第20話:生きてください


「三十分経過……」


 中央操作室のコンソールに座り、端末モニターを睨み続けていた神尾大かみおだいの表情は、先ほどよりも幾分か和らいでいる。

 彼がスクリーニングした反応促進酵素は、分子モーターの回転速度を予想以上に向上させ、発電系を駆動させるのに十分なアデノシン三リン酸を確保することが可能となった。


「電圧は維持できているみたいだね。神尾がスクリーニングした酵素はすごい。これほどまでとは思わなかったよ」


 海崎景かいざきけいはそう言いながら、制御台の電圧計に視線を向ける。デバイスごとに多少のばらつきはあるものの、規定値を十分にクリアしていた。このままの電圧を長時間維持することができれば、実験の最終段階である、給電シミュレーションへの移行も近い。


「新藤先生のおかげさ。短時間で効率よくスクリーニング作業ができたのも、先生の協力なしでは無理な話だった。しかし、まだ大きな問題が残っている」


「ええ、神尾先輩の言う通り。これでは無理よ。正直、これだけの高電圧を生み出せるなんて驚きだったけれど、電流はあまり上昇していない。これじゃ、首都圏を想定した電力需要には満たないわ」


「宮部の言うとおりだ。俺もさっきから気にはなっていたのだが……。電圧がこれだけ上昇しているのに電流があまり変わらないというのは、少し違和がある。あるいは電気抵抗が強いのか……」


 電圧計の上部に設置された抵抗調節スライダーを操作した神尾は、再度モニターに視線を落とした。


「あまり変化ないな」


 理論上、高電圧が維持できているのであれば、デバイスを流れていく電流量もそれに伴って増加するはずだった。しかし、モニターに示されている情報は、電圧に見合うだけの電流が確保できていないことを示している。

 実際に消費される電力は、電圧と電流の値に依存する。現状では、シミュレーションで想定された首都圏の電力需要を十分に賄えるほどの発電量には達していない。


「アデノシン三リン酸供給量は十分だ。プラントに問題がないとすると、やはり発電系に問題があるんだろうか……」


 アデノシン三リン酸産生プラントは、建屋の地下に設置されていた。幅二十二メートル、高さ八メートル、そして厚さ一メートルの透明アクリルパネルを使用した巨大な水槽には、アデノシン三リン酸産生装置であるミクロサイズの分子モーターが無数に敷き詰められ、合成に必要なリン酸などの化合物を溶かした白色の水溶液で満たされている。


「プラントの水温が少し高いみたいだね」


 海崎の指摘に、神尾はプラント中の水溶液に関する情報メニューを表示させた。巨大な水槽内を満たす水溶液中の物質濃度は、端末モニターで一括管理ができるようになっている。

 分子モーター駆動反応においては、アデノシン三リン酸の生合成に伴い、大量の水が産生され、合成に必要な溶液中の化合物濃度が薄まってしまうためだ。水量調節と同時に溶液内の物質濃度を一定に保つための装置が、水槽の上部に取り付けられている。


「温度上昇は酵素によって反応速度が上がっているためだと思う。どうしても熱が放散されてしまうんだよ。ついでに言うと、水も大量に産生されているから、排水路が詰まったら床は水浸し。大変なことになるな」


 神尾はモニターに表示されていた水槽温度の警告アラートをリセットした。海崎はその隣で、プラントからの排水量を確認する。


「いや、それが排水路を流れる水量にそれほど大きな変化はないようだ。大量のリン酸は消費されているし、間違いなくアデノシン三リン酸の産生量は増えているから、もっと水が排水されていてもおかしくないんだけど……」


「排水路の流量センサーがいかれているんじゃないか?」


「私、見てくる」


 それまで黙っていた宮部は、そう言うと、足早に中央操作室の出口に向かった。


「彩、俺も行く」


 彼女を追うように、海崎も後に続く。


「お、おい、お前ら……」


 神尾は、小さくため息をつくと、そのまま椅子に深く腰掛け、端末画面を見つめた。言葉にできない違和。それがいったい何なのか、モニターの情報だけではよく分からない。

 違和感を言語化せよ。致命的なミスを未然に防ぐためにも、違和を放置していてはいけない。

 神尾は端末のコンソールに手をのばすと、発電系の制御メニューを開き直し、上から順に作動環境を丁寧に確認していった。


☆★☆


「彩、待てって。何をそんなに焦ってる?」


「何か嫌な予感がする」


「いやな予感?」


 階段を下りた先、プラントへと続く廊下は狭い。鉄筋コンクリートがむき出しの天井には、無数の配管設備が露出している。プラントで生成されたアデノシン三リン酸はこの配管を伝って、上層の発電系へと供給されていくのだ。


「ええ、とっても……。私も神尾先輩も、何か大切なことを見落としている」


 そう言った宮部は急に立ち止まり、後ろにいる海崎を振り返った。何かを言いかけた彼に向かって、そっと人差し指を立て、それを自分の口元に持っていく。

 靴音に紛れていたせいか、それとも焦りのせいか、それまで気づかなかったが、水が流れていくような音が聞こえる。


「何か、水流の音みたいだな」


 海崎は顔を上げ、灰色の天井をつたう配管に視線を向けた。配管を流れるプラント水溶液の音ではない。もっと激しい水の流れ、あるいは、水が沸騰しているような音を連想させる。


 宮部は小さくうなずくと踵を返し、廊下の突き当たりを折れた。正面には、巨大水槽が設置されたプラントへと続く鋼鉄製の扉があり、音は間違いなくそこから発生している。


「な、何だこれは……」


 扉を開けた先に広がっていた異様な光景に二人は目を見開いた。

 巨大水槽に満たされた白色溶液は、まるで煮えたぎったように、何かの気体を水面へ押し上げている。透明なアクリル壁面には、大量の気泡が付着していた。泡立つ勢いで、内部の水溶液がかき乱され、それが流水の音のように聞こえていたのだろう。


「このプラント内で気体が発生することは原理的にありえない」


 水槽内の温度は五十度に過ぎない。だから内部の溶液が沸騰しているわけではない。発生している気体は水蒸気ではないのだ。


「いったい……これは。何が、起こってるんだ?」


 水槽の底から湧き上がる大きな気泡が、強大な水圧をもろともせず、水面を上方に押し上げる。湧き上がった溶液は、アクリルの壁面を乗り越えて、プラント周囲にあふれ出していく。


「水素……。なぜ私は気づかなかったんだろう」


「水素だと? この気体が水素だと言うのか?」


 プラントから発生している気体が水素だと言うのなら、この部屋には、既に大量の水素が充満していることになる。原子番号、宇宙で最も豊富に存在する元素であり、地球環境においては酸素と結合し、そのほとんどが海水として存在する。そして、水素分子は最も軽い気体であり、地表の大気中には存在しえない。


「景、早くここから出ていって。この建屋から出るの。神尾先輩にもそう伝えて」


 仮に水素がこの場所に存在するのだとすれば、それは大気中の酸素と交じり合う。そして、電気系統設備の作動時に発生する、極小の火花によって引火し、膨大なエネルギーを解き放ちながら燃焼反応水素爆発を起こすことだろう。


「君の言っていることが良く理解できない。なぜ、この気体が水素だと分かるんだ?」


 宮部は巨大水槽の透明なアクリル壁面に近寄って行く。右手でその側面をそっとなぞりながら、静かに目を閉じた。


「電気分解よ」


「電気、分解……」


「この気体は水素と酸素の混じりもの。あまりにも危険よ。水槽の上を見て。じきに溶液成分を調節している装置に電流が流れるわ。バイメタルが作動すれば、そこから電気的な火花が出る。それで終わり……」


「早く出よう。ここは危険だっ」


「私ね。間違っちゃった。私の作ったもの、それは発電所なんかじゃない」


 そう言って彼女は海崎を振り返る。水槽を後ろに、海崎を見つめる宮部の瞳には大きな涙が溢れていた。


「いいから早く、行こう」


「ごめんなさい。あなたは生きて。どうか」


 彼女の後ろで、巨大な火柱が上がった。爆音とともに、アクリル水槽は一瞬にして吹き飛び、同時に大量の水溶液が宙を舞っていく。その衝撃で、海崎はプラントの扉に叩きつけられ、散乱するアクリルの破片と共に、そのまま廊下の先まで吹き飛ばされた。


「彩っ……」


 音がしない。静寂の中で、耳鳴りだけが響いている。床には大量の水溶液が飛び散り、巨大なアクリル片が散らばっていた。消えゆく意識の中で、海崎の視界には、神尾が廊下を駆けてくる姿が微かに映る。


「海崎っ!!大丈夫か?」


「彩、彩が……」


 廊下に倒れている海崎の元に駆け寄った神尾は、そのままま扉の先のプラントに視線を向けた。


「宮部っ!!!」


 灰色の冷たい床に、水が滴る音が聞こえ始めたとき、海崎の視界から光が消えた。

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