魔女と怪物
何もない空き地。結界のある場所―。
周囲に意思のない兵士を伴ったシーピショップは、その場所へと鱗の生えた腕を伸ばす。
閃光が輝き、轟音が響き、シーピショップの腕を焼く―。
「結界。確かに、ここか……」
その呟きと共に腕を引いたシーピショップは、傍に控える兵士に視線を向ける。
この兵士達の指揮は、シーピショップに委ねられている。意のままに動くのだ。
兵士は物言わず進み出た。隠れ家に仕掛けられた結界へと、その身を焼かれる事に恐れを抱くことすらなく、ただ人形のように…。
「止めなさい」
不意の声に、兵士は動きを止め、シーピショップはそちらに視線を向ける。
空き地に、魔女が立っていた。未だ結界の向こう側ではあるが、その姿は確かに見える。
「キルケー。久しいな」
そう笑みを浮かべたシーピショップを、キルケーは睨みつけた。
その視線にあるのは、敵意と、寂寥だ。
「蛇毒に呑まれたとは言え、人であった頃の貴方は分別のある方でした。むやみに争い、他人を従えようなどとしなかった。誰であれ助けようと……」
「人だった頃はな」
キルケーの言葉を遮り、シーピショップは自身の身体を見せるように両腕を広げる。
……鱗に覆われたその身体を。
「これを見ろ。こうも醜い。……この姿のどこが人だと言うんだ」
「私を、怨んでいるのですか。ならば、私だけを連れて行きなさい、グラウ」
「怨むはずがないだろう。君は、彼女の恩人だ。君の助言のおかげで、彼女は永らえた」
「けれど、蛇毒に呑まれてしまった。ああも醜く……」
そうキルケーが目を伏せた瞬間。
ダン―閃光と轟音が辺りを揺らす。シーピショップが結界を思い切り殴りつけたのだ。
「彼女は醜くなど無い……」
そう語るシーピショップの目には憎悪に似た炎が揺らめいている。
キルケーは恐れなかった。ただ悲しげにシーピショップを見詰め、こう呟く。
「……もう一度言います。私を怨むなら、私だけを怨みなさい。他の者は巻き込まぬよう」
暫しの沈黙―やがて、シーピショップは頷いた。
「わかった。そちらが身を差し出すのなら、他は見逃がそう。男達も開放しよう。……来い」
キルケーは頷き、歩み出す。シーピショップの言葉を疑う事も無く。
やがて、結界の外に出たキルケーは言った。
「どうぞ。これで、…………」
直後、キルケーの首に蛇が巻き付く。シーピショップから生え出た蛇だ。
「結界を解け。それとも、ここで死ぬか」
感情の無い目で、シーピショップはただそうとだけ告げる。
「……見逃がすのでは…」
呟くキルケーの目には、失望が浮かんでいた。
「気が変わった」
蛇は更に強く、キルケーの首を締め上げて行く……。
「ぐ、あ、……怨むなら私だけを……」
未だそんな事を言うキルケーを、シーピショップは笑った。
「恨みなど無いさ。ただ……彼女は国が欲しいと言うんだ。民が欲しいと。なら、叶えてやりたいだろう?結界を解け」
「…お断りします」
「なら、死ぬか?」
「……私が死んだところで、結界は解けませんよ」
「そうか……。なら、試してみよう」
蛇は更に、更に強く。呼吸の自由を奪うどころではなく、その首をへし折る程に強く強く、キルケーの首を締め上げる。苦し気に声を上げながら、それでも、キルケーは悲しげに、あるいは同情するようにシーピショップを見ていた。
シーピショップには、本当にキルケーを殺すつもりはなかった。だが、その同情の視線を浴びた瞬間、合理性も何もすべて吹き飛び、ただ反射的に力を込める。
――不意に、キルケーの首を締める蛇がはじけ飛んだ。
不可視の矢が貫いたのだ。
そして、矢はその一本では無い。まったく同じ軌道で速射された二射目―その矢は、シーピショップとキルケーのちょうど中心で、形を失った。
暴風が吹く。圧縮された空気が爆ぜ、周囲へと風を散らす。
シーピショップは僅かに後ずさっただけだが、しかしそれは小柄なキルケーを吹き飛ばすには、十分な威力だった。
爆ぜた矢によってキルケーはまた、結界の内側へと飛ばされる。
「あの娘か…」
逃げた弓兵の娘―アイシャが暗躍しているのだろう。つまらなそうにそう呟いたシーピショップは、拘束を解かれたばかりでせき込むキルケーに視線を向けた。
いくら射られた所で、どうせシーピショップは死なないのだ。あの弓兵の相手は後で良い。
「キルケー……結界を解く気はないか」
その問いに、シーピショップを睨みあげるキルケーの目は、酷く悲しげだ。
「貴方は、……もう信用できない」
「そうか。…なら」
シーピショップが呟くと共に、兵士達は剣を抜く。無理やりにでも結界を破ろうと言うのか……そんな予測をしたキルケーだったが、しかしその眼は驚きに見開かれた。
兵士達は、一様に自身の首に剣を押し当てたのだ。今にも、自殺しようとでも言うように。
「何を……」
「10数える。開けなければ一人死ぬぞ。その次に一人、また一人……」
「そんな…」
絶句したキルケーを冷たく眺めながら、シーピショップはカウントを始めた。
国が欲しい、民が欲しいとそう言っていたはずだ。それをむやみに殺す事などしない……先程までのキルケーなら、そう考えただろう。
だが、殺され掛けた今となっては、もう…シーピショップ―グラウの良心を信じられない。
兵士達は街の住人だ―キルケーがかくまっている女達の夫であり、恋人であり、子であり父である……見捨てることは出来ない。例え、捕らえられようと……生きていればまだ。
「3、2、1……」
「わかりました……」
カウントの終わりを待たず、キルケーは結界を解いた。
パン。破裂音に、シーピショップは結界へと手を伸ばし―確かにそれがなくなっていることを確認する。そして、シーピショップは兵士達へと向き直った。
「捕らえろ。全員だ」
*
「あ~あ。結界、解いちゃった?」
アイシャは未だ防壁の上。
一旦逃げ伸びた後、また高台に登り、様子を眺めていたのだ。
うまい事キルケーの窮地を救った、までは良かったが、その後のやり取りの結果、どうもキルケーは結界を解いてしまったらしい。
もっとも、一部始終眺めていたアイシャには、そのやり取りの内容は予測できる。
「えぐい事するな~……って、私も似たような事やったか……」
兵士の命を盾に、開ける事を迫ったのだろう。確かに自刃しようとしている所が見えた。
アイシャがネロを使ってやったのと似たような発想である。
もっとも、殺そうとしている以上アイシャより間違いなく性質が悪い。その上……
「……手出しできないな…」
一つの脅しでアイシャの行動まで束縛されているのだ。
アイシャが手を出した場合、また兵士の命を盾にされかねない……。
結局、シーピショップを倒す有効打もない以上、アイシャはただ黙って、街の女達が連れ去られる光景を眺めているしかないのだ。
「…こうなると、いよいよ、お兄さんに期待なんだけど……」
あるいはさっさとスキュラを倒してくれれば、兵士達の洗脳も解けて形勢は逆転するのだが……。呟きと共に、遠くの神殿を、そして続く橋を眺めたアイシャは、何かがその橋を渡っていることに気付いた。
「猫ちゃん……だけ?」
その事に胸中に僅かな不安を抱きながら、アイシャは走るネロの元へと向かった。
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