第16話:告白します
地上五階建ての理工学部棟は、築二十年を経過しており、その外観もだいぶ
階段の狭い踊り場を抜け、
屋上の隅には、生暖かい風を吐き出している空調の室外機が、真っ白いフェンスに沿って延々と並んでいる。どこか現実離れしているその光景に、訳もなく目を奪われそうになってしまう。風雨に去られ続け、薄汚れてしまった四角い装置は、屋上の空気を微かに震わせながら、ファンの回転音を響かせていた。
海崎が向かう先には
「神尾、話ってなんだ?」
海崎の声に、神尾は後ろを振り返ると、手にしていた一冊の本を差し出してきた。表紙を確認するまでもなく、それはサイエンシーレポート誌の最新号だ。
「
「おお、おめでとう。僕なんて卒論すら危ういところなのに、サイエンシーレポートにアクセプトされるんなんて、神尾はすごいな」
たとえ恵まれた研究者であったとしても、一流の学術専門誌に、自分の論文が掲載される機会はそう多くない。ましてや学生の身分でそれを成し得ることが、どれだけ困難な事なのか、海崎には良く分かっていた。
「俺は決して何かすごいものを持っているわけじゃない。宮部と比べてしまえば、とてもちっぽけな存在さ。そして、彼女のような天才的な研究者は、世界中にはごまんと存在する。だけれど、ミトコンドリアの形態制御に関して、研究者としての入場券のようなものを手に入れた気はしているよ」
「入場券か……」
神尾が学部生時代から取り組んできた、ミトコンドリア活性化を促進する化合物のスクリーニングとその生合成は、ミトコンドリア異常に起因する疾病に対する治療、その基礎的な研究として、大学内はもちろん、国内外の製薬企業も注目していた。
神尾の話を聞きながらサイエンシーレポート誌をめくっていた海崎だったが、彼の論文掲載ページで手を止めると、しばらくその内容に見入る。
「俺はようやく入り口に入ることを許された。ただ、進むことを許されたとしても、この先どうなっていくのかは未知数だ」
「お前ならきっと、大丈夫さ」
読み終わったサイエンシーレポートを神尾に返しながら、海崎は彼の肩を軽くたたいた。
細胞生物学研究室では宮部の才気が圧倒的で、どうしても彼女に注目が集まってしまうのだが、指導教官である
「俺たち、このまま順調にいけば来春には後期課程修了だ。大学に残ろうかとも考えていたが、東亜電力の研究部門に行こうと思っている」
神尾は、相変わらずフェンスに腕をつきながら、目の前の広がる空虚な景色を眺めていた。理工学部棟の隣には医学部棟が建っているが、その反対側には、新校舎建設予定地と称した空き地が広がっているだけだ。着工は来春の予定だった。
何もない空白の土地に、そう遠くない将来、新しい建造物が造られる。創造的な作業はその場の景観を変え、人の流れを変え、そして、程度の差はあれ世界の一部をも変えていく。
「民間企業、それも電力会社なんて、ちょっと予想外だったよ」
海崎も、神尾と同じようにフェンスにもたれかかった。屋上のコンクリートに延びる二人の影は薄い。きっと空が灰色のせいだ。
「東亜電力が今最も力を入れている部門、それが研究開発だそうだ。次世代発電システムの開発さ。この国だけじゃない、世界中が原子力発電に変わるクリーンで安全なエネルギーに関する技術に関心を向けている」
「ああ、原子力はその使い方を誤れば国家を消滅しかねない。もちろん原子力の平和利用で、人々が、あるいは社会が豊かになることも確かにある。だけれどその力に対して、
「俺も同じ考えさ。そして、原子力発電に変わる新しいエネルギー産生技術は、これからの社会にとって、無くてはならないものになるだろう。俺に声をかけてくれたのは、東亜電力の戦略技術研究所だ。そこでは
「
「まさにそれだ。東亜電力ではシビレエイの発電器官を応用しているらしい。こんな俺に、上級研究員という待遇まで用意すると言ってくれている。俺は教育者という柄じゃないし、大学に残って基礎研究を続けるよりも、人の生活に直結するような技術応用に関わっていきたい」
基礎研究から得られた知見が、すぐに人間の生活を変えていくわけじゃない。研究から得られた科学理論が、実験室という閉鎖的な空間のみならず、実際の社会環境でどれほど再現性が得られるものなのか、理論を具現化するために必要な技術レベルは十分に成熟しているか、さらにはその理論がもたらす現象を制御できるだけの手立てはあるのか。
発見された理論は、それを取り巻く社会的、技術的問題について、様々な観点から評価されたうえで実用化され、日常生活をより快適にさせてくれる知に変わる。そう言う観点からすれば、原子力を用いた発電システムは、成熟した科学的営みからは程遠いものだったのかもしれない。
「自分の歩むべき道をしっかりと見据えて、着実にその土台を固めていく。本当に頭が上がらないよ」
「そんなことはない。明日のことだって実はよく分かっていないんだ。正直、怖いよ。大学にいればそれなりに人脈もあるし、ある程度は融通が利く。しかし、これから行く先は全くのアウェイだ」
何かを知れば知るほど、何かが分からなくなっていく。理解を超えた先があまりにも果てしないと気づいたとき、圧倒的な孤独感と、足場が見えない恐怖に、怖気づいてしまう。だがしかし、不安に押しつぶされたものにしかわからない世界がある。強さがある。
「なあ、海崎。入場券を手に入れたからって、その先にどんなことが起こりうるのか想像もできない。もしかしたら、数年後にはアカデミックな世界から消えているかもしれない。ただ、目の前にどんな選択肢があって、どれを選ぶかが重要なわけではないんだと思うんだ。結果的にその道で良かったと思えるような努力をするしかない。選んでみて、それを成功させること、それこそが本質じゃないかってな」
迷いや葛藤、そんな不安定な情動を、心の弱さだと形容するのなら、その弱さに至る過程には、むしろ心の強さがある。だから、強さと弱さは同時に増していくのだ。まるでモノクロ写真のコントラストのように、強さと弱さの境界が明瞭になった時、人は理解を超えた先の景色に手を触れることができるのだろう。
「お前もどうだ。俺と一緒に来ないか?」
「僕が?」
「研究職って、いろいろと相性があるからな。一緒に仕事するんだったら、お前くらいしか想像できない」
「そう言ってくれるのはありがたいが、僕の研究はどちらかといえば医学とか生理学分野だ。とても役に立ちそうもないし、先方は評価してくれないだろう」
「これは自戒を込めて言うが、将来に何の展望もないときこそ、どこまで踏ん張れるかで本当の強さが試される、そんな気がしている。まあ、考えておいてくれ」
神尾はそういうと、踵を返して、階段に続く扉へ向かって歩き出した。そんな彼の後姿を目で追いながら、海崎はゆっくりと息を吸い込む。
自分の行く先に対して思考を停止することで今なすべきことに集中する、ずっとそんなふうに考えてきた。目の前のやるべきことを、とにかくこなすことで精いっぱいだったといえば、それはきっと言い訳なのだろう。
将来の在り方に不安を抱えながらも、なおその不安に対峙する。それは芯の強さを持った人間にしか成し得ないことだから。
「それともう一つ」
神尾は、そう言って扉の前で立ち止まると、海崎を振り返った。
「なんだ?」
「お前には伝えておかなければと思っていた」
「だから、なんだよ」
「俺は宮部彩が好きだ」
「あ……っ……」
思考を駆け巡っているのは一体どんな感情なのだろう。上手く言葉にできない情動に、言語と世界は一対一で対応していないのだなと海崎は改めて思う。
「お前が宮部を好きなのも知っている。でも、だからこそ伝えようと思っていた」
「神尾……」
「お前が告白しなければ、俺がする」
「お、俺は……」
「すまん、こんな性格なんではっきりさせたいんだ」
「神尾、すまない。しっかり気持ち、伝える。宮部にちゃんと……」
「そうか。それならいい」
軽く手を上げた彼は、海崎に背を向けると、そのまま扉の先に消えた。
室外機の振動が空気を伝わって、すぐ間近まで迫ってくるような錯覚を覚える。心の周波数が規定値を超えていくその感覚。振る舞いから欠落していく合理性。きっと、非合理性こそが人間の情動を基礎づけている。
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