2幕
1章
案の定、立ち往生
遠く、山影。荒野に馬車道。駆けるは行商の馬車。
手綱を握る行商人は、どこかうんざりとしたような顔で、ただただ馬を走らせていた。
彼の表情が優れない理由は、たった今運んでいる不可思議な荷物達にある。
どうやら、メナリアに人が戻ったらしい……そう聞きつけて向かってみたのが行商人の運の尽き。
丁度旅立つ所だったらしい見覚えのある美人だがうるさい少女に見つかり、捕まり、押し掛けられて足代わりに扱われているのだ。
…………タダで。
『え~?前いっぱい上げたじゃん。その割に、置いてったしさ。良いでしょ~、ね、おじさん?』
とかなんとか、金髪の少女―アイシャはあっけらかんとそう言い放ち、それに行商人が文句を言っている間に、どうにも少女の連れらしき異国の大男と猫が一匹、しれっと荷台に乗り込んでしまっていたのだ。
そして、結局行商人は追いだし切れず、そんな二人と一匹を運ぶ羽目になり……その道中は当然、うるさかった。
ただし、前とは違って、アイシャが話しかけている相手は、行商人ではなく連れの異国の大男―宵虎。
甘える様な、猫なで声の様な、そんな風にアイシャは宵虎に散々話しかけていて……ありていに言えば、イチャついてた。
最初こそは行商人も、それを微笑ましいと聞いてはいたが……昼夜問わず永遠それを聞かされては流石にうんざりして来る。
そして今もまた、その甘える様な声は行商人の背後から聞こえて来ている。
「お兄さん、お兄さん。ほら、これ」
積み荷の合間に憮然と胡坐をかく宵虎―その膝の上に座り、宵虎へと寄りかかり、青い目で宵虎を見上げたアイシャの手には、倭の国の辞書があった。
別に、返せとも言われなかったし、と、アイシャはその辞書を拝借して来たのだ。
宵虎は声をかけてきたアイシャ、そして、その手の辞書に視線を落とし、アイシャが指差している一節を読み上げた。
「む……可愛い?」
「うんうん。で、これは?」
「偉い」
「ふ~ん。じゃあ、こっちは?」
「凄い。……なんだ?なにがしたい?」
アイシャの意図がわからず、宵虎は首を傾げたが、しかしアイシャは意に介した様子もなく、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「えへへ~。そっかそっか~」
そんな一幕に、そばで丸まって眠っていた黒猫―ネロは瞼を上げ、呆れた様に呟く。
「アイシャ……。何を覚えさせようとしてるんだにゃ」
“だんにゃが良くわかってないからってまた変な事覚えさせようとして~”といった風情のネロの視線へと軽く睨み返し、アイシャは言う。
「覚えさせるんじゃなくて、覚えようとしてるの!ほら、褒められたらすぐわかるように?」
「……多分、文句を覚えた方が聞く機会多いと思うにゃ。うるさいとか……」
「何か言った?」
「何でもないですにゃ……にゃにゃにゃァァ!?」
突然、ネロは悲鳴を上げる。
口が災いとなりアイシャに酷い目に遭わされた……訳では無く、突然馬車が止まった為に慣性に押されてコロコロと転がったのである。
荷台の壁にビタンとぶつかり止まったネロを眺めた末に、アイシャは行商人へと文句を投げた。
「ちょっと、おじさ~ん。いきなり止まんないでよ。どうしたの?」
言いながら、アイシャは行商人の方へと歩んで行った。
行商人はそんなアイシャに振り返る事もなく、ただまっすぐ前を見て、顔を引きつらせていた。
「……おじさんね。今決めたよ。これ以上は進まない」
「え~?何言ってんの?」
そんな風に言いながら、アイシャもまた行く先を見る。
前方に見えるは山影……確かカフス山とか言う名前の、渓谷に囲まれた山である。
最もそれはさっきからずっと見えていたもので、今更足を止めようと言うからには、理由は別。
竜巻だ。
暴れまわる灰色の暴風の渦。
遠目にも見えるほど巨大な竜巻が、カフス山でいくつも、天へと登っている―。
「うわ~。すっごい竜巻。まあ良いや、行こうよ、おじさん。早く~」
「早く~じゃないよ。行かないって言ってるでしょ」
「え~。なんで?」
「危なそうだからだよ!」
余りに能天気なアイシャに、行商人はたまらず大声を上げた。
けれど、アイシャはまだ不満気だ。
「え~。大抵の事は多分大丈夫だよ?……私とお兄さんは」
「おじさんが危ない目に遭うでしょ?とにかく、おじさんは絶対あそこには近寄らないからね」
言い切った行商人をアイシャは不満気に睨み、やがてこう言う。
「え~。じゃあ、迂回するの?それだと、どの位掛かる?」
「谷があるからね……。橋は、このルート以外だとかなり向こうにしかないし……追加で半日とかだね」
「半日?…別に、急いでる訳じゃないけど……回り道って嫌いなんだよね~」
「じゃあ、もう自分で歩きなよ。ほら、」
文句ばかり垂れるアイシャにへきへきして来たのか、行商人はそう声を上げると、グイグイとアイシャを押して、馬車から下ろしてしまう。
「うわっ。え~、ちょっと、こっちはお金払って……」
「ないよね。今回は」
「…………」
小銭であれ何であれちょっとは渡しておくべきだったか、と歯噛みしたアイシャを置いて、行商人は荷台の宵虎達へと振り返る。
「ほら、そっちの人も降りて。もう、おじさん今決めたから。運ぶのはここまでね」
そう声を掛けられた宵虎は、だが行商人が何を言っているのかわからず、ネロへと視線を向ける。
「にゃ~。これ以上進まないから下りろって言ってるにゃ」
「……そうか」
「にゃ?本当に下りるのかにゃ?あ、じゃあ、だんにゃ。荷物忘れちゃ駄目にゃ。また、剣なくしたらまた格好悪いにゃ」
「……また、だと?」
「あ~。そこ気になっちゃう感じかにゃ……」
そんな事を言い合いながら、荷物の類―と言っても、太刀とアイシャの弓だけだが―を持ち上げた宵虎は、そのまま馬車から下りた。
と、その様子に、アイシャは軽く額を押さえる。
「あ~あ。下りちゃった……」
宵虎が乗っている限り本当に置いてどこかに行く事はないだろう、とアイシャはたかを括っていたのだが、しかし、宵虎が下りてしまった以上、行商人の動きは速かった。
「じゃあ、おじさんもう行くから!」
そう言い捨てる間にも馬車は方向転換し、アイシャが止める間もなく、行商人は土煙を上げて来た道を戻っていった。
「速……」
みるみる遠ざかっていく馬車に、アイシャは呆れて呟き、それから、視線をカフス山に向ける。
依然、竜巻の舞う山影―そこまではまだそこそこな距離がある。
いや、そもそも、目的地は山ではない。アイシャの家がある街、ラフートは、馬車で数日の距離。
そこまで歩くとなると……いったい、辿り着くのはいつになるのか。
「え~。めんどくさ……」
アイシャはまた不満を言って、それから、視線を宵虎に向ける。
「竜巻か?……また、無闇に派手な…」
宵虎もまた、カフス山を見上げ、そうアイシャにはわからない言葉で呟いていた。
ささっと、アイシャはそんな宵虎の背後に回り込み、それから、ガバッと、その背中に飛び乗った。
「ぬお!?……なんだ、アイシャ。何がしたい……」
「うんうん。これで楽~。ほら~行こうよ、お兄さ~ん」
宵虎の背中に乗ってしがみついたまま、アイシャはポンポンと宵虎の頭を叩く。
「痛い。……なぜ、俺は叩かれているんだ?」
「にゃ~。特に意味はないと思うにゃ」
そう言いながら、ネロは当然のようによじよじと宵虎の身体を上り、その頭の上に座り込んだ。
「ほら、だんにゃ。さっさと歩くにゃ」
背中に少女、頭には猫、手には荷物の類――そんな装備の宵虎は憮然とした表情で呟く。
「……俺だけが歩くのか……」
「ねえ、行かないの、お兄さん?ゴーゴー!」
「痛いにゃ!アイシャ~、それ、叩いてるのあたしだにゃ」
「なぜ、俺が運ばなければならないんだ……」
口々に呟きながら、一行……というか、宵虎は歩み出した。
―竜巻の舞う山影へと。
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