永い夢2 離郷の少女


 その牙跡はさながら毒のよう………穿たれた傷から入り込むそれは確かに今も身を蝕み、途上の少女は緩やかに我を回顧し。


 奇妙な縁故は毒を通じ、交わり、望む望まざるとそれを覗き見る。


 宵虎は夢を見る…………。


 *


 燭台に灯る蝋が揺らめき、薄暗い議場のようなその一室に集う人々の影を蠢かせている。

 円卓のような大机、背後の壁には文様――盾と槍と、女の横顔――が刺繍された旗が掛けられていた。

 大机の向こうには多くの人々。全て顔なくただ影の様に、そしてどこか威圧的に話し続けている。


 何を話しているのかはわからない。異国の言葉だからか――否。

 この夢の主が思い起こす事を拒んでいるからだろう。

 大机のこちら側に、一人の少女の姿がある。


 10を少し過ぎたあたりの年頃だろうか。金色の髪はその頃は短く、青い瞳は己から感情を殺そうとでも言うように、何の揺らぎも見せず。

 知った顔立ち、見慣れた美貌を幼くしたその顔に浮かんでいる表情に、見慣れたような爛漫さはない。

 表情を殺し、だが口元は耐え難いように引き結び、ただ大人達の糾弾に耐え続けている。


 やがて、大机の向こうで、一人の男が立ち上がった。

 金髪、青い目………少女と同じ特徴を備えた、厳格な雰囲気を放つ男。

 その男は、言い放った。


「アイシャ。……次は、しくじるな」


 少女は何も言わず、ただ頭を下げ………誰にも見られないように、強く唇をかんでいた。


 宵虎は思い起こす。

 かつて、一度だけ、まともに言葉を交わせたときに聞いた、どこか冗談めかした風情の身の上話を聞いた事を。

 しくじるなと。そう言われて、全てから逃げ出したと。

 けれど…………すぐさま逃げ出したわけではなかったのだろう。



 景色が変わる。

 海辺か。潮の香りのする夜の森。

 その外れの木陰に、幼い少女は身を潜めていた。


 少女が扱うには余りにも大きすぎる弓を体全体を使って引き切り、一切揺れることのない矢先が指し示すのは、浜に集う篝火の群れ。

 夜営地だろうか。多くの兵士が気を抜いてたむろしているその光景は、宵虎であっても目を凝らさなければまともに見通せないほどの距離である。

 それだけの距離を開けた上で、少女はまるで淀みもなく、確かに狙いを済ませている。


 狙っているのは、夜営地の中心………他より遥かに華美な幕小屋。将でも居座っているのだろうか……その入り口を、少女は息を殺し、睨み続けている。

 瞳は暗い。明るさは欠片もなく、ただそれこそ何の感情も無いかのように、冷たくよどみきっている。


 不意に……幕小屋の入り口が開いた。

 中から現れたのは………少年だ。あるいは少女と同じくらいの年だろうか。幼さと不安が多く残った顔立ちに、ひたすら華美な衣装が着せられている。


 その姿を見た瞬間、それまで一切淀まなかった矢先が揺れた。

 明確な逡巡が矢先に現れ、目は泣きそうなほどに見開かれる。

 聡い少女だ。理解したのだろう。


 おそらく、その少年は、ただ祀り上げられただけだ。王族か何かだろう。兵士の士気を上げるためだけに、右も左もわからないまま連れ出され………

 ………そして今、暗殺者に命を狙われている。


「……もう、しくじれない………」


 呟くその声すらも揺れている。それで当たるわけがない。いや、そもそも、当てるかどうかで既に迷ってしまっている。

 少女はこの距離でも、狙ったならば間違いなく当てるのだろう。

 だから………少女は、当てたくなかったのだ。


 鳴った弓の弦の音すらも重くよどみ、放たれた矢は夜を奔り抜け――

 ――少年の顔のすぐ真横を通過し、幕小屋の支柱に突き刺さる。


 僅かに頬を咲かれた少年は呆然と立ち続け、周囲の大人が、兵士達がどよめき、駆け回り始める。

 少女は、力なく弓を下ろす………。


「どうして……どうすれば………」


 涙の混じった声を漏らし………やがて、森の奥へと姿を消した。

 夜営地から、篝火が近付いてくる………。


 ………長い、夜だ。おそらくこれが二度目の。

 一度目は帰る先があった。けれど、もう、次はない。少なくとも、少女は自身でそう、自分を責めている。


 夜の間、影に怯え、明かりに怯え、音に怯え、少女は逃れ続ける。

 夢に過ぎない。宵虎には、眺めている事しかできない。


 森が開ける。眼下にあるのは崖と海。

 背後からは夜の森を照らす篝火の群れ………少女の行先は、もはや一つしかなかった。


 少女は、海へと飛び込んでいく。

 身投げだったのかもしれない。悲観しきったのだろう。捕まるよりは……どちらにせよ、帰る場所も無い。


 結果として、それは逃避になった。故は一つ……何がしかの悪戯だ。

 影のような、光のような。妙なものに拾われ、また新たに別の歩みを渡された。


 誰もアイシャの過去を知らぬ場所で。

 アイシャのみが、自身の過去を見知ったその歩み、表層的な笑顔と爛漫さを覚え。



 景色は移り変わる。



 場所は、何処かしらの宮殿か。その、庭。

 頭上には明るい日が照り、芝生が輝くその庭に、弓を構える少女の姿が、その父だろう………先ほど厳格な雰囲気を放っていた男が、僅かに緩んで立っている。


 過去に戻ったらしい。少女は、先ほどの暗い林の中よりも尚幼く、髪は長く、着ているのは華美なドレス。


 世も未来も知らない令嬢は弓を放ち。

 矢は的を射抜き。

 少女は、爛漫とした笑みを浮かべる。そこには、一切の陰りも苦悩も見られない。


「これが、当たらなければ良かったんだ」


 不意に、宵虎は声を聞いた。知った声音、けれど言葉の意味がわかるのは、やはりここが夢の中でしかないからか。


 宵虎は声に視線を向ける。


 芝生の一角に、アイシャは蹲っていた。長い髪、青い目、宵虎が良く知った年頃、良く知った容姿のアイシャが、どこか退屈そうに両手で頬杖を付いて、幼い自分を眺めている。


「10回やって1回当たるかどうか……その1回目が最初に来ちゃったから、周りが勘違いしたの。期待されたら頑張ろうって思うでしょ?褒めてもらいたいしさ」


 どこか遠くを眺める様に、アイシャは語り続ける。


「頑張って、頑張って、上手くできてるように見せるとそれが普通だと思われてね。もっと上手くやらなきゃいけなくなって……お兄ちゃん達より上手くやったらね。影役になっちゃった。多分、邪魔だったんじゃない?それがわかってても、でも、上手くやるしかないからさ。だから、外したら駄目だったんだよ」


 外したら駄目。先ほど見た、二度目の失敗の話だろう。祀り上げられた少年を、射殺してしまえば良かった。アイシャはそう言っているのか。

 憮然と、宵虎は呟いた。


「切ってしまえたところで、辛いモノは辛いぞ」

「でも、お父さんに褒めてもらえたかも知れない」

「……良く外した。褒めてやる」


 低い声でそう唸った宵虎に、アイシャは片眉を釣り上げた。


「お兄さんさ……言葉通じてなかったからアレだけど……もしかして結構ジゴロ?」

「フ……ジゴロとはなんだ?」

「その、惚けてるのか本気なのか良くわかんない感じ」


 どこか呆れた様にそう呟いて、それから、アイシャは不意に立ち上がる。

 そして、突然言い出した。


「………ごめんね」


 その言葉に、宵虎は首を傾げ……それから、得心入ったとばかりに頷いた。


「ああ。気にするな。虐げられるのには慣れている」


 そこで、アイシャは苦笑した。


「違くて………。私、本当は誰でも良かったんだと思うんだ。お兄さんに甘えたのは………都合が良かっただけ」


 また首を傾げた宵虎に、アイシャは続ける。


「言葉が通じないからさ。何やっても、褒められてると思いこめるしさ。怒られてないと思えるし。甘やかしてもらえてる気がした」

「………俺は、大分甘やかしていたぞ?」

「そうなの?」

「ああ。……謝る事でも無いな。ただの、縁だろう」

「そっか………。じゃあ、ありがとう」


 そう、アイシャはどこか遠ざかるような、遠ざけるような言葉を投げ、僅かに微笑んだ。

 宵虎は僅かに眉を顰め………そこで、気付く。

 アイシャの瞳の色が変わっている。片側は、見慣れた、澄んだ青い色。

 もう片方は………それこそ鮮血のような赤い色。


「なんかね………なんか、変わってるの。昔を思い出しても、前ほど辛くなくて。なんか、どうでも良いみたいな……なんだろう。実感がないのかな?」

「……アイシャ?」

「変わっちゃう前に言えて良かった。夢だから、あんまり意味ないのかも知れないけど………」


 アイシャの言葉に戸惑い、宵虎は一歩、アイシャへと近寄ろうとする。

 けれど、近付いたはずの一歩の距離が、縮まらない。

 アイシャは、声を投げ続ける。


「私ね。………誰も、傷つけたくないの。綺麗事だけど。だから、もし………もし、そういうモノになっちゃってたらさ」


 アイシャが遠ざかっていく……進むごとに足元が沈み込む。

 泥のように、あるいは血の沼の様に。もがくごとに暗がりに飲まれている宵虎を眺めながら、アイシャは寂しそうに呟いた。


「……もう、甘やかさないでね?」


 そして、宵虎は暗がりに飲まれる。

 何の思考も無い暗がりへ………だが、確かにもがき始めながら。

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