第3話:非日常の中に日常が見えます
レースカーテンを透過する陽の光に、意識は夢から現実に引き戻されていく。あまりの眩しさに
机の上のデジタル時計に視線を向けると、午前七時過ぎを示していた。
結局、
流し台で軽く口をゆすぎ、歯を磨きながら冷蔵庫を開けてみると、賞味期限切れの牛乳、納豆のパック、そして鍋ごと入れられた一昨日のシチューがそのまま残っていた。
職場までは自宅アパート近くのバス停から路線バスに乗り、都心近郊の駅から列車で二十分ほどだ。代わり映えのない時間の繰り返し。それは関心の的にさえならず、その多くが無視され、記憶に残ることは少ない。圧倒的な情報フローに晒されながらも忘れ去られていく時間、それを日常と呼ぶ。
しかし、そんな日常のサイクルが、支障なく回転しつづけるということは案外大切だ。
「人身事故か……」
日常は、程度の差はあれ非日常に変わる可能性を常に抱えている。
駅の改札付近はいつも以上に混雑していた。電光掲示板に流れる列車の遅延案内を確認すると、海崎は腕時計の文字盤を見やる。出勤時間にはまだ十分余裕があったが、人をかき分けるようにして、自動改札を潜り抜けホームに向かう。
『電車遅延だってさあ、もう一限間に合わなくない?』
『停電が原因だって……。ってか最近、停電多いよねぇ』
行き交う人ごみの中から、断続的に聞こえてくる声に耳をすませつつも、海崎は携帯端末を胸ポケットから取り出した。端末を起動させると、東亜電力の社内ネットワークシステムにログインし、給電情報を取得する。地図上では、海崎がいる駅と隣駅の間の地域で、送電停止を示すアイコンが点滅していた。列車の遅延は本当に停電の影響によるものなのだろう。
周囲を見渡すと、ホームで列車を待つ人たちはみな、携帯端末を片手に忙しない。職場への到着が遅れるだとか、学校に遅れるだとか……。そういった連絡をしているのかもしれないし、あるいはネットワーク上でこの遅延の原因を検索しているのかもしれない。
苦笑や苛立ち、そして焦り。非日常には、日常では垣間見ることのできない様々な感情が表出する。それは良くも悪くも。
局地的な停電の発生頻度は確かに増えている。それは海崎自身も実感していたし、統計上も前年比で有意だ。局所停電とその影響は、マスメディアでもたびたび取り上げられ、そのたびに
「来宮さんの仕事がまた増えてしまったな……」
海崎はそう呟くと携帯端末から視線を外した。列車が到着する気配はまだない。冬の冷たい風が海崎の前髪を揺らしていく。駅のホームには、遅延に関する案内放送が断続的に流れているが、その原因について触れられることはない。人々の苛立ちは、そんなうわべだけの情報が繰り返されることによってもたらされているのだろう。
鉄道事業者は自社の発電設備を保有してはいるものの、踏切など一部施設への給電は、東亜電力とその関連会社が担っている。公共交通網に影響を及ぼす給電トラブルが続けば、この国の電力インフラに対する信頼を損ねるに十分な理由になる。電力の安定送給は、海崎が所属する中央給電指令所が担う最も重要なミッションなのだ。
右手に握りしめた携帯端末のバイブレーションが作動し、海崎は再びモニターに視線を落とす。来宮からの連絡かと思ったが、画面に表示されていたのは
「めずらしいね、音声通話なんて」
「
ミソラとは、東亜電力の電力需要予測システムに登載されている汎用型人工知能のことだ。首都圏エリアの住民登録データベースを使って、住民のライフスタイル傾向を解析し、前年の電力消費量とリンクさせながら、日々の電力需要量を高精度で予測する。
「うん、確かに周波数の乱れを検知する頻度はかなり増えている。ただ、グリーン・オルガネラが作った電気を、本格的に東北地方への給電するのは今季が初めてなんだ。気温が下がって来たこの時期、電力需要がミソラの予測を上回っている可能性も考えられる」
電力を安定的に送給するためには、その使用量と発電量が等しくなるようにコントロールする必要がある。需要と供給、どちらかが上回っても、東日本の交流規格である五〇ヘルツという周波数を維持できないからだ。
周波数とは一秒間に電気の流れる向きが何回変化するのか、という数値であり、つまりは振動数に他ならない。電力の需要と供給のバランスが崩れると、周波数は大きく変化し、給電先の電子機器を破壊したり、電化されている設備に深刻なダメージを与えてしまう。そのため、周波数の変化が給電許容範囲を超えた段階で、安全装置が自動的に作動し、送電線と発電所が強制的に切断される仕組みになっているのだ。
電力需要予測の大きな誤りは局地的、時には大規模停電をもたらす大きな要因となりうる。だから予測は常に高精度で行われなければならない。
「ミソラが利用できるデータベースの拡大が必要よ。せめて、東日本全域の住民登録データと当該エリアの前年度電力使用量は全てリンクさせておくべき」
宮部の提言はいつだって合理的だ。彼女の思考には無駄が一切ない。
理論上、環境及び生命に対して全く無害の発電システムであるグリーン・オルガネラは、経済産業省が策定した国家エネルギー戦略における優先的取り組み事項に該当しており、その給電エリア拡大は急ピッチで進められていた。宮部の言うように、ミソラが解析できるレジストリの規模も、同時に拡充していく必要がある。
「確かにそうだね。来宮部長に提案しておくよ。それで結局、彩はそっちに泊まったのかい?」
「ええ。コーヒーを飲んだら寝れなくなってしまって。おかげで溜まっていたタスクがだいぶ処理できたわ」
「そう、無理しないで。落ち着いたらご飯でも食べに行こう」
「ありがとう。景も無理しないように」
彩の声を聴いたのはどれくらいぶりだろうか。もう長い間、コミュニケーションはチャットのメッセージだけだった。
――時間の感覚が歪んでいる。
三年前、海崎を襲った精神的、身体的体調変化の中で、とりわけ特徴的だったのが、その時間感覚だ。幻聴や幻覚などは二次的な問題でしかないと、
時間は確かに動いている。だけれどその動き方が歪んでいる。まるで時間の断片が積み重なっていくように、連続的な流れを感じることができない。上手く表現できないその違和を、門脇医師は全て言葉にしてくれた。海崎にとって門脇医師とは心の声の代弁者でもある。門脇医師に出会わなければ、海崎はそのまま非日常に埋もれていたかもしれない。
海崎は端末を胸ポケットにしまうと、両手をコートのポケットに入れ、遅れている列車の到着を待った。
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