風の行く先
第1話:切り離せないものがあります
「それで、最近は……」
「最近はとても落ち着いていますよ、
診察室の丸椅子に腰かけながら
――精神科 医師
門脇医師は海崎の上司である
「そうですか。それは何よりですが……。でもまあ、季節の変わり目というのはいろいろありますから。とりあえず、いつもの薬は飲んでおいた方が良いでしょう」
「はい」
門脇医師は、
――
「海崎さん、あなたが見ている景色や声は、あなたに特権的なものです。たとえ同じ風景や音であっても、その感じ方も含めて人それぞれで微妙に異なっているということは否定できないでしょう。そういう意味では本当に正しいというような純粋な真実なんてものを見つめることは……。まあ、人間にはできないのかもしれませんね」
「ええ」
門脇医師の話は長い。病状に関係することから、そうでないことまで。時には彼なりの持論を講義されることもあるが、海崎はこの医師が嫌いではなかった。一人の診察に時間をかけすぎているせいか、診療所があまりにも古びた佇まいのせいか、あるいはその両方が理由なのかもしれないが、かかりつけの患者は決して多くはないのだけれど。
「目の前に映る景色が真実なのか、幻覚なのか。その境界は社会的常識や医学的知見が決めるものであって、あらかじめ両者を区別するような厳密な基準が、私たちの認識とは独立して存在するわけではないのです。まあ、何はともあれ無理はなさらないこと、それが大事ですね」
「先生?」
門脇医師は診療録に滑らしていたボールペンを止め、ゆっくり顔を上げると、海崎を見つめながら、少しだけずれた眼鏡を額に押し戻した。
「なんですか?」
「先生は医師よりも哲学者に向いている」
「よく言われますよ」
そう言って、門脇医師は微かに笑った。
診療所を出ると、すぐ目の前に小さなバス停がある。海崎は時刻表を見ながら、次に腕時計を確認した。ため息交じりに吐き出された空気が、うっすらと視界を白く染めていく。
晩秋を過ぎたころから急に冷え込みだした外気は、刺すように冷たい。ダッフルコートのポケットに両手を入れながら彼は夜空を見上げる。オリオンが思いのほか低い位置で輝いていた。
バス通りと言っても、決して道幅は広くない。片側一車線のアスファルトは、都心郊外の住宅街を縫うように張り巡らされた、ごくありふれた生活道路に近い。そんな狭い道を、路線バスは器用に走り抜け、この街の生活と生活を繋いでいく。
時刻通りに路線バスが近づいてくると、海崎はオリオンから視線を外し、後方を振り返る。バスのヘッドライトの眩しさに思わず目を細めた。
門脇医師の長い問診のおかげで、帰宅ラッシュを過ぎたこの時間、車通りは少なく道路は空いている。バスの車内にも乗客は誰もいない。
戸閉装置から圧縮空気が漏れ、同時にバスのドアが開くと、運転席横の乗車料金収納機に磁気カードを通し、一番後ろの座席の窓側を目指す。いつもそうするように、冷たい窓ガラスにコツンと額を当てて、夜の街に目を凝らすとバスは走り出した。
ゆっくり流れて行くバスの車窓は極めて日常に近い。それは列車の車窓が景色に近いことと対称的だ。ただ、それらの車窓にもし共通することがあるとするならば、人の気持ちを映すことなのかもしれない。
「真実なのか、あるいは幻覚なのか、その境界線……」
街並みは日々変わらないように見えるけれども、風景は日々少しずつ、だけれども確実に変わっていく。誰も気が付かないところで、変化は小さくとも一定のリズムで生じているから。
風景の懐かしさ、その感情こそ幻覚に近しいものなのではないだろうか。変わらない景色など、この世界に存在しない。懐かしさを含んだ風景など幻想に過ぎないと、海崎はそう思う。
――過去を捨てろ。
バスのエンジン音に紛れて、久しぶりに聞こえてくる幻聴。海崎はそっと瞳を閉じる。どうか、耳鳴りであってほしい。そう、単なるという修飾が付与されるような耳鳴りで。
過去は捨てられるものなのだろうか。
否、過去は常に今と共にある。
『海崎さん、僕はね、過去の出来事を忘れろとまでは言いませんよ。フランスの社会学者にこんなことを言った人がいます。“過去は実際にはそれ自体として再生するのではない” つまりね、あらゆることがらが示唆しているように思えるのは、過去は保存されるのではなく、現在の基盤の上で再構成されるということなんです。だから過去と現在を切り離すことはできないし、過去は常に今と共にある、そういうことです』
いつだったか、そんなふうに語っていた門脇医師の言葉を、頭の中で反芻させていくうちに不思議と気持ちが楽になっていくのを感じた。
「あの先生は、名医だ……」
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