瓦礫の先の巨影
「アイシャ!……アイシャ!」
見渡す限りの瓦礫の山―遠くに巨大な影が佇む中、アイシャの姿を見つけたネロは、必死にそう呼び掛けた。
ネロが軽く頬を叩くと、アイシャはカッと目を見開く。
それは、普段のアイシャとはまるで違う昏い瞳で―
「にゃ!?」
ネロは思わず、近くの瓦礫の影に隠れた。
アイシャは上体を起こし、昏い目で周囲を見回し―やがて遠くにスキュラを見た。
いや、それはスキュラでは無い。酷く巨大な蛇の怪物だ。
伝承の怪物―ヒュドラ。多頭の大蛇以外の何物でも無く、スキュラだった名残はその頂点に小さく見える女の身体だけ。
どうも、誰かを抱いているようにも見える美女―。
それを昏く眺めたアイシャの鼻から、ツーっと一筋の血が垂れて、
「……鼻血出ちゃった。恥ずかし~」
普段通りの様子でアイシャがそう言った為に、ネロは深く息を吐いた。
「はああああああああ……」
「あ、猫ちゃんじゃん。なんでいるの?」
そう問い掛けてくるアイシャの目から昏さが失せていた為に、ネロは漸く瓦礫の影から進み出る。
「なんでって……まあ、それは一回置いといてにゃ。あれ、スキュラかにゃ?」
遠くヒュドラを眺めながら、そう尋ねるネロ。アイシャの返事は適当だった。
「そうじゃ無いの?……超でっかいね」
そう言って、頬杖をついてヒュドラを眺めるアイシャ。
と、不意にアイシャはつまらなそうに呟いた。
「……な~んか、私、悪役みたいだったな~」
「にゃ?何の話かわかんにゃいけど……まあ、気にすることないにゃ。だんにゃもだいたい悪役みたいだったし、むしろお似合いにゃ」
「本当?」
「本当にゃ。しかも、だんにゃに至っては完全にやられ役な悪役だしにゃ。……ていうか、そのだんにゃはどこ行ったのかにゃ?」
ネロがそんな事を尋ねて来て、そこでアイシャはぼんやりと、寂しそうに言った。
「……どこに居るんだろうね」
「にゃ?……まさか……って、だんにゃに限ってそれはないかにゃ」
「そう思う?」
「にゃ。だんにゃは殺しても死なない気がするにゃ」
「……そっか。そうだよね。良く考えたら、死体とか見てないし……吹っ飛んだだけかもしんない。どっかに流れ着いて、お腹すいてそう」
アイシャはそう呟く。本気で言っている訳ではないが……そうでも思わないと立ち上がれそうにないのだ。
キレて、夢中だった内は良かった。だが、素に戻った今、アイシャはどうにも億劫だった。
何をする気にもならない―なんだか、身体に力が入らないのだ。
「そう言えばさ、猫ちゃん。さっき何か言おうとしてなかった?」
「にゃ?……ああ……超今更なんだけどにゃ。……あの二人、助けられないかにゃ?」
あの二人―ネロの言葉が指し示しているのが、スキュラとグラウだと言う事がアイシャにもわかった。
キレてはいても、記憶が飛んだわけでは無いのだ。ついさっき、矢を受けながら抱きあう二人を、アイシャは確かに見ていた。
「あ~。私としてもさ。出来るならそうしてあげたいんだけどさ。……無理かな」
呟くアイシャの視線の先―ヒュドラが動き始める。
巨大なその頭が、アイシャ達の方を向き、大口が開き、喉の奥が紫色の輝きを帯びる。
「無理かにゃ?」
「少なくとも、私にはね。………そもそも、勝てないし」
閃光が放たれる―それを前にしてもアイシャの身体に力は入らない。さっき、無理をし過ぎたのだろうか……。
「今度は、言葉通じると良いな……」
呟くアイシャを、閃光が飲み込んでいく―。
―だが、その身が焼かれることはない。
キン―高くも重い音が響く。ヒュドラの放ったブレスは、アイシャ達の前で見えない壁にせき止められたのだ。
バリバリと、閃光が輝き、ブレスを防ぐ―。
その様子をぼんやり眺めた末に、アイシャは振り向いた。
「助けてくれるの?魔女のキルケーさん。私の事嫌いじゃなかった?」
その先に、小柄な魔女は立っていた。
神殿が吹き飛んだ衝撃を受けたからか、着ている服は汚れきっているが、しかし特に傷を負った様子も無く、その表情は涼しげだ。
「……魔術師です。飼い猫が窮地のようでしたので」
「そっか。一人きりの友達がいなくなると寂しいもんね?」
「一人きりではありません。ちゃんと、他にもいます」
「本当?じゃあ、紹介してよ」
「……………………………………嫌です」
「いないんでしょ?」
「います」
「嘘だ~」
「貴方は、人の事が言えるんですか?」
「…………………私、貴方の事嫌い」
「ええ。私もです。ただ…………」
再度、ブレスが放たれる。だが、それもまた、結界に阻まれ散って行った。
涼しげな顔でブレスを防ぎ切り、キルケーは言葉を継ぐ。
「……何も死ぬ事はないと思っただけです」
「……そっか」
呟いたアイシャは、弓を手に取った。
身体の億劫さは残っているが―動きたくない気分はどこか、薄れていた。
プライドだろう。嫌いな相手に助けられたまま、何もしないのはアイシャも嫌なのだ。
ヒョドラが近付いてくる―その首は、アイシャ達を叩き伏せようと天へ登る。
「あれは止めきれません」
「え~?ブレスより弱そうなのに?」
そう言いながら、アイシャは弓を引く。
「特に呪いも無い単純な暴力ですから。……力押しに弱い性質でして」
「なにそれ。……なんかエロくない?」
「なんの話ですか?」
「エロい魔女だな~」
適当にそんな事を言いながら、アイシャは弓を放った。
一直線に飛んだ炸裂矢は、アイシャ達を叩き伏せようとするヒュドラの頭を吹き飛ばす―。
貫通はしない。ただ、押し返すだけだが―それでも、物理的な攻撃を防ぐ事が出来た。
「……防げるは、防げそうかな?」
「それで?どう倒すのですか?」
「良いの?倒しちゃって」
「ええ。……もう良いんです。終わりにしましょう」
「そう。……そっか。って言っても、正直打つ手ないんだよね~」
そこで、ヒュドラが咆哮を上げる。そこにスキュラだった頃の意思は見られない。怪物はただただ、周囲を―アイシャ達を破壊しようと咆哮し、本腰を入れて襲い掛かる。
その攻撃を防ぎながら、アイシャはキルケーに言った。
「……本棚の整理さ。手伝って上げよっか?」
本棚の整理―いつか、誰かとした口約束。
その言葉に、キルケーは小さく笑った。
「……余計なお世話です」
そんな二人のやり取りを、特に何をするでもなく眺めていたネロは、不思議そうに呟く。
「……仲が良いのか悪いのかわっかんないにゃ~」
それから、ネロは周囲をきょろきょろ見回して、こう言う。
「勇者は、どこから来るのかにゃ~。……本当に死んじゃったのかにゃ?」
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