風と共に

第21話:夢はいつか覚めます

 欠落した日常を埋めるような何か……。

 ぬくもり、あるいはそんな言葉で形容されるような、ある種の余韻。

 非日常が表出しないよう、無意識に日常を作り上げつつも、それは、作り上げる以前に現実としか言いようのないものでもあった。


 海崎景かいざきけいが瞼を開けると、灰色の壁が視界に入ってくる。焦点が定まらなくても、自分が中央給電指令所にいること、そして視線の先にあるのが医務室のグリッド型システム天井であることは理解できている。

 今足りないもの、それを埋め合わせるかのように作り上げてきた現実リアリティー。いつだって科学的な態度をとってきたはずだったのに、無意識のうちに、目の前の世界に対して意味の増減を行ってきた。


 意識が戻るにつれて、体に鈍い重みを感じ、海崎は視線を下方に向けた。同時に、左手に温かみを覚える。


「田部さん……」


 ベッド脇に置かれた折り畳み式のパイプ椅子に座り、海崎の左手を握りしめながら、シーツの上にうつ伏しているのは田部純子たべじゅんこだった。微かな寝息とともに、彼女の小さな肩がゆっくりと上下している。


「目が覚めたかい?」

 

 ベッドサイドから海崎の顔を覗き込んだのは、白衣姿の門脇正蔵かどわきしょうぞうだ。


「彼女、ついさっきまで、ずっと起きていたんだけどね」


 門脇医師がそう言い終わらないうちに、田部は目を覚ましたのか、ゆっくりと顔を上げた。海崎に向けられた大きな瞳から、涙があふれだす。


「良かった……」


「田部さん。心配かけてしまって。ごめん」


「いえ、海崎さんが無事で……。はっ。いや、これはそのっ」


 海崎の左手を握り締めていたことに気が付いた田部は、慌ててその手を離すと姿勢を正した。


「あ、えっとね。海崎さんが倒れたって聞いて、来宮きのみやさんが、門脇先生を呼んでくれたの」


「僕は、どれくらい寝ていたのだろう……」


「まだ、夜明け前。だから八時間くらいかしら……」


「過労、というところかな。何も心配はないよ。もう少しゆっくりしていくといい。どのみち、焦っても問題は解決しなさそうだ」


 そう言いながら門脇医師は、田部とは反対側のパイプ椅子に腰かけた。節電のためか、蛍光灯は海崎が寝ているベッドの真上しか点灯していない。大規模停電はいまだ復旧していないようだ。


「神尾、あいつは今どこに?」


「指令室で、来宮さんたちとグリーン・オルガネラの復旧作業中よ」


 海崎は、上半身を勢いよくベッドから起こすと、門脇医師を見つめた。


「門脇先生、少しだけ話がしたいです」


 そんな二人の様子を見ていた田部だったが、門脇医師に向かって軽くうなずくと、椅子から立ち上がり、医務室から出ていった。

 扉が閉まる音が、薄暗い医務室に響く。空調の作動音も聞こえない室内で、吐息の白さは明確な境界線を伴って、冷え切った空気の中に消えていった。


「先生、過去の出来事についての話を、もう一度したいと思います」


「よろしいのですか?」


「はい」


 少しだけずれ落ちた眼鏡を額に押しもどしながら、門脇医師は海崎を見つめた。そんな彼の姿を見て、海崎は診療所の風景を思い出す。壁に掛けられた色あせたカレンダーと丸い時計。会話がない時には、秒針の音と、診療録に走らせるボールペンの音が微かに響いているだけの小さな空間。

 ヤスパースの精神病理学原論とモーズレイ処方ガイドライン、そして精神薬理学エセンシャルズの原書は、相変わらず斜めに立てかけられているのだろう。でもあの空間がどれほど暖かいものだったか、今の海崎には痛いほどに良く分かっていた。色あせたカレンダーには、鮮やかさを取り戻すための時間がしっかりと刻み込まれているのだ。


「良いでしょう。さて、どんな話でしょうか」


「そこに、マグカップが置いてあります。おそらくは先生の視界にも入っているかと思います」


 床頭台の上にはピンク色のマグカップが置かれていた。田部がいつも使っているウサギ柄のものだ。


「もちろんですよ。ウサギのマグカップ。先ほどまで、田部さんはここでコーヒーを飲まれていましたから。彼女が寝てしまう直前に淹れ直しましたから、まだマグカップの中にコーヒーが残っているはずです」


「それです。、という存在の仕方。この現実世界に確かな存在物として、マグカップには実在性がある。だけれど、真に実在性を有しているのは、その前景だけで背景については想像するより他ない。背景はいつだって仮説的な存在者だし、前景には常に事実性が伴っている。つまり、目の前の世界は現実だけから成り立っているわけではない、ということです」


 映画や小説の世界が物語であるのと同じように、物理学的現象もそれが理論仮説である以上、少なからず物語性を帯びている。目の前の出来事は人の関心によって切り取られ、そう言う仕方で積層された出来事の断片は、やがて解釈と言う名の認識装置によって物語化されているのだ。


「あなたは以前、私にこう言いました。私は医師よりも哲学者に向いていると。海崎さん、あなたこそ技術職よりも、哲学者に向いていますよ」


「ええ。過去にも、そう言われたことがあります。研究者よりも哲学者に向いていると。先生は、そんな過去について、過去そのものに触れることはできないとおっしゃった。全くその通りだと思います。過去は事実性を帯びていますが、それが想起されたものである以上、常に虚構性が伴っている。現実と虚構にあらかじめ、明確な境界線があるわけじゃない」


「その通りです。だからこそ、事実性は存在するか否か、というよりも、虚構性とのグラデーションの中における、いわば程度の問題として捉えた方が理にかなっているのだと思いますよ」


「目に見える世界、認識、それらは様々な理由があるにせよ、自身が編み上げているも側面がある。それを病と呼ぶかどうかは重要な問題じゃない。先生は僕にそうおっしゃってくださいました。苦しみから逃れるために、僕は宮部彩みやべあやという幻想を作り上げた。でも、苦しみから逃れることが唯一の原因ではなかったのだと今ははっきりと分かります。彩の存在性、それこそグラデーションの中にあったのかもしれない」


――過去を捨てろ


 それは現実から逃れるための声だったことには違いない。しかし、同時に幻想の中から現実に連れ戻すための声でもあった。


「あなたのかつての恋人、そして三年前、技術戦略研究所の爆発事故で亡くなった宮部彩さんのことですね?」


 死にはが常にまとわりついている。世界から消え、もう二度と現れることはない。ただ、消えて無に帰すからこそ存在の意味が際立つ。


「はい。僕はこの三年間、彼女とずっと一緒に過ごしてきました。それは僕自身が作り上げた虚構だったのかもしれません。しかし、同時に現実の一部でもあるんです。いえ、幻覚や幻聴の類とは違う厳然とした事実と言った方が良いかもしれません」


「海崎さん、あなたのおっしゃっていることが、よく理解できないのですが……」


「僕にも正直良く分かりません。ただ、良く分からなくなってしまった、ということがむしろ正常と呼ばれる精神の機能なのでしょう。そういう意味では、僕はやはり精神を病んでいたのだと思います」


 門脇医師は表情を変えず、ただ黙って海崎を見つめていた。


「先生? 現実と幻覚、両者が明確に異なると判別できるものが一つだけあります」


「ほう。何でしょう」


「それは夢です。精神を病んでいたかどうかということより、むしろ大切なのは、この三年という時間、僕は夢を見続けていたということかもしれません」


「リアルとフィクションの間。現実のような夢。あえて境界線を引かない世界。私はそれを否定するつもりもありませんが……」


「もちろんです。先生なら、そうおっしゃってくれると思っていました。でも、夢が現実そのものだったら、いや、そのものだったと気が付いた時、先生ならどうしますか?」


「……。ふむ。やはり現実を見据えるしかなかろうか」


「僕もきっとそうします。先生、話を聞いてくださり、ありがとうございました。これから神尾に、会いに行きます」


 海崎はシーツから足を上げると、床に置かれた靴に足を通し、ゆっくりと立ち上がった。


「君の中で、捨ててしまった過去を取り戻したんだね?」


「はい。先生、この三年間、本当にありがとうございました。先生がいなかったら、僕はこの世界から消えていたことでしょう」


「いや、私はただ君の話を聞き、そして私も少しばかり話をしただけです。今、この時間のようにね」


 深く頭を下げた海崎は、ゆっくりと顔をあげると、踵を返して医務室の出口へ向かった。


 アルミ製の冷たい扉をあけると、向かいの壁にもたれかかるようにして、田部が立っていた。


「田部さん、足の具合はどう?」


「大丈夫です。ただ擦りむいただけですから」


 コートのポケットに両手を入れたままの彼女は、そう言って微かに笑った。


「それは良かった。でも君はもう少し、ここで休んでいくといい。それと……。ずっとそばにいてくれて、ありがとう。うれしかった」


「海崎さんっ、あの……」


「停電の件、無事に解決したら、またラーメンでも食べに行こう」


「はい……」


 常夜灯しか点灯していない薄暗い廊下で、田部は闇に消えていく海崎の背中をずっと見つめていた。

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