第10話:映えです
「海崎さん、これです、これですよっ。ウメワサビラーメンってやつです。めちゃくちゃ人気らしいのです」
「ウメワサビって、なんだか味の想像がつかないのだけれど……」
数年前に閉店したラーメン店を、少しだけ改装した店内には、使い古されたカウンター席と、テーブル席が五つだけ置かれている。昼間ほどではなかったが、それなりに混雑していた。
「そうですか? ウメとワサビですよ。つまり塩辛いってわけです。いやこれはインスタ映えですよ、ほんと」
「塩辛い……。えっと、僕は普通に醤油ラーメンにしておくよ」
醤油、味噌、塩といった、いわゆる定番はメニューの端にあっさりと記載されているだけだ。
「ええっ! 担担麺とか、デカもり野菜ラーメンとかもありますよっ。ちなみにエビマヨラーメンも気になりますねぇ」
「ラーメンにマヨっていうのは、若干……いや、かなり抵抗があるのだけど……」
メニューに掲載されてる写真を遠目から見ている
「そうですかね、マヨネーズって案外、何にでも合うんですよっ。例えば納豆とか!」
「えっと……。マジ? まあでも、とりあえず、に続くラーメンのメニューと言えば、醤油ラーメンじゃない?」
「とりあえずと言えば、もう私はビールですっ」
「そ、そう……。あ、飲んでいく? 少しなら付き合うよ」
結局、生ビールを中ジョッキで二人分と、醤油ラーメン、それにウメワサビラーメンなるものを注文した海崎は、メニューをテーブル脇に置くと、店内の壁にかけられた液晶テレビに視線を向けた。
『東亜電力株式会社は、電力の安定送給を図るため、南関東原子力開発機構が保有している原子炉の再稼働を決定しました。これに対して反原発組織を名乗るいくつかの団体が、インターネットを通じて、抗議メッセージを発信しています』
夕方のニュースでは、南関東の原子炉再稼働に関する話題が報じられていた。海崎がテレビの画面を眺めながら、東亜電力の広報部からプレスは出ていないはずだし、公式な記者会見もなされていないはずなのに、いったいどこから情報を入手したのだろう、などとぼんやり考えていると、二人の前に中ジョッキが置かれた。
「海崎さん、お疲れ様っす」
運ばれてきたばかりのグラスを持ち上げた田部は、海崎のグラスにカチンとその淵をあてて、そのまま琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「ぷふぁっと、うまいっす~」
「田部さん、ほんとおいしそうに飲むねぇ」
「ええ、このために仕事をしているようなものですから」
『このように、再稼働反対の声は今後もさらに強まることが予測されます。ここで、南関東原子力施設廃炉を目指す会の会長を務めていらっしゃる
ニュースで報じられている内容は、いつの間にか反原発に関する話題へと、方向性が切り替わっていた。メディアが扱うべきは、純粋な事実に関するものであるはずなのに、そこに片寄った価値観を混ぜ込む報道に、海崎は大きな違和を覚える。
「なんか、田部さんの予想通りになっちゃったね」
「ええ。でも仕方ないですよね。本社の決定ですし。実際、電気は生活に必要不可欠なので……」
「メディアも煽るからなぁ。リスクを軽視してはいけないのだけれど、それだけでは何も前に進まない。グリーン・オルガネラだって、不安定な状況が続けば、いつ広域停電が起こってもおかしくないし、例えば医療機関への電力送給が長期間止まってしまえば、失われる命の可能性だってあるわけで……」
海崎は中ジョッキを口に運びながら、テレビ画面に再度視線を向ける。南関東原子力施設廃炉を目指す会、という団体が存在することを彼は初めて知った。
『南関東には、この国の食糧需給を支える広大な穀倉地帯や貯水槽があります。半世紀前のような大規模な原子力災害が発生すれば、この地域の田畑や、大切な飲料水のすべてが放射性物質で汚染されてしまい……』
「きっと、電気がある生活が当たり前なので、それがなくなってしまう世界を想像することが難しいのでしょうね。原子力は、その存在そのものが当たり前ではないので……。あ、来ましたよラーメン」
世の中には当たり前のように使われている概念がたくさん存在する。しかし、それが本当に絶対的な価値を帯びて実在するものなのだろうかと、一度立ち止まってみる。そう考えることの大切さを、海崎は大学院時代の恩師、
「お待ちどうさまです。えっと醤油ラーメンと、ウメワサビラーメンですねぇ。ごゆっくり」
なんとなく沈みかけた空気を吹き飛ばすかのように、湯気を立ちのぼらせたラーメンが二人の前に置かれた。
「そ、それがウメワサビか……」
「インスタ映え」
そう言った田部は、嬉しそうに鞄から携帯端末を取り出し、レンズを湯気が立ちのぼるラーメンに向けた。何回かシャッターを切っていた彼女だったが、やがて満面の笑みを浮かべて携帯端末のモニターを海崎に見せる。
「お、おう。映えてるね」
首を縦に振りながら田部は携帯端末を鞄にしまい、そしてラーメンをすすった。
「で、味はどう?」
「塩辛いですっ!」
☆★☆
きしむ横開きの扉を開け、店の外に出ると、吐息が真っ白に染まっていく。外気はとても冷たいのだろうけれど、身体が温まったせいか、それほど強い寒さを感じない。
「田部さん、送って行くよ」
田部が住むアパートは、駅前商店街を抜けた先にある。海崎は以前、借りた傘を返すために、一度だけ彼女のアパートを訪れたことがあった。
「え、大丈夫ですよ、すぐそこですし……」
「まあ、こんな時間だし」
腕時計を確認すると午後八時を回っていた。誰かとこんなに長く話をしたのはどれくらい振りだっただろうか。海崎はそんなことを考えながら、人気のない商店街を歩き出す。
「では、お言葉に甘えて」
錆びれた商店街に等間隔で並ぶ街灯。その光がアスファルトに二人の影を作る。その影は歩調に合わせて、延びたり縮んだりを繰り返しながら、やがて住宅街に差し掛かった。
「ラーメンおいしかったですね」
「そうだね。また、行こう」
「あの、海崎さん。海崎さんは、きっとまだ……」
田部の靴音が消えたことに気がづき、海崎は後ろを振り返った。うつむいた彼女の表情は前髪に隠されていて良く分からない。
「どうした?」
「いえ、何でもないです。あの、今週末……。予定開いていますか?」
「週末って、日曜?」
「ええ。その、個人的にとてもお世話になっている方がいて、何かプレゼントしたいなってずっと思っていて……。でも、男性ってどんなもの買ってあげたら良いか分からなくて。もし、よろしければなのですけど、プレゼントを選ぶの、手伝っていただけたらと、その……」
「僕なんかで良ければ大丈夫だけれど……」
「え、よいのです? ほんとです?」
「うん」
「ありがとうございますっ」
そもそも、宮部に休日という概念は存在するのだろうか。彼女は探究し続けている。常に新しいものを求めて、現状に留まることを知らない。海崎は彼女に追いつくどころか、もうどれくらい彼女の後ろを歩いているのだろうかとさえ思う。
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