深窓のアイシャ
アイシャは、夢を見ていた。
盾と槍と、女の横顔――ヴァラールの紋章を目にしたからか。
師を継ぐ―なんて話を聞いたからか。
その夢は、アイシャの過去―――生まれて初めて弓を射たその日の夢。
どこか城の様な、宮殿の様な――荘厳で歴史あるアイシャの生家。青々とした芝生の敷かれたその庭に、6才の少女がいた。
着ているのは上等なドレス――その日、その時、その瞬間までは、少女は確かに、気品ある淑女足るべきとして育てられていた。少女がその日々、その将来を、子供心に退屈と考えていた事は確かだ。
だから、遊びの様な気分で、父にねだったのだ。
的当てをしてみたい―――その頼みを、父が珍しく聞き入れたため、少女はその日、生まれて初めて、弓を手に取った。
少女の父は口数の少ない人物だった。国軍、騎士団長――そんな立場があったからこそ、家にいつくことは少なく、居ても大抵息子達―少女の兄達と過ごしているから、少女が父親を独占出来る機会は少なかった。
別に、なんだって良かったのだろう。的当てじゃなくても、それこそおままごとだったとしても―父がその願いを聞き届けてくれたかは別として―少女は、ただ、父親と遊びたかったのだ。
他の願いを口にすれば良かったのだろう。そうであれば、少女の将来は、退屈ではあっても平穏な―――貴族の令嬢となっていたはずだ。
あるいは、才能がなければ良かったのか。
武術―剣であれ弓であれ、あるいは格闘であれ、共通する才能に、イメージを正確に身体の動きに反映出来るかどうかがある。それこそ、身稽古の様に、見て覚えた身体の動かし方を、即座に自分の身体に反映出来るかどうか。
少女は、父が弓を引く姿を見た事があった。何度も見たと言う訳でもない。遠目に、ごくたまに見ると言う程度だ。ただそれだけで、その日、初めて弓を引手に取った少女は、完璧な姿勢でそれを構えていた。
子供には重すぎる弓の弦を、腕力ではなく、背中の筋肉を使って効率よく引き絞り、少女が放った一本の矢は、寸分の狂いなく的に命中した。
当たったことに関しては、運もあっただろう。あるいは、運がないから、当たってしまったのか。
その一矢が外れれば、父もまた、その少女に武芸を仕込もうとは思わなかっただろう。
その一矢が外れて、生まれて初めて、父から頭を撫でられ、手放しに褒められたりしなければ、少女も弓を持とうとは思わなかっただろう。
それは、良い思い出のはずだった。少なくとも、逃げ出す前のアイシャは、確かにその、ただ褒められたというそれだけを糧に、修練に耐えていた。
けれど、今となっては、その思い出はもう…………
*
「……………チッ、」
最悪の気分で目覚めたアイシャは、目覚めると同時に舌打ちをした。
酷い夢を見て、酷い気分で目覚めて……………なによりも最悪なのは、アイシャが泣いている事だ。
「ふぁ………」
涙の後からわざとらしく欠伸をして、それから、涙を拭い………アイシャは部屋の中を見回した。
宵虎が居ない、のは、昨夜ウェインが『結婚もしていない男女が~』と固い事を言って、部屋が別になったから当然として………同じ部屋だってはずのネロの姿も、そこにはない。
「………起こしてくれても良いのに………」
そんな風に呟いて、アイシャは窓の外に視線を向ける。
庭に、宵虎とネロの姿があった。どうやら、朝からウェインの修行を見ているらしい。腕を組んでいる二人の視線の先で、ウェインは舞いでも踊るように酷くゆっくりと、盾と剣を振っている。
型の稽古だろう。アイシャにも覚えがある。わざとゆっくりと動くことで、型を細かく見て、ほんのわずかな型のミスを洗い出し、修正する。
宵虎の発案だろうか。腕を組んでいるその顔は酷く真剣だ。
「……乗り気になったんだ」
なんとなく、アイシャはそう呟いて、僅かに暗い表情で、しばらくその稽古の様子を見下ろし……やがて、部屋を後にした。
食堂は、外へと向かう途中にある。
その大きなテーブルには、朝食の用意としてか、パンの積まれたバスケットが置かれていて……一人の人物が既に朝食を取っていた。
金髪を刈り上げた男。この宿の他の客だろう……見覚えがある気がして、アイシャはその人物に視線を向けた。
そして、すぐにそれが誰か思い出す。
マーカスに辿り着いたその日、酔っ払いにからまれていた男。
わざわざ、ヴァラールの紋章を背負っていた奴だ。
(…………最悪)
胸中でそう呟いたアイシャに、厨房から女主人が声を投げて来た。
「おはよう、アイシャ。なんか用意するかい?」
「いらない」
短くそう答え、バスケットからパンを一つ掴み取って、アイシャはそのまま食堂を通り抜け、外へと向かった。
アイシャの去った食堂―金髪を刈り上げた男―フリードと女主人は言葉を交わす。
「………今の子は?」
「ほら、ウェインの師匠の連れだよ。アイシャって子。手出そうとか考えるんじゃないよ」
「そんな気はないが…………アイシャ?どこかで………」
「街で見かけたんじゃないのかい?」
「かもな………」
*
宿の庭。
腕を組む宵虎………の横に似た様に腕を組んで突っ立って、ネロは大声を上げる。
「力むな……だにゃ!」
「はい、師匠!」
「腕力に頼るな、力を抜け……だにゃ!」
「はい、師匠!」
「一々返事するな……だにゃ!」
「はい、ししょ……………ええ!?」
と応えながらも、ウェインはゆっくりとした動きで、型の稽古を行っていた。
盾を振り、剣を振る。昨日、宵虎が大きく避けた技だ。その技だけ使っていれば勝てる、と宵虎は考えたのだろう。
パンをかじりながら、アイシャはその様子を脇から眺めていた。特に、見ていても何も面白くないと、ぼんやり思いながら。
と、そんなアイシャに気付いたのか、宵虎はチラリと視線をアイシャに向けて、何かを呟いた。
アイシャには、宵虎が何を言ったのかわからない。そして、その言葉を聞いたネロは、ウェインへの言葉と勘違いしたらしい。
「どうかしたのか……だにゃ!」
変わらぬ調子でネロはウェインへと言って、ウェインは威勢良く大声で応えた。
「はい!えっと……何がでしょうか?」
「師匠の質問に質問で返すにゃ!」
「はい!師匠!」
そのやり取りに、宵虎は小さく溜息をついた。
手を焼いているようだ……ウェインにだか、ネロにだかはわからないが。
そんな事を思い、アイシャは小さく呟いた。
「……なんでもないよ」
それから、アイシャは立ち上がり、庭の出口へと歩み出した。
と、そこで、ウェインとネロも、漸くアイシャに気付いたらしい。
「あ……おはようございます、アイシャさん」
「にゃ?いつの間に……ていうか、アイシャ?どこ行くにゃ?」
「散歩」
振り返らずそれだけ言って、アイシャは歩み去っていく。
そんなアイシャを見送りながら、ネロは首を傾げた。
「……なんか、元気ないかにゃ?」
そんなネロに、宵虎は唸るように声を掛けた。
「にゃ?ああ、でも……あたしがいないと、通訳が…………いらんって。断言する事ないにゃ………。アイシャ~!あたしも行くにゃ~」
そう声を上げながら、ネロはアイシャを追いかけて、駆けて行った。
そんな二人を見送って、庭には、ウェインと宵虎だけが残される。
少しおどおどしたようにきょろきょろした後、ウェインは憮然と腕を組んでいる宵虎に視線を向け、口を開いた。
「えっと………師匠。あの…………」
そんなウェインへと、宵虎は何かを言ったが……何を言ったのか、ウェインにはわからない。
「…………?なんでしょうか?まだ素振り、で、良いんですか?」
僅かに首を傾げながら、言ったウェイン。だが、その言葉も宵虎には伝わっていないのだろう。
宵虎はまた一つ溜息をつき、のそりと歩み去っていく。
と、思えば、宵虎はすぐに戻って来た。その手に、木で出来た模造剣を二振り持って。
そうして、ウェインの正面に立った宵虎は、特に何も言わず、ただウェインの前に、模造剣を一振り投げる。
それから、自身も模造剣を持ち、その手をだらりと垂らしたまま、宵虎はウェインへと手招きした。
かかって来い、とでも言うように。
どうやら、素振りは、もう終わりらしい。
そう理解したウェインは、一層の気合いを入れながら、自身の剣―装飾の入ったそれを鞘に収めてから、足元の模造剣を拾い上げ、構えた。
盾を前に。剣を後ろに―ウェインは宵虎を見据える。
「はい。どうかお手柔らかに……いえ、手加減なく!よろしくお願いします!」
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