第23話:作り上げたのです

「なあ、海崎。俺が大学院に進学するとき、新藤教授の研究室に進路を決めた理由が分かるか?」


 停電により信号機はその機能を果たしていないため、主要幹線が交わる大きな交差点では、警察官が交通整理を行っていた。とはいえ、街中に存在する全ての交差点に対応できるわけもなく、多くの場所で無信号状態となっている。神尾大かみおだいは、車のスピードを落とし、注意深くハンドルを切りながら交差点を右折した。

 程なくして運転席から警告アラームが鳴り響く。海崎景かいざきけいは助手席に座ったままシートベルトを着用していなかったことに気が付いた。


「ミトコンドリアに興味があったんじゃないのか?」


 そう言いながらシートベルトのバックルをはめ込むと、窓の外を流れる早朝の風景に視線を向ける。人や車がいつもより多い。鉄道が動いていないせいだろうか。いずれにせよ、昨晩から続く停電で、都市機能は完全に麻痺状態にあった。


「まあ、そうなんだが……。サイエンシーレポートに掲載されたトキソプラズマの論文、覚えてるだろう?」


 新藤教授の応接ソファには、いつだってサイエンシーレポートのバックナンバーが雑に積み上げられていた。神尾がページをめくった後、必ずと言ってよいほど書棚に戻さないためだ。ただ一つ、トキソプラズマをモチーフにした表紙の号だけは、大事に持ち歩いていたのをよく覚えていた。


「トキソプラズマに感染したネズミは、恐怖に対する感度が低下するってやつか……。ネコに捕食されやすくなるって話。ただ、あれは理論仮説にすぎないんじゃないか? 観察対象を解釈するのが人である限り、研究結果は純粋無垢な真実ではありえない」


 道端の公園では、白い簡易テントが張られ、帰宅困難者に対して炊き出しが行なわれているようだった。公園の駐車場には迷彩柄の四輪駆動車が数台停車している。市民の安全確保に、警察だけでは対応できず、陸上自衛隊も出動しているようだ。


「観察の理論負荷ってやつか。お前らしい意見だな。ただ、その後に報告された研究では、トキソプラズマに感染した人間は、感染していない人間に比べて、交通事故リスクが高いことが示されている(※)。」


「なるほど。恐怖心の低下が事故リスクを引き上げている………。仮にその話が本当だとして、それがミトコンドリアとどう関係がある?」


「共生と寄生の話だよ。昔よく議論したじゃないか」


 米国の生物学者、リン・マーギュリスが提唱したミトコンドリアの細胞内共生説。ミトコンドリアの起源が、人間の細胞外生命体に由来しているという仮説は、海崎にとっても興味深いものだったし、細胞内共生説との出会いは、新藤教授のもとで学ぶ、きっかけになった出来事でもある。


「もし仮に、トキソプラズマが人にもそんな影響をもたらすのだとしたら、僕たちは一体、何者に捕食されるべきなのだろうって、そう言えばそんな話もしたな」


「ああ。そして、俺はミトコンドリアの最終宿主について考えていた。人間が彼らの最終宿主であるとは限らない。彼らの独自遺伝子には、一体どんな情報がコードされているのか興味があったのさ。生命活動に必要なアデノシン三リン酸を無償で提供しているのか、それとも……。そのためにミトコンドリアを細胞外で大量に培養できる化合物のスクリーニング技術を研究してきた」


 窓を流れる風景に、少しずつ懐かしさが帯びてくる。東亜電力 技術戦略研究所へと続く幹線道路。幸いなことに付近に大規模な渋滞は発生していなかった。


「なるほど、神尾が進路を決めた理由は分かった。それで、ミトコンドリアの話と、この状況が何か関係しているのか?」


 神尾は黙ったままハンドルを切ると、技術戦略研究所の正門を抜け、灰色の建物が並ぶ敷地奥に車を進める。

 

「一つ聞だけきたいことがある。三年前の爆発事故で、アデノシン三リン酸供給プラントは完全に破壊された。そして、あのプラントを作った唯一の人間、宮部彩みやべあやもあの場所で死んだ。彼女の体は爆発の衝撃で四散。原型をとどめていなかったはずだ。それを僕と君はこの目で確かに見ている」


 車を社員駐車場に止め、サイドブレーキを引いた彼は、車のエンジンを切り、そして小さなため息をつく。


「宮部は死んだ。あのプラントも消失した。そう、全てお前の言う通りさ」


「ならば、発電系に必要なアデノシン三リン酸を供給している設備は一体なんだ? あれほど大量のアデノシン三リン酸を供給できる装置を一から作り上げることは不可能だ。ましてやこんな短期間で……」


「まさか、こんなことになるとは、俺も想定していなかった。いや、それは嘘かもしれない……。とにかく、俺はどうしても作り上げなくてはいけなかった。それが宮部の夢であり、社会の希望であると、そう信じていた」


――グリーン・オルガネラの完成は僕らの夢であり、社会の希望。

 しかし、本当にそうだったのだろうか。


『私ね。間違っちゃった。私の作ったもの、それは発電所なんかじゃない』


 宮部の最後の言葉が、海崎の頭をよぎっていく。


「お前、いったい何を作り上げたんだ。グリーン・オルガネラとはなんだ?」


 海崎は助手席から身を乗り出し、運転席に座る神尾の胸ぐらをつかんだ。


「ミトコンドリアだよ。細胞内でアデノシン三リン酸を効率的に産生させる唯一のオルガネラ」


「は? なに言ってんだよ」


「グリーンオルガネラは、宮部彩のミトコンドリアグリーン・オルガネラそのものなんだ」



*************************

(※)トキソプラズマ感染症と交通事故リスクに関して、以下のような論文が実際に報告されています。ご興味のある方は是非!

★Gohardehi S, et al : The potential risk of toxoplasmosis for traffic accidents: A systematic review and meta-analysis. Exp Parasitol. 2018 Aug;191:19-24. PMID: 29906469

★Flegr J, et al : Increased risk of traffic accidents in subjects with latent toxoplasmosis: a retrospective case-control study. BMC Infect Dis. 2002 Jul 2;2:11. PMID: 12095427

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