風の生まれた場所
第15話:寄生されるのは嫌です
「
開け放たれた窓から初夏の暖かい風が舞い込んでくる。
「僕は様々な細胞内小器官の中でも、ミトコンドリアという構造体に魅かれてこの世界に入りました。どうです? 綺麗な緑色をしていますよねぇ。実際はこんなふうに緑色をしているわけではないのですが、光学顕微鏡で観察する場合には、ヤヌスグリーンという色素を使って染色するわけです。電子顕微鏡でみるとこんな感じです」
黒板の中央に設置された多くなスクリーンに、草履型をしたミトコンドリアの電子顕微鏡写真が映し出される。それは一昨日、海崎自身が撮影したマウス細胞のミトコンドリアだ。
毎年、五月の連休明けに行われる細胞生物学概論講義。北関東州立大学の理工学部教授、新藤啓二が担当していたこの授業は、決して人気のある講義ではない。むしろ出席している学生数は、他の講義に比べたら少ない方だ。
しかし、海崎にとって、この授業は特別なものだった。目の前の世界が、一瞬にしてこれまで見たことのない景色に切り替わっていく、そんな強い力を感じることができた唯一の講義。
洗練された論理的な事柄、それをデジタルと形容するならば、新藤教授の声に乗って届く情報はアナログに近い。不格好ではあるけれど、方向性を見失いかけた海崎の目の前に、進むべき道を照らす強い光になってくれた。
「ミトコンドリアという名前は、ギリシャ語で糸を表すミトス、そして顆粒を意味するコンドリオンに由来しています。したがって日本語では糸粒体なんて呼ばれることもありますけれど、まあ、普通はミトコンドリアと呼ぶことが多いでしょう」
海崎は大学院に進学した後も、毎年この講義には欠かさず出席している。もっとも新藤の研究室に配属されてからは、授業を聴講する学生たちが記入した出席カードを回収したり、スライド資料の作成を手伝ったりと、ボランティア雑務もかなり増えたのだが。
後方から講義室を見渡してみると、授業を受ける学生たちの様子が一望できる。一番前に座り、しっかりと目を見開きながら熱心にノートをとっている学生。後ろの席では、机の下に漫画雑誌を広げながら、それを読みふけっている茶髪の学生。その一列前では、机にうつ伏せながら、日ごろの睡眠不足を解消している学生。
春の不安定さが少しだけ落ち着き、新緑が燈る季節に流れていく初夏の風は、確かに強い眠りを誘う。
「ミトコンドリアの内部にはDNAが存在しており、ここには細胞核のものとは異なる独自の遺伝情報が書き込まれているんです。これが何を意味しているか分かりますか?」
一つの生命体の中に、その生命体とは別の遺伝情報をもつオルガネラが存在する。その事実を初めて聞かされた時、海崎は得も知れぬ衝撃を覚えた。
――僕らはミトコンドリアに寄生されている。
「ミトコンドリアだけでなく、そう、例えば植物に存在する葉緑体などもそうですけど、これらのオルガネラは細胞内に共生した他の細胞に由来するという説があるんですよ。この細胞内共生説を提唱したのは米国の生物学者、リン・マーギュリスという方ですけど、現在では、好気性細菌でリケッチアに近いαプロテオバクテリアがミトコンドリアの起源だと言われています」
寄生と共生、その差異は何だろうか。
海崎がそう考えるようになったのは、
トキソプラズマの、終宿主はネコ科の動物である。ネコの糞便中に排泄された
一見すると単純に見えるその生活環だが、サイエンシーレポート誌に掲載されたその論文には『トキソプラズマに感染したネズミは、恐怖に対する感度が低下する』というタイトルが付けられていた。つまり、トキソプラズマは、寄生したネズミの行動を何らかの仕方で変容させ、ネコに食べられやすくすることで、新たな宿主に乗り移るということだ。
共生と寄生の境界線が分からない以上、共生という現象は宿主の知らないところで、いつの間にか寄生という現象に置き換わっているのではないか……。もし仮に、トキソプラズマが人にもそんな影響をもたらすのだとしたら、僕たちは一体、何者に捕食されるべきなのだろう。
神尾と海崎は、この論文掲載当時、そんなSFじみた議論で盛り上がっていた。
細胞生物学の講義が終了すると、海崎は教室を出ていく学生たちの流れとは逆に、壇上に立つ新藤教授のもとへ向かう。
「海崎君、悪いね。論文の方も忙しいのに。いや助かるよ。出席だけ取って、教室の後ろから抜け出す学生が多いからね。まあ、僕の話が面白くないのがいけないのだけれど」
そういって苦笑した新藤教授は、海崎から出席表の束を受け取ると、ノート型端末を抱えながら、教室の出口に向かって歩き出す。
「いえ、先生のこの講義は僕にとって特別なものなんです」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ。ああ、海崎君、すっかり君に伝えるのを忘れていたんだが、今日から、うちの研究室に学部生が配属になる」
「学部生ですか? それも今日?」
「工学科の女の子らしいんだが、とても優秀らしくて学部長から直接指導依頼があったんだよ。たぶん、もう研究室にいる頃と思うのだけど……」
「今日は神尾も休みですし、きっと研究室には誰もいないですよ?一人で大丈夫なんでしょうか」
「僕はこの後、教授会があってね。少し遅れるけど研究室には必ず顔を出すから、それまで彼女の相手をしておいてくれないかな。えっと、名前、なんていったっけな。ごめん、思い出せないのだけど、海崎君のオートファジーの話なんて、とても興味あると思うよ」
オートファジーとは、細胞自身が不要なたんぱく質を分解する仕組みのことである。海崎は北関東州立大学医学部との共同で行われていた研究プロジェクト、オートファジーによる脳神経細胞のβアミロイド沈着抑制に関する研究を手伝っていた。
「新藤先生もなんだか、そういうところ適当だよなぁ……」
理工学部棟の薄暗い廊下に取り残された海崎は、そう呟きながらため息をつくと、踵を返して歩き出した。廊下の窓から見える向かいの建物は医学部棟、その奥には附属病院の巨大な病棟が覗けている。
午後の講義はどの学部でもほぼ終了している時間帯のせいか、大学構内に学生の姿は少なかった。陽射しは少しだけ傾き、廊下に延びる海崎の影が彼の身長よりも長い。
廊下の突き当たり少し手前にある細胞生物学研究室の扉の前に立つと、海崎は軽くノックをした。
「まだ、来ていないのかな……」
耳を澄ましても、物音ひとつ聞こえないことを確認して、そのままドアを開ける。
部屋の入り口を入ってすぐの場所に、応接用のソファと、小さなガラステーブルが置かれている研究室は決して広くはない。テーブルの上には飲みかけのコーヒーが入った神尾のマグカップが、サイエンシーレポート誌のバックナンバーと共に置かれていた。
海崎は、ソファの裏に設置された実験器具棚と、ラボ用の巨大なオートクレーブの間に、半ば無理やり作られた狭い通路をすり抜け、実験台が並ぶ奥の部屋へと向かう。
入り口とは対称的に、少しだけ広い空間に並ぶ実験台、その奥に設置されたDNAシーケンサーの端末モニターが付けっぱなしになっていた。そして、実験台の上に、誰かが腰かけている。窓から差し込む西陽に照らされて、顔が良く見えないのだけれど、その髪の長さや背丈からから女性であることは分かった。
「君が、工学科の……」
そう言いかけて、海崎は彼女の名前を知らないことに気が付く。彼は眩しさを遮るように、目を細めながら前方を見つめた。実験台に腰かけていた彼女は、すっと床に足をつくと、両手に握ったヤヌスグリーン試薬の小瓶を胸の高さまで持ち上げ、首を少しかしげながら海崎を見つめる。
「君は何色?」
逆光に浮かぶ彼女の長い髪が、黄金色に反射していた。
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