エピローグ

言葉は通じずとも


「あ~もう、皆してこんな散らかして~。なんであたしが片付けしなきゃいけないのかにゃ~。はあ~。ちょっとは休ませて欲しいにゃ~」


 催された酒宴の残骸、その中でまどろむアイシャの耳に、そんなぶつくさ文句を言う声が届く。


(うるさいな…………)


 そう思いながらも、アイシャはまどろみから出ようとしない。

 心地が良いのだ。なんか、あったかいし。


「ていうか、だんにゃ~。起きてるなら手伝って欲しいにゃ~」


 そんなネロのぼやきに、なにやら低い声が答えていた。

 何を言っているのか、アイシャには理解できない声。だが、


(良い声……えへへ……)


 ぼんやりしながら笑って、アイシャはより、あったかいものに身を寄せる。


 このあったかいものはなんだろうか?少し疑問に思うが、気持ち良いから特に気にせず、まどろみは続く……。


「にゃ?余計、散らかる?何言ってるにゃ……。あ!さては嘘ついてるにゃ!めんどくさがってそう言ってるに決まってるにゃ!嘘つきは駄目にゃ!ていうか、働くにゃ!これ、そもそもほとんどそちらさんが酔って……」


(ネロ、うるさい……)


 そんな事を思いながら、アイシャは徐々に目覚めていく……。


「……なんで、頭を撫でてるのかにゃ?」


 頭を撫でる―すぐ近くでそのワードが届いた途端、アイシャは一気に覚醒していき。


「にゃ?ぶんか?」


 ネロがそう首を傾げた途端に跳び起きた。


「だあああああああ!ちょっと、お兄さん今なんて言ったの!?余計な事言った?」


 即座に状況を把握したアイシャ―あったかいものは宵虎だった。アイシャは宵虎に抱きついて眠っていたらしいが………この際、それはもう良い。


 問題は、頭を撫でる、と文化、というワード。


 いつかどこかの不可思議空間で、アイシャがつい甘えてしまった時を思い出す言葉だ。


 妙な事を言われていたら、アイシャの沽券に関わる。と言うか、普通に恥ずかしい。

 だがしかし、その咄嗟の行動が裏目に出たようだ。


 寝起きでさえなければ、アイシャは冷静に適当な事を言って疑惑を流せただろう。

 だが、弁明しようとしてしまった以上……。


「あ~。そう言う……」


 ネロは白い目でアイシャを見ていた。


 "だんにゃが良くわかってないからって適当な事言って良いように願望を満たしてるんだにゃ?ていうか、そう言う趣味かにゃ?"


 ネロの視線はそう言いたげである。少なくともアイシャからすれば、そう見える。


「そう言うって……何?違うからね?そう言うとかそう言うのじゃないから!」


 と、必死に弁明するアイシャの頭を、宵虎は撫で出した。


 怒っている時は撫でる文化―と、適当な事を言ったのはアイシャである。

 完全に身から出た錆びではあるが……アイシャの溜息は深かった。


「……はあ……今、撫でなくて良いから……別に怒ってないよ……」


 そんなアイシャと宵虎を眺めて、それからネロは言った。


「まあ、その……今更だしにゃ。……邪魔みたいだから、出てくにゃ」


 物凄く気を遣った様子で、ネロはそう言うと、部屋を出ていった。


「ちょっと!言い訳させてよ!」


 アイシャがそう叫ぶも、ネロはそそくさと立ち去って行く。


 酒宴の名残か、散らかり切った部屋に残されたのは、アイシャと宵虎だけ。

 どうもアイシャは、昨日ヒュドラを倒した後に開かれた酒宴のまま、寝落ちしてしまったらしい。


 アイシャは、恨めしく宵虎を睨みあげて、言った。


「……お兄さん。あれさ、嘘だからね。そう言う文化、無いから。適当に言っただけだから」


 そんなアイシャを見ながら、宵虎は首を傾げ、何か呟く。


 アイシャには理解できない言葉だ。ただ、相変わらずアイシャの頭が撫でられ続けている以上、恐らく口にしたのは、怒ったのか、とかその辺りだろう。


「だから、怒ってないよ…。あのさ、お兄さん。他の子にこう言う事やっちゃ駄目だよ?多分、より怒られるからね?」


 そう言っては見たが、しかし宵虎は首を傾げるばかりだ。


「やっぱり、不便だな……。はあ、なんか、もう良いや。めんどくさい。もう、知らない!」


 そんな事を喚いて、アイシャは宵虎に寄りかかった。

 と、そこでアイシャは気付く。

 部屋の隅に、辞書が落ちていた。倭の国の辞書が。


 ……誰かが、妙な気を回したのだろうか。


 *


「何を怒っているんだ……」


 何やら、本へと四つんばいに這っていくアイシャを見ながら、宵虎は戦々恐々としていた。


「何も思い当たらんが……」


 恐れているのは、昨夜の記憶が余りないからである。

 酒を飲んだ事は覚えている。覚えているが……宵虎はさほど酒に強い訳ではないのだ。


 故に……ほとんど記憶が無い。


「……俺は……一体、何をした……」


 実際は早々に潰れて眠っていただけで、そこに酔っ払ったアイシャがまとわりついていただけなのだが……宵虎にそれを知る由はない。


 と、本を手に這って戻って来たアイシャが、胡坐をかく宵虎へと寄り掛かった。

 そして、宵虎を見上げて、何かを言う。


「……なんだ?何を言った?……やはり怒っているのか……」


 訳もわからずただ混乱する宵虎を見上げて、アイシャは一つ溜息を吐き、それからまた何かを言って、本をパラパラとめくった。


 何をしているのかと見守る宵虎の前で、アイシャはやがてめくる手を止めて、本の一説を指さしながら宵虎を見上げてくる。


「私?」


 宵虎は、その一説を読み上げた。どうやら、それは辞書か何かのようだ。宵虎には読めない文字と、宵虎にも読める文字。その両方が、その本には載っている。


 呟いた宵虎にアイシャは首を傾げ、それからまた本をめくり、別の一節を指さしながら宵虎を見上げる。


「望む」


 アイシャは頷いて、また別のページを指す。


「呼ぶ」


 そして、また別の一節。


「貴方」


 更にまた、別の一節。


「名前」


 そこまで呟いた後、アイシャはパンと本を閉じ、宵虎へと向き直った。

 どうにも、宵虎の言葉を待っている様子だ。


(私……望む…呼ぶ……貴方……名前……)


 そう、胸中で呟いて、漸く宵虎はアイシャの意図を知った。

 今更の話だが……宵虎はアイシャに名乗っていなかったのである。


「宵虎」


 そう呟いた宵虎を、アイシャはキョトンと見つめ……やがて、鸚鵡返しに呟いた。


「ヨイトラ?」


 宵虎に理解できたのは、その単語だけ。後につらつらと続いた言葉は、どれも宵虎には理解できない言葉だ。

 ……大方、変な名前とでも言ったのだろう。


「俺からすれば、アイシャも大概だがな……」


 そう呟くと、アイシャは驚いたように眼を丸くする。

 それから、アイシャは不意に嬉しそうな笑みを浮かべて、宵虎の頭を撫で出した。


「……良くわからん娘だ…」


 ニコニコしながら頭を撫で続けるアイシャを見ながら、宵虎は呟く。


 何やら暴力的で、うるさく、良く怒っていて、妙に宵虎になついているようでもあり、だが……何やら子供扱いされてばかりな気もする。

 まったくもって不可解である。言葉が通じないからだろうか。


 いや……通じようと通じまいと、あるいはこの年若い達人は、宵虎の理解を悉く超えるのかもしれない。


「……まあ、良いか……」


 呟きと共に、宵虎は笑みを浮かべた。


 遠く、流れた異国の地。この先どうなるか、何をしていくのかは宵虎にもわからない。


 だが、まあ信用できる相手は見つかった。困る事はあろうが、大抵何とかなるだろう。


 ……それはまあ、ともかくとしてである。

 ぐうう、と宵虎の腹が鳴った。


「……おなかがすいた……」


 そんな宵虎を見て、アイシャは首を傾げながら呟く。


「オナカガスイタ?」


 ……どうも、妙な言葉から覚えていくもののようだ。

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