颯爽と、傷を押して
結界を魔物が叩く―――
「にゃあああああ!?」
悲鳴を上げるネロの横で、キルケーは唇を引き結んでいた。
明確に、……明確に状況が動いてしまった。
魔物の大部分を引き受け、確実に数を減らしていたオーランドが負けた。
ただ、戦力だけの問題ではない。
士気の問題だろう。どうしても、恐怖が走り、動きが硬くなってしまっている。そのせいで、さっきまで対処できていた敵に対する対処までもおろそかに、ぽつぽつと傷を負う者も現れだした。
判断ミス……そう、思いたくはなかった。どうあれ、いずれはこうなっていたはずだ。
だが、焦りが過ぎたか………。
考えに沈むキルケー。その眼前で、また、結界が叩かれる。
長持ちしないだろう。乱戦が一方的に、魔物が素通りしてくるようになっている。リコラやウェインは気を吐いているが、それでもここを守り抜くまでには至らない。
もはや………考えるキルケーを、血の色の視線が穿った。
右手を失っておきながら、それでも嘆くでも痛むでもなく、ただただぼんやりとし続ける吸血鬼。
それが、キルケーを見て呟く。
「……やっぱり、邪魔だな。薬屋さん」
その直後だ。まだ距離があったはずの吸血鬼、その姿が、結界のすぐ傍にあった。
「………ッ、」
息を飲んだキルケーの目の前で、吸血鬼は剣を――血で出来たそれを左手に掲げ上げる。
柄に装飾を凝らしたような、巨大で流麗な、ただ赤一色のバスターソード。
吸血鬼はそれを、無造作に掲げ上げている。
振り下ろされる剣――――。
響くのは重苦しい、割れるような音。
結界が、叩き割られかけている。
この間も割られたのだ。わかっている。永遠に持つものではないと。
ただ、そうわかっても………キルケーにはただ、唇を引き結ぶ事しかできない。
逃げれば良い、と言うのは正論だ。
そして、こういう機に逃げられないのもまた、キルケーの性分だ。
他人を置いて逃げる気になれない。だから、キルケーはラフートに留まったのだ。
キルケーの前に、小さな背中が割り込む―――ネロだ。
飼い主に……いや、友達に似たのかもしれない。
残念ながら微笑む暇はなかった。
パリン―――音は余りにも頼りなく、あっけなく。
砕けた結界の先で、吸血鬼はバスターソードを振り上げる。特に感慨も何もなさそうな顔で。
「バイバイ、薬屋さん」
大剣は、振り下ろされ――――。
剛腕、一閃が唸りを上げて眼前を叩き切る。
跳ねて行く………寸での所で一閃から身を交わした、吸血鬼が、警戒するように距離を取っていく。
キルケーの、ネロの眼前に背中があった。
着古した和装の裾から包帯の見え隠れする、大男の背中。
たった今振り下ろした太刀を手に、肩越しに、宵虎は振り返る。
そして、………大きな音が鳴った。ぐうう……と。宵虎の腹から。
途端、ネロは、さっきまでの切迫感を全て忘れたように、ただ肩を落として文句を言う。
「……シンプルに台無しだにゃ。なんでもうちょっと我慢できないんだにゃ?」
「………俺の意思でどうにかなる問題ではない」
低い、異国の言葉で呟いた宵虎。
何を言ったのかは知らないが、キルケーは、ただ溜め息をついた。
………これに安心するのは、やはり、何かが間違っている気がする、と。
*
………まるで状況が理解できない。
なぜ、ここにキルケーがいるのか。あっちで戦っているのはウェインではないのか。
ここにいないはずの知り合いが、なぜだか寝ている間に集っているようだ。探せばヒルデもいるのか?
そう、助けたものの混乱しつつ………宵虎は諸々、後で考える事にした。
腹を満たしながらにでも、後でネロに聞けば良いだろう。
そんな考えと共に、宵虎は吸血鬼に視線を向ける。
片腕がない――手負いらしい。誰がやったかは知らないが……なるほどアイシャの故郷。
見上げた達人がいるらしい。
どうあれ、吸血鬼に対処するのが先決……手負いはこちらも同じ事。緩みは一旦、捨て置こう。
出し惜しみはなしだ。
宵虎は太刀を構えた―――切っ先を自身の足先に向けた構え。
下段。守勢の構え―――宵虎はその刃を返し、真一門に切り上げる。
よどみのない剣閃―――けれど、その一閃は奇妙に霞んで行く。
「霧散、逆巻き、天雲裂きて昇りただ眼を下ろし………」
霧に包まれるかのよう――確かにそこにあれど言霊と剣閃に塗れ、霧の最中薄らいでいくような宵虎。
凝らそうとでもするように目を細める吸血鬼の眼前で、宵虎の姿が、わずかわずかと、おぼろげになっていく。
「………沈め。眠れ。其の
結ばれる言霊―――剣閃の果ては、下段。
下ろされた太刀から水が、霧が、弾かれた雨粒が周囲に広がり……宵虎自身の姿を歪めていく。
「神下ろし………演武・
成った演武―――その様相に変化はない。
ただただ朧に、宵虎の姿が歪んで見えるだけ。
目を細めたまま、………吸血鬼は興味をそそられたとばかりに声を投げた。
「……火じゃないんだ。それも、喰らったら不味い奴かな」
「知らん。……試してみるか?」
そう、挑発的な言葉を投げ………その割に、ゆったりとした足取りで、宵虎は動き出した。
駆けるでもない。気負うでもない。ただ、だらりと太刀を下ろし、ただゆるりと歩んでいる…………。
そのはずが、気付くと宵虎の姿は吸血鬼の目の前にあった。
「あれ?」
呟きとほぼ同時に、吸血鬼の姿が黒い霧となって消える。
いつの間にやら近寄られ、いつの間にか間合いに入ってしまっていた。
そんな事を懐古しながら、吸血鬼は更に後方、宵虎から距離を取った地点、乱戦の中心に現れた。
即座に、周囲で血の色の魔物が吸血鬼を庇い、乱戦の最中に身を置きながら、吸血鬼の元にハンターの、ラフートの兵士の刃は届かない。
まるで戦闘が彼岸で行われているような、そんなぼんやりとした感慨の最中、吸血鬼は自身の身体に視線を落とす。
切られている。薄皮一枚、よりも深手だ。斜めに切り上げられたらしい……だが、その傷は、もう癒え始めている。
「………効かない奴みたいだよ?」
「だが、当たりはしたな」
吸血鬼の言葉に、宵虎は嘲りを返す。
そこで、吸血鬼は僅かに顔を顰めた。
形のない郷愁が吸血鬼の脳裏を掠め、それは敵意の形で、戦場にいる魔物に伝播していく。
騎士、獣……血の色のそれらのうちの何体かが宵虎へと迫り、剣を、牙を振るう。
届いているはずだった。届いているように見える。宵虎は両断され、八つ裂きにされ……けれど次の瞬間、血飛沫に変わるのは魔物の方。
剣閃は見える。吸血鬼の動きよりも、遥かに遅い。いや……遅すぎる。
剣閃が走るのは、魔物が切られたその後だ。先に切って、空ぶっている。そんな風に見える。
ゆがみのせいか。宵虎の周囲を漂う、霧のようなおぼろげなそれが、目をおかしくしているのか………。
観察するような視線を向ける吸血鬼を前に、宵虎は静かに、どこか揺れるおぼろげさで佇み、問いを投げた。
「お前、名は何だ?」
「………僕?知らないけど」
「そうか……まあ良い。ならば、名も知らぬ、どこぞの亡国の主よ。退く気はないか?」
亡国の主………その言葉に、また、吸血鬼の脳裏に郷愁が揺らめく。
思い出せないはずの街。思い出せないはずの国。霞の果てに消え去ったはずの誇りと、責務。
僅かに顔を顰めた吸血鬼を静かに眺め、宵虎は言葉を継いだ。
「アイシャは返してもらう。お前の望みも聞いた。叶えてやっても良い」
「僕の、望み………」
永遠に続く孤独の終わり。
確か、それが、望みのはず……吸血鬼は、それすらもおぼろげに思い返す。
動きを止め、思考が止まりかける吸血鬼………その姿を宵虎は嗤い、声を投げた。
「……そうビビるな、ガキ。俺の方が強いぞ?」
隠しようのない嘲り、挑発と共に投げられたのは、それこそ子供が口にするような、酷くどうでも良い言葉。
そんな言葉に、差して価値はない……そのはずだと言うのに、はるか深くから這い出た郷愁が、吸血鬼の口をついて出た。
「………負けた割によく言うね」
直後、吸血鬼は動く。
霞に紛れ、距離を飛び越え、現れた末の動きもまた人知の及ばぬ異形の速度――。
巨大なはずの剣。重いはずのそれを、片腕で軽々と………。
宵虎へと肉薄した吸血鬼は、思い切り振り下ろした。
その刃は宵虎を捉える――捉えたはずだった。
視界の先が揺れる。捉えたはずのその場所、位置に、宵虎の姿はなく――その姿があるのは、剣閃の外。数歩分、後ろ。
宵虎の動きは一見して鈍く――けれど速く。
宵虎の太刀が翻る――咄嗟に飛び退いた吸血鬼の首筋を、僅かに掠める。
人をやめていなければ交わせなかった………背後にとびのきながらそんな事を考え、……吸血鬼は自身のその発想に混乱した。
人を、やめる?……まるで自分でそう、選んだかのような………。
郷愁が、目の前を閃き始める。なくした何かが昇ってくるようで、吐き気のする心地に、吸血鬼は僅かにふらついた。
そんな吸血鬼を眺めながら、宵虎は、呟く。
吸血鬼が良く知っている………吸血鬼だけが知っているはずの言葉を。
「王たるは慈愛の主。手の内のモノすべからく、許し愛せ」
「王たるは覇道の化身。背に負うモノすべからく、守り導け」
「民あればこそ王。国あればこそ王。滅ぶ時は共に、幕を閉じる……」
教訓。誇り。責務。
郷愁の果て、霞のはるか昔、ただの勝気な少年が負った、何か。
「亡国の主よ。お前の望みは何だ?」
「う、………く、……」
吸血鬼は、苦悶の表情を浮かべ、剣を落とし、自分の顔を抑えつけ………。
直後、糸が切れたように、だらりとその腕を下ろした。
吸血鬼………青年の顔には、何も浮かんでいない。
表情の一切が抜け落ちた………そんな様相で、直後、吸血鬼はただポツリとこれだけを言った。
「……飽きた」
子供のそれ――としか言いようのない言葉を漏らした後、吸血鬼の姿が、煙となって消え去った。
同時に、広場を埋め尽くしていた血の色の魔物が、一斉にその形を失い、蒸発するように消えていく。
先ほどまでの争いが嘘のように、一瞬で敵の姿が消えた講堂前の広場。
どこか呆然とハンター達が佇むそこで、宵虎は吸血鬼の消えた箇所を眺めた末、太刀を納めた。
そんな宵虎に、最初に声をかけたのはネロだ。
「……だんにゃ~。遂に精神攻撃かにゃ?姑息さが極まってきたにゃ……」
「ただ、尋ねただけなんだが………」
釈然としない、と言った顔で呟き、宵虎は………直後、その場に胡坐をかいて座り込んだ。
空腹。傷も癒えきっていない。正直、立っているだけでもずいぶん消耗する。
そんな自分を僅かに顧みて、けれど宵虎が尋ねたのは別だった。
「ネロ。……アイシャは?」
「連れ去られたけど、無事だったにゃ。あたし見てきたにゃ」
「ほう……」
そう、宵虎は感嘆ともつかないような呟きを漏らし………直後、ぐううと、大きな腹音が、その場に鳴り響いた。
「まず、ご飯かにゃ?」
「………ああ」
小さく唸り、宵虎は視線を彼方――月を切り分ける巨城の影へと向ける。
吸血鬼の気配。それが向かっているのは、あの巨城だろう。
「望みなら、叶えてやろう」
そんな事を一人呟いた宵虎の元に、キルケーやウェイン……なぜかこの場に居る知った顔が歩み寄り、声をかけて来た。
この二人の顔を見て最も喜ぶのは、おそらくアイシャだろう。
あるいはこの二人も、ただ単に友達に会いに来た、と言うだけの話かもしれない。
そんな事を思いながら、宵虎は、理解の出来ない異国のおしゃべりに耳を傾けた。
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