勢いよくソファの向こう側から廊下に向けて吹き抜けていく。
海崎は器具類が置かれた木製の棚と、オートクレーブの間の狭い通路を抜け、実験台が並ぶ奥の部屋へと向かった。
彼女との出会いでさえ、主体性などは無関係に、この世界が誕生した当初から決定づけられていたのだろうか。
世界が決定論に支配されているのならば、人と人との出会いや別れの意味とはいったい何だろうか。そこに嬉しさ、愛しさ、あるいは悲しみや、苦しみを感じる人の感情とは何なのだろうか。
自由な意思を否定するのは容易だ。だがしかし、偶然でも必然でもない出来事を、主体性を抜きに、どう言葉で表現すれば良いと言うのだ?
「先生……」
窓ガラスは開け放たれていて、外から舞い込んできた真冬の風は、白いレースカーテンを緩やかにははためかせている。
海崎の視線の先には、あの当時と同じく、DNAシーケンサーの巨大な端末が置かれていた。その向かいの椅子に腰かけ、彼に背を向けたまま端末キーボードにうつ伏せているのは、白衣姿の
「っつ……。こ、これは……」
その光景に、神尾も言葉を失う。新藤の背中に突き立てられていた果物ナイフは、彼の白衣を真っ赤に染めていたから。
ゆっくりと歩みを進めるにつれて、海崎の予測は徐々に確信に変わっていく。新藤教授が既に息絶えていることはもう明らかだった。彼はそっと師の頸動脈に触れながら、神尾を振り返り、力なく首を振る。
「いったい、なぜ、こんなことを……。これも、あいつの仕業だとでも言うのか?」
「なあ、神尾。僕の学位論文を覚えているか?」
そう言って、実験台にもたれた海崎は、小さくため息をついて視線を床に落とす。うつむくくらいで隠せる涙だったら、感情のコントロールはもっと容易だっただろう。
「オートファジーだったよな。脳神経細胞のβアミロイド沈着抑制に関する研究。確か医学部との共同研究だったと記憶しているが……」
細胞自身が持っている細胞内のタンパク質を分解するための仕組みの一つ。生体の恒常性維持に関与するその重要な機能をオートファジーと呼ぶ。細胞内のタンパク質や細胞内小器官は、不要となったら、あるいは必要に応じて、オートファジーにより分解され、その分解成分は細胞内で再利用されていくのだ。
「オートファジーに関連して、あまり知られていないのだけれど、新藤先生はマイトファジーに関する研究も行っていたんだ」
「マイトファジー?」
海崎は、部屋の奥にひっそりと置かれたデスクの前まで歩く。机の上には薄く埃が積み重なってた。
この場所で旧式のノート型端末を開き、カタカタとキーボードを弾きながら論文を書いていた恩師の姿が脳裏をよぎっていく。その横で、当時大学院生だった海崎は、新藤が講義で使うスライド資料を作っていた。
新藤は、大学教授として何か優れた研究実績を持っていたわけでもない。彼の講義の際は、いつだって空席が目立っていたし、話も
どことなく抜けているその性格は、几帳面にデータを収集するような研究者には向いていなかったとさえ思えてしまう。しかし、彼は科学という学問に対して、とても真摯に向き合い、自らの信条に対して決して妥協を許さない人だった。
学問の世界はどこか孤独な匂いに満ちている中で、新藤が教えてくれた細胞生物学の魅力は、出発点の確実性ではなく、その先に生じる結果や、帰結の豊穣さに対する眼差しだった。
「マイトファジーとは、オートファジーを介したミトコンドリアの選択的分解機構のことさ」
海崎はデスクの引き出しを開けると、その奥から小さな鍵を取り出し、神尾の目の前で振って見せた。
「なんだそれは……」
「いつでも戻ってきなさい。大学を去る最後の日に、新藤先生は僕にそう言った。この鍵は、先生の最後の研究に関わるもの」
「最後の研究?」
「きっと、彩も知らない。新藤先生のマイトファジー研究はほとんど
ある出来事が起きても、それが必然的に起きたのか、あるいは偶然的に起きたのかは、後から振り返ってみても決定しようがない。でも偶然が積み重なっていくと、それが必然的に思えてくる。確率や統計学的有意という概念は、そういう主観的な感情に支えられているんだ。
海崎は、デスクの下を覗き込み、壁際に設置されている小さな重量金庫に鍵を差し込んだ。
「なんで、お前がそんなことを知っているんだ?」
神尾はそう言って、海崎に歩み寄る。窓から入り込む風が、彼の長めの髪を揺らした。
「このマイトファジーに関する一連の研究は、僕のオートファジー研究が下敷きになっているんだ。東亜電力に行かなければ、たぶん先生とこの場所で、マイトファジーの研究をしていたかもしれない。ただ、この研究成果は公にされる前に文字通り凍結されてしまったんだ」
「凍結?」
金庫の中から名刺サイズのカードを取り出した海崎は、「行こう」とだけ言って、研究室の出口へと向かった。
「どこに行くっていうんだ……」
「先生が残してくれたもの。それがきっと希望につながる」
海崎は応接ソファの脇に置いてあった非常用の懐中電灯を左手に持ち、そのまま廊下へと出た。相変わらず薄暗い階段を下り、闇に包まれた地下へと向かう。
理工学部棟の地下は、巨大な薬品保管庫となっている。停電の影響で、保管庫の狭い通路は真っ暗だ。
海崎と神尾は、懐中電灯の灯りだけを頼りに歩みを進め、通路の一番奥で立ち止まる。彼らの目の前には、隙間なく閉じられている鋼鉄製の扉があった。
「この先は、冷蔵施設だぞ。関係者以外立ち入り禁止のはずだ」
神尾はそう言いながら冷たい扉に触れる。とても素手で開けられそうなものではない。
「ああ、分かっている」
海崎は、扉横の端末に触れると、液晶パネルを起動させ、金庫から取り出したカードをリーダーに通した。
『ユーザー認証……。使用許諾確認。新藤啓二。入室を許可します』
自動音声が再生されると、程なくして鋼鉄製の重たい扉がゆっくり開いていく。その隙間からマイナスの冷気が足元から押し寄せてくる。
「この冷蔵保管庫には非常電源設備があるんだ。ただ長時間は持たないだろう。じきに冷蔵設備も止まってしまうだろうけれど、とにかく間に合ってよかった」
二人が足を踏み入れると、通路の両側に配置されたガラスの試薬保管庫が自動で点灯した。その真っ白な光が放つ、強い眩しさに思わず目を細める。
「こんな場所。俺は知らなかった」
「学生で知っている人間はおそらくいないよ。もちろん彩も例外じゃない。教職員でさえほとんど知らないんだ」
「この場所に、いったい何があるんだ?」
「新藤教授が作ったものは、その社会的な応用も想像できなかった上に、かなり危険な代物だったんだ。だから研究自体が凍結されてしまった。でも、まさかそれが希望に変わるだなんて。主体性って、たぶん人間の意識の及ばないところにある。そう言う意味では主体性はないとも言えるのかもしれないけれど……」
壁一面に設置された試薬保管庫には、小さなガラス瓶が整然と並び、様々な色の液体で満たされていた。
「お前の言っていることはよく分からないが、しかし、これ全て新藤先生が作ったものなのか?」
「もちろん失敗作もあるけれど……。あった、これだ」
保管庫から取り出されたガラス管の中には薄い緑色の試薬が入っていた。
「まるでヤヌスグリーン溶液みたいだな」
神尾がガラス管を覗き込む。彼の吐息が真っ白になって空気を曇らせていった。
「これはマイトファジー誘導剤さ。ユビキチンリガーゼを中心にいくつかの蛋白質で構成されている。人体をはじめ真核細胞を有する生命体に投与すると、全ての真核細胞からミトコンドリアが消滅するんだ」
「ミトコンドリアが、消滅……」
「もともとはミトコンドリアが異常増殖する遺伝病に対する治療薬を想定していたんだけれど、臨床的な価値は全くない失敗作だよ。つまり、こいつを投与された真核細胞は、直ちに生存不能状態に陥るのさ。苦しみなく死を与える危険な物質ともいえる。だからこそ、これまで厳重に保管管理されてきた。そして、宮部……いやミトコンドリアが新藤先生を狙ったのも、それが理由じゃないかと思っている」
「マイトファジーに関する知見を持った世界で唯一の生物学者だからか……。しかし、奴はネットワークに寄生しているんだぞ。こんなもん、どこで使うんだ」
「あの幻影だよ。宮部彩の表象をまとったミトコンドリアの実態。まずはコンピューターウイルスで、やつをネットワークから追い出すんだ。現れたミトコンドリアの幻影に、この誘導剤を接種する。それで何もかも終わるはず」
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