第19話:暖かいシチューにしましょう

「風の行き先はどこなのだろう」


 そう呟いた宮部彩みやべあやは、湖面に沈みかけている柔らかい陽の光を見つめながら、その大きな瞳で風の行方を探していた。

 彼女の前髪が微かに揺れるたびに、風は確かに存在するのだと分かるのに、その行く先を見定めることは難しい。

 海崎景かいざきけいはただ黙って、宮部の隣りに座りながら、水面に揺れるさざ波を眺めていた。隣のベンチで、先ほどまで本に目を落としていた老人は、いつの間にかいなくなっている。


「波の行き先があるように、風にも行き先が。そこには意思があるようで、ないようで……」


 ベンチのすぐ後ろに立つ街灯が点灯した。周囲が少しだけ明るくなるのとは対称的に、景色はゆっくりと、でも確実に色を失っていく。


「意思……。僕は、風も波も自由なのだと思う。運動法則から少しだけ逸脱している。この世界は科学的世界像だけで構築されているわけじゃない。風や波の行く先を考えることは、事実性リアリティーという、ある種の認識論的な特権性から、僕らを自由にするものだ」


「景、あなたは科学者よりも哲学者に向いているわ」


「そう……かな。初めて言われたよ」


 芝生の広場で遊んでいた子供たちの声も今はもう聞こえない。湖岸の向こう側、高圧電線を支える銀色の鉄塔が、密度の濃い空色に埋もれていく。その光景は、じきに夜が来るという記号サイン


「やっぱり、私には無理だったのよ。こんなおもちゃみたいなものが、国の電力を支えるだけのシステムになり得るはずがない。小さな風力発電所、私が作ったものは、そのレベルでしかなかったの。それで十分だったと言うべきかしらね」

 

 涙がこぼれ落ちないように、少し顔を上げながら夕空を見つめ続ける彼女の横顔は、何かを理解したという時に表出する、ある種のを表象しているかのようだった。


「僕は彩の想像力がとても好きだ。常識にとらわれないその価値観が好きだ。そして自分の考えをそのまま表現できてしまう君の才能を心から尊敬している」


 努力で報われることのない日々が絶望的に高頻度で存在する。それを生きづらさと形容するのだとしても、希望は絶望の中でこそ見えてくるものだ。


「なあ、一人で全部解決しようなんて思うな。大丈夫。俺はともかく、神尾もいる」


「神尾先輩には迷惑をかけてしまったわ」


「そんなことない。グリーン・オルガネラの完成は僕らの夢であり、社会の希望だ。神尾は、明日の朝一番で新藤先生に会いに行くと言っていた」


「州立大へ? もしかして……。それであのサンプルを」


 思い当たる節があったのだろう。宮部は少し驚きの表情を浮かべ、こぼれ落ちる涙を右手で隠しながら海崎を見つめた。


「ああ、分子モーターの回転数を加速させるための触媒しょくばい、つまり酵素をスクリーングしてくるって。ちょっと買い物に行ってくるって、そんなノリで、必要なタンパク質を見つけて来てしまうんだから、なんだか少し笑ってしまうよ」


「あの人は細胞の中の世界にしか興味はないのよ。でも、ありがとう景。神尾先輩にも感謝しないとね」


「帰って、暖かいものでも食べよう。僕ができるのは料理くらいだから。何が食べたい?」


「シチュー、かな」


 吹き抜ける冷たい風の中で、宮部が微かに笑った。悲しみの後でも人はまた笑うことができる。感情とはこんなにも不安定で不確かなものだ。


「子供か?」


「景のシチューは、とてもおいしいので」


 世界は自分が思うより暖かいはずだし、そうあってほしい。


☆★☆


 実験器具棚と、ラボ用の巨大なオートクレーブの間に作られた通路は相変わらず狭い。扉わきの応接用ソファと、小さなガラステーブルも変わりないが、書棚にはサイエンシーレポート誌のバックナンバーがきれいに並べられていた。


「先生、本当にありがとうございました。おかげさまで何とかなりそうです」


 研究室の扉の前に立った神尾大かみおだいは、新藤啓二しんどうけいじに深く頭を下げた。


「いや、何も問題ないよ。ただね、神尾くん。一つだけ君に忠告しておきたいことがある」


「忠告……ですか」


新藤は深くうなずくと、応接用のソファに腰かけ、ゆっくりと話を続ける。


「これは長年、まがいなりにも研究者として、基礎研究に携わってきた人間の感というか、極めて主観的な信条ではあるのだけれど……」


 話を聞きながら、神尾も向かいのソファに座った。先ほどまで青空が覗けていた研究室の窓からは、赤みを帯びた光が差し込んでいる。


「理論は所詮、仮説にすぎないということを忘れてはいけないのだと思うよ。このことは君も深く理解しているとは思うが、さらに言えば、実験的観察によって再現された現象が、我々の社会現象にそのまま応用できるとも限らない。科学理論と社会現象の間には、常に揺らぎのようなものがあるからだ」


「揺らぎ、とはどういうことです?」


閾値いきちと言った方が分かりやすいかもしれない。つまり、発見された新しい科学理論が、実際の社会現象と結びつくためには、ある一低レベルの事象の集積が必要だということだ。そして、その集積レベルには、社会現象を引き起こすために必要な適度な度合いがある。その度合いは常に揺らいでいて、大きい場合もあれば、小さい場合もある。だが、それは時間や空間というような、人間には手が下せない要素を含んでいて予測ができない。端的に言って、運命と呼ぶしかないものだ」


 物事が生起するというプロセスが成立するためには、様々な出来事の積み重なりが必要だ。些細な出来事であったとしても、それが欠けたり、あるいは逆に付け加えられることで、起こり得る物事は変化する可能性を常に孕んでいる。

 そして出来事の付与のされ方、欠如のされ方は確率的な問題であって、そこに必然性は存在しない。つまり、あらゆる事象の生起は、程度の差はあれ偶然という仕方をまとっている。


「先生がおっしゃりたいのは、いわゆるバタフライ効果ってやつですか?」


 力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうことがある。例えば、一匹の蝶バタフライの羽ばたきが、因果の網目を連鎖していきながら、やがて地上のどこかで巨大な竜巻を引き起こしてしまうように。


「初期値鋭敏性や予測不可能性という議論には近いかもしれない。ただ僕が思うに、予測の困難さこそが揺らぎに由来しているし、それは鋭敏性というよりは愚鈍性に近い。つまり、事象の積み重なりが、一定レベルの閾値を超えたときに社会現象は起こり得るが、その閾値を大きく振り切ってしまえば制御が効かなくなってしまうこともあるということだ。酵素に至適温度があるように、研究者は常に、その揺らぎの範囲を見定め、その閾値内で理論の社会応用を考えていかなければいけない」


「自然現象に対して常に畏怖の念を持つ……。先生が教えてくれた言葉です。心配はいりません。反応を促進させる酵素を少し添加するだけですから。阻害剤もありますし、何か問題があればすぐに中止できます」


「ふむ。関心が一つに集中している時こそ、重要なものを見失っていることは多い。神尾君、焦るな。君にはまだ十分時間がある」


「ありがとうございます。僕には海崎、そして宮部もいます。きっと成功させて見せますよ」


 新藤は黙ってうなずくと、ソファから立ち上がり、研究室の扉を開けた。


「正直言うとね、僕は君に大学に残ってほしかったんだよ。君がこの研究室に残してくれた生体化合物のスクリーニング技術は、電力会社で眠らしておくには正直もったいない……。でもまあ、君の選んだ道だ。精一杯頑張ってきなさい。何か困ったことがあればいつでも戻ってくるといい。ここは君の居場所でもあるんだから」


 そう言って、神尾を送り出した新藤は、軽く手を振って扉を閉めた。


「ありがとうござます……」


 神尾はしばらく研究室の扉の前で頭を下げ続けていた。

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