第2話:巻き戻してみます
正方形に区分けされた町並みに、似たような二階建ての戸建て住宅が、整然と立ち並んでいる新興住宅街。多様性を失った無機質な景観は、利便性と合理性の象徴。
統計的には東京都内の人口は減りつつあるけれども、居住地域には偏りが大きい。
環境の変化にうまくなじめない。海崎は昔から自分の性格傾向を、そんなふうに評価してきたし、彼にとって、この部屋、そしてこの街全体が
部屋の灯りをつけ、携帯端末をデスクの上に置いてある充電気に差し込む。充電ランプが持続点灯するはずのLEDライトは、チャット・メッセ―ジの受信通知を意味する点滅に変わっていた。
海崎は携帯端末から文字入力するのがあまり得意ではない。文面の質や内容という客観的な問題よりは、海崎自身の主観的な問題だ。
片手でタップしながら言葉を並べるのではなく、端末のキーボードを前に、両手を使いながら頭の中の情景を言葉に変換していく。そういう地道な作業こそが、彼の感情表現にとって大切だった。
デスクの上に置かれたノート型端末を起動させると、程なくしてハードディスクの回転音が静まり返った室内に響き始める。起動シークエンスが終了すると、チャット・アプリケーションのアイコンをクリックし、タイムラインを確認した。
『体調はどう?』
それは
「そういえば、ここ最近、彩の声を聴いていないな……」
ソーシャル・ネットワーク・システムはコミュニケーションのあり方を激変させた。たった数語の文字列がメッセージとして発信されるだけで他者の存在を確信できる。その姿や声などは、誰かの存在に対する副次的な
もちろん、視覚や聴覚情報でしか伝えることができないメタ・メッセージも多い。しかし、一度つながった他者とのコミュニケートは、たとえ数語の文字列でさえ、その向こう側の感情に触れているという確かな感触がある。
『変わりないよ。先生もこのまま様子をみようって。そっちはまだ仕事かい?』
海崎が宮部彩に出会った時、彼は博士前期課程に在学中、そして宮部は学部三年生だった。
『うん。この仕事に終わりはないの。いえ、終わりはあるのだけれど、それは当分、先の話』
海崎が専攻していた分子生物学分野の研究室に、工学部所属の学部生が配属されているという違和はもちろんだが、その彼女が、ヤヌスグリーンの粉末が入った茶色の小瓶を両手に持ち、首を斜めに傾げながら「君は何色?」と問いかけた姿があまりにも鮮烈で、海崎にとって理解という枠組みを超えていた。
『無理しないように。今日は冷えるから暖かくして』
誰かとの出会いは、ほんのちょっとした運命の歯車のかみ合わせだ。でも、ほんの些細なことこそが、常に決定的だったりする。
『ありがとう。後でコーヒーでも淹れるわ。
『冷蔵庫に昨日作っておいたシチューがある。帰ったら暖めて食べるといい。じゃ、お休み』
『おやすみなさい』
宮部のオンライン表示が消え、チャットはそこで途切れた。空白の文字入力画面に点滅しているカーソルを眺めながら、海崎は小さくため息をつく。
機械の動力部に様々なモーターが組み込まれているように、生命活動を維持するためにもまた、分子レベルのモーターが備わっている。通常は生体のエネルギー源である
分子モーターはまさに生命の動きを司るアクチュエーターのようなものだ。当然ながら分子モーターが回転すれば、そのエネルギー原としてアデノシン三リン酸が消費される。モーターとは、エネルギーという非物理的存在を物理的動力に変換する装置に他ならない。しかし、逆に物理的動力をモーターに供給するとどうなるか……。宮部はそう考えた。
海崎は端末をシャットダウンすると、小さな流し台に向かい、食器棚からマグカップを取り出す。白とピンク色のマグカップが置いてあるが、彼が使うのは決まって白い方だ。
「僕は何色だったんだろう……」
――だった?
急な
窓越しの夜空に浮かぶ鮮やかな下弦の月が、部屋を淡い藍色に染めていく。少しずつ気分が落ち着いていくのを感じながら、海崎はそのまま冷たいベットに身を横たえた。そっと目を閉じると、瞼の裏側に宮部彩の姿が浮き上がる。
それは幻覚か、それとも過去の想起か。
間違いないのは、宮部彩が小学生の頃から天才だったということだ。
『景。私ね、小学校四年の夏休みに、自由研究でコイル式のモーターを作ったの。エナメル線を水色の水性ペンにグルグル巻いて。ペンから外すと、エナメル線がきれいに円形になっているでしょう? うん、そうね、例えるなら少し大きめの指輪みたいに。乾電池の両極にクリップを立てて、そこにエナメル線で作った指輪の両端をそっと乗せる。磁石を近づけると、その指輪が勢いよく回転したの』
コイルを巻いて電流を流す、つまりそれは電磁石だ。モーターは磁石の引き合う力、反発し合おうとする力を利用することで電力を動力に変換している。小学生の自由研究だったら、大抵の場合、エナメル線コイルの回転実験で終わってしまうだろう。でも、宮部は違った。
『それでね、クリップの先に電池じゃなくて、小さな電球をつないでみたの。確か、弟の
いつも無表情であまり多くを語らない彼女が、まるで子供のような、好奇心に満ちた表情を浮かべている姿を見て、海崎は彼女の瞳から視線をそらすことができなくなった。
『つないだ電球にね、微かな灯りが燈った時には感動で手が震えてしまったわ。私が初めて作った電気。小さな風力発電所』
そんな彼女が、まさか分子モーターを力ずくで逆回転させてしまうなんてことを誰も想像していなかった。それは宮部彩が学部四年生の夏。海崎と、同じく院生だった
『ねじ回しみたいなものよ。分子モーターを逆回転させれば
小さな風力発電所、その構想が世界を変える発電システムを生み出した。宮部彩が完成させた次世代発電システムは、持続的な発電量や電圧などの課題も多かったが、東亜電力株式会社の技術革新もあり実用化に成功した。無公害で極めて安全性の高い生体機能発電機関。今や、グリーン・オルガネラによる発電量は、東日本全域発電量の八割を占めている。
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