第18話:コーヒーを飲みます

 東亜電力株式会社 技術戦略研究所は、都心から少し離れた広大な敷地に、大小様々な研究施設を擁している。その一角に建設された鉄筋コンクリート製の建屋には、開発途中のアデノシン三リン酸ATP産生プラント、そして生体機能発電系と、システム全体を制御するための中央操作室がある。

 窓一つない巨大の灰色建造物の外観は、そこはかとなく冷たい印象を受けるが、この稼動実験が成功すれば、原子力発電に変わるクリーンで安全な発電所として機能することになる。


アデノシン三リン酸ATPの供給量問題なし。電圧維持。システム、オールグリーンです。コンデンサに蓄電を開始し、本稼働いたします」


 オペレーターの声が操作室に響き渡った。


「了解。グリーン・オルガネラ、稼働スタンバイ」


 五十基の発電ユニットを積み重ねた生体機能発電システムは、海崎景かいざきけいの視線の先で、微かな唸り声を上げていた。一つの発電ユニットには、縦横高さ三センチメートルほどの直方体にシビレエイ発電器官を組み込んだデバイスが、五千個ほど直列配置されている。


「発電開始」


 五十基の発電ユニットの制御を行うのは、中央操作室の一番奥に設置された巨大なコンソールだ。ここではプラント内のアデノシン三リン酸産生量や、電圧を測定するための計器類、給電シミュレーションを行う端末とそのモニターなどが置かれ、その横にはシステム全体の制御を担っているサーバーが並べられている。


「電圧、下降……」


 オペレーターの声と共に、電圧計の上部に設置された警告灯が点滅し始めた。神尾大かみおだいは舌打ちしながら警告灯をリセットし、アデノシン三リン酸の供給量調節バルブを最大解放する。


「下降、止まりません……。機関、停止します」


 発電ユニットからもれる稼働音は徐々に小さくなっていく。程なくして電圧計の針が左に振り切れ、動かなくなった。


「だめだね。どうしても電圧が落ちてしまう」


 目を充血させた神尾はそう呟き、首を落とした。


「理論上、発電効率は高いはずなんだけどね。コンデンサに蓄電される前に電圧が落ちてしまえば、システム全体がダウンしてしまう……」


 神尾の隣で、海崎は深く椅子にもたれると、目頭のあたりを指でつまみながら、小さくため息をつく。発電ユニットの稼働音が完全に消えると、耳に入ってくるのは端末のハードディスクが回転している音だけだ。


「私のせいよ。アデノシン三リン酸ATPが安定的に発電ユニットに供給できていないことが問題」


 宮部彩みやべあやは、アデノシン三リン酸ATP供給量の推移が表示されている端末モニターを見つめていたが、リセットボタンをクリックすると、顔を上げ、無音の発電ユニットに視線を向けた。


「いや、アデノシン三リン酸ATP産生系と発電系、どちらも大きな問題を抱えている。宮部のせいじゃない」


「いえ、そうじゃない。発電系に関する問題解決は容易。神尾先輩のシステムは完璧よ。あとはアセチルコリンの量を調整するだけ。ただ私のプラントは致命的な問題を抱えている」


 いつになく疲れた表情をしている彼女に、海崎は沈黙を打ち消すべく言葉を探す。気休めでもいい。何か力になれるような言葉を。

 しかし、言葉にした瞬間に何かが排除されてしまうような気がして、口に出すのをためらってしまう。そんな繰り返しとともに沈黙の時間は積み重なっていく。


「宮部……。ちょっと休憩してくる」


 神尾は席を立ちあがると、海崎の肩を叩き、一緒に廊下へ出るよう促した。


 灯りの弱い操作室前の廊下は薄暗い。なにせ窓一つない建屋だ。外の光が入ってくることはない。

 神尾は廊下の突き当りで止まると、階段踊り場に置かれている自動販売機の前に立った。ズボンの後ろポケットから茶色の財布を取り出すと、小銭を数枚投入して、缶コーヒーのボタンを押す。


「ほらよっ。コーヒーでいいか?」


「あ、ああ。ありがとう」


 季節的に言えば、ホットでは少し暑いけれど、コールドではやや冷たいという曖昧な時季。とはいえ、今は冷えたコーヒーを体が欲していた。

 海崎は、踊り場の壁にもたれかかりながら缶のプルトップを開け、その中身を口に含む。冷えた液体が、空腹の胃に染み渡っていくのが分かる。そんな彼の横で、一気にコーヒーを飲みほした神尾は、自動販売機の隣に置かれたゴミ箱に、空き缶を投げ捨てた。


「残念だが、宮部の洞察は全くその通りだ。発電系に関する問題は、アセチルコリン濃度の調整レベルで対応可能だと俺も思う。しかしアデノシン三リン酸産生系については難しい」


 神尾の表情はずっと険しい。この稼働実験が成功しなければ、これまで作り上げてきた次世代発電システムの計画はとん挫しかねない。そんな焦りの途端を、彼の苛立ちや余裕のなさから垣間見ることができた。


「あのプラントに改良を加えることで、何とかならないのかな……」


「あれは宮部の独自開発で、その中身について、凡人の俺には正直よく分からん。分子モーターを強制的に回転させることでアデノシン三リン酸ATPを生み出しているという理屈は分かるが、実際にはモーターの回転速度にムラが有ったり、持続的な回転が難しいという問題を抱えている。でも、これは致し方のない側面もある」


「改善の余地はないってことか?」


「つまり、生命現象の一部を切り取ったシステムには、常に不確実性が付きまとってしまうということだ。生きるということが、蓋然性の只中にあるのと同じように」


 海崎は残りのコーヒーを飲み干すと、手にしていた空き缶をギュッと握りしめた。スチールでできたコーヒーの缶は予想以上の硬度をもっている。アルミ缶とは違って、そう簡単にはつぶせない。


アデノシン三リン酸ATPを作ること自体はそれほど難しい話じゃない。材料さえあれば試験管の中でいくらでも作れる。しかし、あの発電系をまともに駆動させるのに必要な量を作り出すとなると話は別だ。宮部の作った分子モータは、確かに効率よく大量のアデノシン三リン酸ATPを作り出せる。しかし、まだまだ足りないんだ。それがあのシステムの限界だと言える」


「限界……。反応速度を高める酵素を添加するとか、何か方法は考えられるはずだと思うけれど」


「可能性があるとするならば、正にそれだ。反応速度を速め一定に保つ触媒。実は、そんな酵素に当てがないわけでもない。ただ、この施設ではスクリーニングと単離は難しい。これは設備的な問題だけれど。それで、明日の朝一番で新藤教授に会ってくる予定だ」


「お前、大学で酵素を単離するつもりか?」


「ああ。あそこには俺が残してきた化合物のスクリーニングに関する設備がそのまま残っているし、実験試薬にも事欠かない。教授に頼んでみるよ。宮部に分子モーターのサンプルをもらって、効率よく反応速度を高められる蛋白質をスクリーニングしてみる」


 それだけ言うと、神尾は操作室の方向へ足を向け歩き出した。海崎も慌てて彼の背中を追う。


「なあ、神尾。それが上手くいったとして、反応速度を高めることによる危険性はないのか? シャーレの中とあの巨大な水槽プラントとは、環境があまりにも違いすぎる。何か不測の事態が起きたとして、それを制御できる手立てがない」


「所詮は分子モーターさ。その反応速度を高めてやるだけだ。その結果、リン酸が消費されて大量の水ができる、それだけのこと。排水設備の点検は必要だろうが、大きな問題は起こり得ない」


「まあ、理論上はそうだろうけれど……」


「大丈夫だ。分子モーターといっても、ただの蛋白質に過ぎない。その気になれば大量の塩酸をぶち込んで、あの水槽に沈んでいる全ての分子構造を破壊することだってできる。だから心配ないさ。まあ新藤教授とも相談してくるよ」


「お前は彩の力になることができて、うらやましいよ。正直なところ、僕はなす術がない。彩にかけてあげる言葉さえ見つからないんだ」


 神尾は立ち止まると、後方を歩く海崎を振り返った。


「俺が宮部のためにできることがあるのだとしたら、それは分子モーターの回転速度を速めてやることくらいだ。でも、お前は違う。お前が宮部のためにできること、それはお前という存在だけで十分。正直、うらやましいのは俺の方だ」


「神尾……」

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