第17話:これはいけます。きっと

 研究室に戻ると、神尾大かみおだいは何事もなかったかのように、新藤しんどう教授とソファに座り、コーヒーを飲んでいた。


「海崎君、これ読んだかね? 神尾君の論文だよ。すごいねぇ、サイエンシーレポートと言えば、歴史ある一流の科学誌だよ。それにしても、ミトコンドリアの魅力は尽きないねぇ」


 ガラステーブルの上に置かれているのは、先ほど神尾が見せてくれたサイエンシーレポートの最新号だ。表紙には鮮やかな緑色をしたミトコンドリアの絵が描かれている。神尾の論文が表紙のモチーフになっているのだ。


「神尾はすごいんですよ、本当に」


「海崎、なんか気持ち悪いから、その辺でやめておけ」


 神尾は苦笑しながら、照れた顔を隠すようにマグカップを口元へ運ぶ。

 本当に尊敬できる人と同じ時間を共に過ごすことができるというのは、とても幸せなことだ。


「ああ、これから会議なんで、ちょっと行ってくるよ。今日は戻らないから、戸締りよろしくね。それと、今度、神尾君の論文掲載祝いってことで、どっか飲みに行きましょう。おごりますよ」


 新藤は腕時計を確認しながら、鞄を手に取ると、慌ただしく研究室を出ていった。


「あの人、ただ飲みに行きたいだけだよなぁ」


「ああ、きっとな」


 海崎がソファに座ろうとしたその時、実験器具が並ぶ棚の後ろから、宮部彩みやべあやが顔を出した。


「新藤先生は?」


「今、会議がどうのっ言って出ていったけど」


『俺は宮部彩が好きだ』


 海崎の頭をよぎっていくのは、神尾の鋭い心の叫び。そんな神尾は、いつもと同じようにサイエンシーレポート誌を広げながら、コーヒーを片手に読みふけっていた。


「あのさ宮部……」


 海崎の言葉を遮るように、宮部は見せたいものがあると言って、実験台の奥に姿を消した。二人がその後に続くと、彼女は端末のキーボードを叩きながら、モニターを指さしている。


「これを見てほしいの」


 無表情の裏に細やかな感情がある。宮部を初めて見たときから、彼女のそんな心の機微に触れたいと海崎はいつも思っていた。何を考えているかよく分からないのだけれど、彼女の想像力は、それまでの当たり前や、常識的な概念を丸ごとひっくり返してしまう。それは空想のおとぎ話を目の前で現実化させる感覚に近い。まるで魔法使いのように。


 宮部が指差した端末のモニターには、アデノシン三リン酸分解酵素ATPアーゼの分子構造を摸した立体画像が表示されていた。三種類の蛋白質が複数寄り合わさって構成されている球型の構造体、その上方には、小さな丸い蛋白質が連なって形成された棒状のアクチン繊維が取り付けられていた。


「これはいったいなんだ? アデノシン三リン酸分解酵素ATPアーゼのサブユニットに、アクチン繊維がくっついているけど……」


「まるでプロペラみたいだな」


「ストレプトアビジンを使って、分解酵素とアクチン繊維を結合しているの。この画像はシミュレーションソフトで構築したモデルにすぎないけれど、こっちのシャーレの中には、本物のプロペラが沈んでいる」


 端末の横には、半透明の液体で満たされたシャーレがいくつか置かれていた。よく見ると、底にはスライドガラスが沈んでいる。もちろん、肉眼で何かを識別できるようなものが入っているわけではない。しかし、スライドグラスの上には、宮部が作った分子レベルのプロペラが存在するのだろう。


アデノシン三リン酸分解酵素ATPアーゼによってアデノシン三リン酸ATPが分解されれば、高エネルギーリン酸結合が切断される。その時に発生したエネルギーによって、このアクチン繊維プロペラが回転する仕掛けになっているの」


 モニターに表示されたのは、宮部が解説したとおり、球型構造体の上を、細長いアクチン繊維が勢いよく回転している様子だった。


「本当にプロペラなんだ」


「でも、このプロペラ、つまりアクチン繊維を物理的に回転させるとどうなるでしょう。それも通常の回転方向とは逆方向に」


「まさか……」


 端末モニターに表示されている分子構造の下側には、何かの数値が急上昇していることが示されている。


「おいおい、これって……」


「この数値はシャーレを満たしている溶液中のアデノシン三リン酸ATPの濃度よ。そうね。ねじ回しみたいなものよ。分子モーターを逆回転させればアデノシン三リン酸は消費、じゃなくて産生される。極めて論理的じゃない?」


神尾と海崎は、言葉を失いながらも互いに顔を見合わせた。


「神尾、これ……」


「ああ、できる。全く新しい発電システム」


 宮部は小さく首をかしげながら、そんな二人を見つめていた。

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