暗き底へ沈み…
浜辺を走るネロの前に、突如人影が降り立った。
「にゃ!…………アイシャ!」
ネロは驚きの声をあげる、すぐにそれが敵ではないと知って安堵する。そんなネロを見下ろし、なんとなく回りを見回しながら、アイシャは尋ねた。
「猫ちゃん、一人?………お兄さんは?」
「……最後まで変な人だったにゃ」
悲しげに目を伏せながら、ネロはそう答えた。
その言葉に、アイシャは驚いた。宵虎がやられたと言う事それ自体にではなく、直接それを聞かされて、……思った以上にショックを受けている自分にだ。
「最後って…やられちゃったの?」
再度の問い掛けにネロは頷く。
「そっか。……そっか…。大丈夫だと思ってたんだけどな~」
どうでも良い事の様に、アイシャは呟いた。勿論、本心からどうでも良いと思っている訳ではないが、しかし、ネロにはそう聞こえたらしい。
「なんか、冷たくないかにゃ?」
その言葉と共に見上げてくるネロに、アイシャは微笑む。
「他人だしね。会ったばっかりだし…」
そう。それこそ、今日初めて会ったばかりだ。愛着を持つには短過ぎる……はずだ。
だと言うのに、アイシャの胸中は暗い。
よく分からない人だった。言葉が通じていないのだから当然だが、本当に宵虎の事をアイシャは何も知らないのだ。
ナーガを食べる人。多分、かなり強かった人。多分、けっこうスケベ。
アイシャが無茶苦茶やっても怒らなかったし、きっと良い人だったのだろう。
アイシャが知っているのはそれくらいだ。
後はもう、なんとなく息が合う気がした、と言うただの気のせいぐらい。
「話、できたらよかったのに…」
話が出来たら、名前ぐらいは知れたし……それに、ちゃんと仲良くなれたかもしれない。
信用されていない……その事にショックを受けたのは、それこそ、どうでも良い相手ではなかったからだ。
「な~んか、笑えないな…」
ポツリと、そう呟いて、それからアイシャは歩み出す。
向かう先は橋だ―そんなアイシャを、ネロは呼び止めた。
「アイシャ?…どこ行くにゃ?」
「ちょっと、スキュラを倒そうと思って」
散歩にでも行くような気楽さで、アイシャは応えた。だが、その雰囲気はどこか異様だ。
どうして良いか分からないから、ただ短絡的に仇うちをしようとしている―そんな風にネロには見えた。
「にゃ!待つにゃ、行き当たりばったりはダメにゃ。だんにゃだってそれで……」
「お兄さんより、私の方が強いよ?多分だけど」
「そう言う問題じゃなくて…とにかく、一回マスターの所に」
「キルケーは捕まったよ」
「にゃ?…本当かにゃ?なんで?結界は?」
「えぐい手使われて、開けちゃったみたい」
「じゃあ、助けに行かないと…」
言い掛けたネロの言葉を、しかしアイシャは聞こうともしない。
「スキュラを殺しちゃった方が早いよ」
呟くアイシャの目は、酷く暗い。その眼に、ネロは遂に確信した。
アイシャは何も考えていない。ただ苛立って、ただ突っ込もうとしているに違いないのだ。
「…アイシャ?ダメにゃアイシャ!止めるにゃ!やけになって突っ込んじゃダメだにゃ!」
ネロは娘の姿に化けて、アイシャの前に立ち塞がった。
そんなネロを前に、アイシャは不思議そうに首を傾げる。ただ、暗い瞳のまま。
「やけじゃないよ?…イラついてるだけ」
「それをやけって言うにゃ…」
「猫ちゃんは、どっかに隠れてたら良いんじゃない?」
冷たく言い放ったアイシャは、今にもネロを押しのけて駆け出していきそうだった。
けれど、ネロは退かず、訴える。
「とにかく、駄目なものはダメにゃ!悲しいのはわかるけど、冷静になるにゃ!」
暗く鋭いアイシャの視線にどこか恐怖を覚えながらも、ネロはアイシャを真摯に見つめて、言葉を継いだ。
「だんにゃはやられちゃったし…マスターも捕まったなら、もうどうにかできるのはアイシャしかいないにゃ。そうだ、応援を呼ぶんじゃなかったかにゃ?そうすれば良いにゃ!そうするべきにゃ!敵討ちの為に危険な目に遭うとか、だんにゃは多分、喜ばないにゃ!」
そこで、アイシャは目を見開いた。
敵討ち、という言葉に驚いたようだ。あるいは、宵虎が喜ばないという部分か。
やがて、アイシャは目を伏せて、呟く。
「…………そうだね。うん、」
漸く、冷静ではないと自覚したのだ。敵討ちをするにせよしないにせよ、この心情のまま挑むのは自殺行為―。
自分を客観的に見てそう納得したアイシャは、安心させるようにネロへと微笑んだ。
「わかった。助けを―」
そこで、―唐突な痛みがアイシャの足を襲った。不思議そうに見下ろしたアイシャの視線の先―アイシャの足には、矢が突き刺さっていた。
「あれ…」
「アイシャ!」
アイシャは遠く、防壁の上を見る。そこに、シーピショップが立っていた。周囲に多くの兵―弓を引き絞る兵士達を引き連れて。
「…弓兵もいたんだ。…油断した。足はやばいな…」
どこか余裕ぶった呟きを漏らしながらも、けれどアイシャにはもう何も出来ない。
防壁から矢が放たれる―。
一糸乱れぬとは口が裂けても言えないようなバラバラな射撃。だが、数が数だ。制圧効果は高い―あるいは、足が無事でも、その弓の雨を避けきれたかどうか。
「…猫ちゃん、もしかしてさ、頼んだら盾になってくれたりする?」
最後の最後に余り笑えない類の冗談を言ったアイシャに、ネロは状況を忘れて呆れた。
「なんでだんにゃと似たようなこと言うのかにゃ……」
「え?……そっか。なんとなく、気があってたと思うし…ちゃんと話せたら、ちゃんと仲良くなれたのかな………」
どこか悲しそうに、アイシャは呟く。その横顔を見た瞬間、ネロは無性に腹が立って、
「…妙に寂しい事言うにゃ!」
そう叫びながら、タックルするようにアイシャごと海の中へと飛び込んだ。
そして、そんな彼女達を追い掛けるように、矢の雨が、辺りを、海を貫いて行く―。
*
……脇差しでも案外、やれるものだ。
暗い、暗い海へ沈み往く宵虎は満足だった。
二匹は殺した。三匹は傷を負わせた。そこまでは覚えているが、しかしその先は思い出せない。更に何匹かやったのか、あるいはそこで力尽きたのか。
とにかく、宵虎にわかる事は二つ。
牙を受けたか、宵虎の胸が大きく裂け、海に血が混じり、塩水が嫌に染みる事。
そして、自在に泳ぐ大口が、今にも宵虎を飲み込もうと迫っている事……。
(身体は、もう動かんか……)
諦観と共に、宵虎は目を閉じる。
結局、末路は海の藻屑。だが、無為では無いはずだ。あの猫が無事、逃げ伸びたなら……。
(後は、あの娘に頼むとしよう……)
大口に噛み砕かれる刹那、宵虎はこの異国で出会った一人の達人を思い出す。
なぜ、まとわりついていたのかは良く知らないが、まともに話もできていないのだ。
例え宵虎が死のうとも、特に気にはしないだろう……。
(確か、アイシャと言ったか……)
最後の瞬間。……宵虎の身を、白い光が包み込んだ。
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