第24話:息づいているんです

「ミトコンドリアだよ。細胞内でアデノシン三リン酸を効率的に産生させる唯一のオルガネラ」


「は? なに言ってんだよ」


「グリーンオルガネラは、宮部彩みやべあやのミトコンドリアそのものなんだ」


 神尾大かみおだいの胸ぐらをつかんでいた手から力が抜け、海崎景かいざきけいはそのまま助手席のシートにもたれかかった。


 科学者が最後に守るべきものがあるのだとすれば、それは倫理と呼ばれる何かであろう。しかし、倫理を定義づけているものとは一体なにか。

 最大多数の最大幸福、功利主義的な考え方で言えば、科学技術によって社会や国家に対する恩恵を最大化することこそが倫理かもしれない。だがしかし、そこに人としての誠実性を欠如させて良いのだろうか。どのような結果がもたらされるにせよ、道徳を守ろうと意志することは、それ自体として価値を持つことだ。


「なんてことを……。お前はそれでも、科学者なのか」


「自分が何をしているのか、理解はしていたつもりだ。当然、本社の倫理審査は通らないことも分かっていた。ただ、俺にだって、どうしても捨てきれない感情があったんだ。俺はずっと、彼女を愛していた。お前と同じように。いや、お前以上に……。失いたくはなかったんだ。彼女の面影を。ずっとそばに置いておきたかった」


 一見すると平穏に見える情景の中にこそ歪みや軋みがあるものだ。感情を容易に制御できるほど、人は強くはない。平穏さが当たり前のように見えるのは、ただ単に、社会や常識が平均的な感情を持てと、抑圧的な態度で要請してくるからだ。


「神尾……」


 過ぎ去ったこ事実に負の価値をつけ、まだ見ぬ世界に正の価値を付けるという傾向性。人にとって、期待を捨てることは極めて難しい。期待するがゆえに、感情は波だって行く。そして、生きた感情を持つほど、人が歪みや軋みの中に埋没し、そして深い苦しみの中を歩むことになる。

 幸せの多くは合理的に導かれるものではなくて、感情によって導かれるものだから。


 車内に漂う沈黙を破るかのように、神尾はシートベルトを外しドアを開けると、車の外に出た。駐車場には他に数台の車が止まっていたが、敷地内に人影は見当たらない。正門の横にある守衛室にも、誰もいなかった。

 海崎も助手席側のドアを開けると、灰色のアスファルトに足をつく。冷たく乾燥した風が、二人の間をすり抜けていった。


「あの事故現場に残された宮部彩の細胞から、俺は彼女のミトコンドリアを抽出した。それを人工的に培養し、そして増殖させたんだ。アデノシン三リン酸合成に必要な試薬類は、宮部が作ったものを流用した」


 神尾は駐車場の出口に向かって歩きながら話しを続ける。その背を追うように海崎も歩き出した。


「その結果、宮部が作った分子モーターとは比にならないくらいのアデノシン三リン酸を産生できるようになった。関東全域の電力需要を賄えるほど安定的に給電を維持できるようになったのは、公称されているような東亜電力の技術革新でもなんでもない。次世代発電システムを動かしているのは、人間の細胞内小器官そのものという、実にアナログな方法なんだ。それは時に脆い。常に不確実性を孕んでいる状況の中で、既に実用化されたシステムを維持するために俺も必死だった」


 かつての職場の風景は三年前とほとんど変わらないように見える。しかし、決定的に変わってしまったのは、この風景に宿る意味や価値だ。時の流れは景色そのものよりも、むしろその景色によって心の中に湧き上がる人間の情動を変化させていく。


「しかし、実用化されて二年目、東北への給電計画が立ち上がったころからシステム全体の挙動がおかしくなる」


「例の周波数の乱れ……」


 神尾は立ち止まると、ゆっくり海崎を振り向いた。


「ああ。最初は電力需要予測の問題だと、俺も考えていたよ。電力需要予測にミソラが導入された直後から発生し始めたからね。最初はごくわずかな周波数の乱れだった。しかし、それが徐々に大きくなっていったんだ」


 二人の行く先にそびえているのは鉄筋コンクリート製の巨大な建屋だ。かつて、あの建屋の地下には、巨大な水槽が設置されており、アデノシン三リン酸を産生するプラントとして機能していた。

 プラントの水素爆発で、建屋内部は大きく損壊したが、外観は傷一つつくことはなかったそうだ。まるであの爆発を予測していたような堅牢な建造物。


「あの地下に、宮部彩のミトコンドリアが息づいている」


 記憶は常に美しいとは限らない。それを忘却と言う作業によって無に変えたとしても、下層に沈殿しているだけの記憶は、ふとしたきっかけで舞い上がってくる。強い負の感情を伴って。


「息づいている……」


「ミソラのシステム制御室。あの場所で端末モニターに彼女が現れたとき、俺はようやく事態を理解した。いや、お前が宮部の名前を口にするたびに、その可能性を考えないわけではなかった。でも認めたくはなかったんだ。宮部彩は死んだ。それ以上でもそれ以下でもないと、そう自分に言い聞かせてきた。お前が過去を幻想に変えたように、俺自身もまた自分の作り上げた世界を正当化しようとしていた」


 そう言って、神尾は再び歩き出す。


「宮部彩の身体そのものは、この世界に存在しない。だけれど、彼女は確かに存在している。僕が見ていたのは、決して幻想なんかじゃない。確かにあの事故以来、まともな精神状態ではなかった僕は、彼女をある種の幻覚と入り交ざった視点で見ていたのだと思う。でもネットワークを通じて言葉を交わし、音声通話によって彼女の声を聴き、それだけで確かな存在だと感じられた。言葉や声の向こう側、その確かさは現実だった」


「いや、お前が感じていたのは宮部彩じゃない。それこそ、お前が作り上げた幻想や幻聴だ。あるいはお前も含め、俺たちは彼女、いや彼と呼ぶべきか……。いずれにせよミトコンドリアに利用されていた」


 ミトコンドリアが人間の細胞内に共生しているという解釈は、人間の都合に過ぎない。観察結果を、人の都合の良い言葉で表現しただけだ。

 ミトコンドリアにとってみれば、最初から共生なんて概念は存在しないし、それはむしろ寄生に近いものだったかもしれない。


「利用……」


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