死して知る

楸 梓乃

死して知る

 母から電話がかかってきた。父の死期が迫っている。

 父はすい臓がんだった。発見されたときにはすでに進行していて、大手術を受けはしたがその後転移が見つかり完治の見込みはなかった。

 私は父が嫌いなわけではなかった。むしろ一般的に言うところの父親と娘の関係にしては、そこそこ仲の良い部類に入ったと思う。もちろん、自分のやりたいことをしたいがために会社を辞めて海外に出てってしまったことや、起業をしたいからと息子の学資保険を使い込んだり、失敗して家に借金を残したことについては娘としては幾分か思うところはある。ただ、そのときはもう私は県外に独り立ちしていたので直接不利益を被ったわけではないし、何か口出しするほどの意思もなかった。所詮家族の仲とはこんなものなのだ。

 私は仕事を早めに終え新幹線で病院へ向かった。

 病院で会った父は記憶にある父より幾分も痩せこけていた。私の弟……彼の息子は目も当てられないようなデブで、父もそうだったはずなのに。今では見る影もない。

 病室には母と弟と、父の妹がいた。せわしく動き回る看護師たちの中で、彼らはひどく緩慢で、まるでそこだけ時間の動きが違うようだった。

「この病室の窓から見える桜、お父さん楽しみにしてたんだよ」

 力ない口調で母は私に言った。窓からは葉をつけ始めた大きな木が見えた。桜が咲くには、まだずいぶん先だった。

 父が、この桜をもう見ることがないのは明白だった。

 母たちは病室に残ると言った。私は母に実家に帰っていると伝えた。

 帰りに店に寄って梅酒とつまみを買った。一人で酒を飲みながら、明日起きたら父の訃報を聞くのだなと思った。

 早朝に電話があった。母からだ。父がもうダメだから来てくれと。私は言った。

「看取りたくないから昨日帰ったんだけど」

 それでも母はしきりに「看護婦さんが『いいんですか? 娘さん、本当に来なくていいんですか?』って聞いてくるんだよ……始発間に合うなら来てよ」と譲らなかった。

 私は時計を見た。時間を理由に断ることはできないくらいには、始発に間に合う時間だった。

 結局始発に間に合ってしまった私が父の病室に訪れたとき、父はまだ生きていた。もう話すことも自分の意思で動くこともできない、ただ苦しげなうめき声を上げるだけだったが、父は残念なことに私を生きて迎えたのだ。

「お父さん」

 私は立ったまま父を見下ろした。父の傍らでは母と弟が父の手を握っていた。私より父の妹のほうが父にはるかに近い場所にいた。私は近づきたくなかった。

 「父さん」と、愚図でどんくさい弟がみっともなく泣いていた。父とケンカばかりしていたというのに、意外にも父の死に際に泣けるのだなと、どこか感心した。

 しかしそれ以上に私の度肝を抜いたのは、母だった。

 母は父の痩せこけて骨と皮だけになった手を握って、言ったのだ。

「もっと、一緒にいたかったよ」

 私は心底驚いた。私の記憶の中にある父と母は、二人いればいつも不機嫌そうな顔をしていて、口を開けば言い争いばかり、まともな会話などしていただろうかというくらい、実の娘から見ても不仲だった。

 それなのに、母は今、なんと言った?

 私は周りに促され、父の前に跪いた。細い、人間でなくなりかけた手を握り、その冷やかさに心臓を掴まれた気がした。あれはそう、死者と生者の区別がつかなかった幼い時に祖母の死体を触ったときと似ていた。父は死者に近づいているのだ。

「お父さん」

 父は苦しそうにもがいていた。母や父の妹が、「よくがんばったよ、もういいよ」と父に語りかける。

 残酷だなと思った。私には父のもがく姿はまだ生きたいと生に縋っている姿のように見えた。では、こんなとき、看取る側はなんと声をかければよいのだろうか……どう言って送り出してやればよいのだろうか。

 私はそれがわからないから、この場に来たくはなかったのだ。



 日々を過ごしていた狭い和室に、父は帰ってきた。

 母は憔悴しきっていた。まともに寝てないだろう。それでも夫が死んだので母が喪主を務めるという。父が死んで一番悲しいのはおそらく母であるはずなのに、悲しみに浸る間もなく葬儀の準備をするのだ。だがそれを代わってやるには弟は学生だったし、私はそれが務められるほどこの土地の人間ではなくなっていた。

 葬式とは内外に人が死んだことを知らしめる行事だ。それ以上の意味はあるかもしれないが、とりあえず葬式の準備として業者や寺と話す内容はおおむね金だった。

 借金残して死んだ人が、金をかけて弔われる。なんとも生者に優しくない仕組みだと思った。

「お悔み、どこに載せようか」

 母は父の知り合いに明るくなかった。父の死を誰に知らせればよいのか見当もつかない。結局、市で出回っている新聞と県全域に出ている新聞の欄にお悔やみを載せた。



 葬式の日。式場にやってくる人々に頭を下げ続けた。私は途中で嫌になりかけたがなんとか付き合った。喪主など絶対やりたくないから夫や子どもより先に死のうと誓った。

 ぺこぺこと頭を下げていた母が、ふと入り口の方の人を見ておやと首を傾げた。

「あの人、見たことある……確か、お父さんが昔勤めてた会社の……」

 その会社は父が最初に勤めていた会社で、もう十年以上も前のことになる。そのときの人間が、こんなところにくるだろうか。

 半信半疑な私を他所に、その人は母に気づくと会釈をして話しかけてきた。

「覚えてますか? 以前お世話になった……」

「ああ、やっぱり!」

 その人は確かに父が以前勤めていた会社で父の部下だった人だった。

 私が知っている父は、とにかく偉そうで口先だけの男だった。家では偉ぶっていて、母は「こいつは絶対会社でも嫌われてる」と思っていたらしい。

 そしたらどうだろう。父の葬式に、かつて父の部下だった人間が数人来ていたのだ。もう十年以上前なのにだ。

 私はそれが意外だった。父のことを覚えていたばかりか、その葬式にまで出席してくれる人間がいたことに。

 十数年前の上司の葬式に出席しなくても、咎めるものなどいないだろう。もうなんのやりとりもしていなかったのならなおさらだ。けれど彼らは父の葬式にやってきた。

 父が死ななければきっと、ずっと知ることがなかっただろう父の側面だった。



 私が死んだら、残された母や弟、夫や子供は、彼らが知らない私を知ることになるだろうか。それに心揺さぶられ涙するか、幻滅して私という存在ごと消し去るか、それは彼ら自身の問題で私の知ったことではない。

 ただ言えることは、死んでから知る側面というものはある、ということだ。

 私の葬式には、一体誰が来るのだろうか。それとも誰も来てはくれないだろうか。

 そんなことに想いを馳せ、私は筆を置いた。

 窓からはあのとき見られなかった満開の桜が咲いていた。

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