第26話:目的があります

「君の目的はなんだ?」


 因果いんが性と呼ばれるような出来事の連鎖。その網目の中で、目的という概念は、主体が有する意志の実在を前提としている。とはいえ、宮部彩みやべあやを象った身体は、この世界において、既に存在論的身分を有してはいない。

  

 海崎景かいざきけいは、目の前に佇んでいる彼女をじっと見据えた。その外見は記憶の中の宮部彩と何も変わらない。

 傾げた首をゆっくり正した彼女は、歩みを進めながら、海崎の問いに答える。


「目的……。なぜ景はそんなことを問うの? 今の私が人間のように見えるから? どんな生命体にも志向性があるわ。どこに向かうか、全く見当もつかない未来に対して、目的を設定するのが人類だけだと、そう思っているのかしら」


 ぴちゃぴちゃと床に滴る水滴の音と、素足で歩く彼女の足音が重なっていく。一見すると、宮部彩の容姿ではあるけれど、目の前のそれには色が欠けている。虚構でも現実でもない何か。あえて言葉にするのであれば、それはミトコンドリアの幻影と呼ぶべきもの。


「お前は、いったい何者なんだ?」


 動揺にまみれた神尾大かみおだいの声はやや小さい。理解を超えた情報負荷に、心を揺さぶられているのは海崎も同じだ。


「何者……。 神尾先輩は何も分かってないようね。このあいだも言ったはずよ。 私という現実は、あなたが作り出したのであって、景の妄想でも幻覚でもなんでもない。先輩もそのことには気づいていたはず。だから、ずっと景を避けてきた。そうでしょう?」


「俺は……」


 プラントでの爆発事故以来、彼ら二人が直接顔を合わせたのは、つい先日のことだった。停電に関する対策会議に参加するため、中央給電指令所を訪れた時のことだ。

 半ば無理やり会議への参加を強いられた神尾は、そこで小学生たちにグリーン・オルガネラの説明をしてる海崎の姿を見つけた。

 とはいえ、彼ら二人の時間は、決して三年間の空白を有していたわけではない。メールやメッセンジャー・アプリケーションを使ってのコンタクトはもちろんあった。ただ、神尾にとっても感情の整理がつかなかったのは否定しがたい事実だ。海崎に会えば、過去をえぐるような記憶を思い出さずにはいられない。


「彩。意味や価値は、それ自体で存立するものじゃない。一定の目的連関のなかで生じているはずだ。君の構想は、いや君が目指していたものは、人類の大きな希望につながるものだった……」


「希望? 人類? ふふ……。あなたらしい。人が主体的に、希望を追い求めて、その実現のために振舞ってきたなんて思っていたら、大きな間違いよ。あなたたち人類には、目的や意志という単純な言葉さえ、明確に定義付けることができないのだから。ましてや、景にとっての希望や目的って何?」


「人生の意味や、目的を決定するのは、僕たち人間それぞれの問題だと思う。そこに普遍的な定義を貼り付けて、外部から押し付けられるような何かじゃない」


 人間は、不幸のどん底につき落とされ、その痛みに転げまわりながら苦しんだとしても、 いつしか一縷の希望の糸を、手さぐりで捜し当てているものだ。苦しみから目をそらさず、絶望の果てで見出した生きる目的は、ただそれだけで崇高なものになり得る。


「相変わらず、哲学者きどりなの? どんな世界でも希望を見失わないことが大切だと、本気で信じているのかしら……」


 そういった宮部は、海崎の正面で歩みを止めた。彼女の大きな瞳には、感情の気配を感じない。たとえ容姿が同じだったとしても、目の前の何者かは、海崎の知る宮部彩とはやはり決定的に何かが違う。

 言葉を失った彼らを尻目に、彼女は淡々と話を続けた。


「生の価値をあらしめるもの、そして生存以上に大事なものは、目的をその本性の崇高さに従って果たすこと……。ばかばかしいのよ。そもそも目的なんて、あなたたちに理解できない。だって、あなたちには目的というものを手の平に載せて眺めることさえできない。そうでしょう?」


 うつむきかけた海崎の瞳は、再び宮部の視線を捉える。

 運命があらかじめ定まってるのだとしても、常にそれに抗い希望を探し続けるのが人間ではないか。

 海崎は自身の精神を病んで、闇の中で、そんなふうに光を捉えてきた。とてつもなく長い苦しみの時間ではあったけれど、海崎にとってその時間は、むしろかけがえのないものでもあった。


「確かに人間は目的と手段をはき違えることはある。そして、君の言うとおり、目的は僕たちの認識とは独立して存在しえない。でも、人間には、誰しも歩むべき道が確かにある。それは、良くも悪くも、歩むより他ないという仕方で、半ば強制されているといっても良いかもしれない。立ち止まることは社会が許容してくれないから。でも、だからこそ、その道がどこへ通じようとも、目指すべき場所に向かって歩くことに大きな意味がある」


「バカね、景。目指すべき方向性がそもそも正しいかどうかなんて、あらかじめ人間には分からないのよ。正義というくだらない目的のために、一体どれだけの人類が犠牲になったか知っているの? だから、あなたは未だにシチューくらいしか作れないのよ」


 海崎の斜め後ろにいた神尾がそっと歩み出る。


「宮部、お前は大事なものを見失っている。優れた演算処理能力をもつ人工知能でさえ、心と呼ぶべきものを持っていない。しかし、知的なことは何もできない原始的な生命だって、原始的な心をもっている。心を持つかどうかは、彼らが目的を明確に意志しているかどうかなんだ」


「心なんていうものは、あなたたち人間が生命の振る舞いを都合よく解釈しただけの話よ。あなたたちが求めているのは合理的な答えじゃなくて、いつだって理由に過ぎない」


 神尾は歯を食いしばったままうつむいた。

 世界はいわばモザイクのようなものだ。様々な出来事や現象が、それぞれの色を纏いながら、時空間をバラバラに漂っている。そのモザイク模様に、どんな意味や価値を見出すかは人間の認識の仕方次第。規則性の捉え方は常に恣意性を孕んでいる。

 心の存在が疑えないのも、生命体が振舞うその仕草が、心と呼ばれるようなものに起因していると錯覚しているだけ。彼女の主張には強い説得力があった。


「そんなふうに偉そうなこと、言えるのかしら先輩。あなたは自らの欲望形成のために私を生み出したのよ。私への愛情? 笑わせないでよ。あなたは、ただ研究者としてその名をこの世界に知らしめたかっただけでしょう? でもね、この社会があなたたち人類に希望をもたらすことはないわ。目の前にあるのは絶望だけ」


「君は……。やっぱり勘違いをしている」


「ふふ。勘違い。面白いこと言うわね、景。少なくとも勘違いをしているのはあなたたちの方よ」


「社会が人に希望を与えるんじゃない。人が社会に希望を与えるんだっ」


 海崎の力強い声に、宮部を象ったミトコンドリアの幻影が一瞬だけ固まる。時間もまた同時に静止したかのように、生暖かい気流がピタリと止まった。床に滴り落ちる水滴の音だけが薄暗い室内に響き渡る。


「彩、もう一度問う。君は、何を意志する?」


「……アポトーシス」


「アポトーシスだと。そうか……。海崎……、やつは、おそらくとても危険だ」


 多細胞生物の体を構成する細胞、その死に方。個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理された細胞の自殺アポトーシス。それはいわばプログラムされた細胞死と呼ぶべきもの。


「さすがは神尾先輩。理解が早いのね。でも、たぶんもう間に合わないわ」


「人体から離れ、ネットワークに寄生したミトコンドリアに何ができる……」


「私は見つけたのよ。安住の地を。だから不要なものを処分するだけ。でも、私にも残り時間が少ないみたい。あなたたちは、私を追ってくる? それとも傍観している? いずれにせよ、私にはいかなければいけない場所があるの」


 そう言うとミトコンドリアの幻影は、唖然と立つ尽くす二人の間を足早にすり抜け、そのまま扉の外から廊下へと抜けていった。生暖かい気流が再び、彼らの間を縫っていく。


「追うぞっ、海崎っ」


 小さくうなずいた海崎は、駆けだした神尾の背中を追った。


「あいつは所詮ネットワークに潜むある種のプログラムだ。ミトコンドリアDNAの遺伝情報をコードしてはいるが、情報という観点からすればソフトウェアのプログラムと何も変わらない。ならば、あいつをネットワークから消し去ることは決して難しいことじゃない」


「コンピューターウイルスを使うのか?」


「ああ。でもな、宮部いやミトコンドリアと呼ぶべきか。いずれにせよ、ネットワークに寄生した段階で、やつがコンピューターウイルスの存在を知らないわけがない。最終宿主がネットワークだとしても、寄生することが、その目的を達成するがための手段にすぎないのだとしたら……」


 先を行くミトコンドリアの幻影は、もう人間の姿を崩しかけている。ネットワークに寄生するミトコンドリアの意志グリーン・ウィル、あるいはその表象。いわば端末とも言えるその姿は、どこか儚くもあり幻想的だ。


「じゃ、あいつの目的はネットワークに宿ることではなく、アポトーシスを実行することにあると。しかし、アポトーシスって、細胞の自然死のことだろう?」


「俺の推測にすぎないが、思うに社会そのもの自壊を望んでいるのではないか? そう、いわばそれはソーシャル・アポトーシス。その方法までは、今のところ思いつかないがな」


「社会の自滅……」


 二人が階段を駆けあがった先にの廊下で、ミトコンドリアの幻影は、中央操作室へ滑り込むように消えた。


「あそこの端末からネットワークへ侵入しているのか」


 海崎は、中央操作室のドアに体当たりをすると、その重たい扉を勢いよく開けた。室内には生ごみの腐ったような悪臭が立ち込めている。後から駆けつけた神尾も、あまりの臭気に顔をしかめ、口元を手で覆った。


「なんだこの臭いは……」


「ひどいな」


 ミトコンドリアの幻影は、何事もなかったかのように、先ほどと同じく宮部彩の姿を象っていた。彼女はコンソール中央に設置された端末の前に立ちながら、二人をあざ笑うかのように不気味な笑みを湛えている。


「風が運んでくるもの。風の間に見えるもの。ねえ、景には何が見える? 風が向かう先に、あなたたちが言うような目的があると思う? 」


「風に意志があるのなら、きっとたどり着くはずだ」


 ――それはもしかしたら、行先との約束。


 ミトコンドリアの幻影は、何かを答えるでもなく、そのまま端末に吸い込まれるよう消えていった。

 中央操作室の電源系統は通電状態にあり、コンソールに設置された端末も全て起動している。


「海崎、電話回線は生きている」


 神尾は受話器を持ち上げると、それを耳に押し当て、回線番号を入力した。


「どこへかけてる?」


「給電指令所だ。事態は一刻を争う。早くしなと手遅れに……。あっ、来宮さん、ゆっくり説明している暇はありません。早急にコンピューターウイルスを作成して、ミソラを含め、電力予測需要データベースを全て破壊してください。僕らもすぐにそちらに向かいます」


「神尾、あれを見ろ……」


 震える手で海崎が指さした発電ユニットの奥で、大量の羽虫が舞っていた。さっきからサーバの稼働音かと思われた耳につく音は、宙を舞う大量の虫から発せられる羽音だったのだ。

 神尾の手から戻しかけた受話器が滑り落ちる。ガタンという大きな音に、羽虫が空中を散開していく。


「あ、あれは……」


「ひどい……」


 二人の視線の先には、技術戦略研究所に勤務していたスタッフたちの遺体が、無造作に積み重ねられていた。


「神尾、州立大へ行かなくては」


「なぜ? 一刻も早く、ウイルスソフトウェアを……」


「新藤教授が、危ない……」

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