第2話 焔の少年
目を覚まして初めて感じたものは、頬に当たる冷たい感触であった。続いて、水滴がどこかで地を叩く音を聞いた。
眼を開けると、
水滴が地面を叩く音が
身体は限りなく
君は身を起こし、周囲を見回す。
明るかったのは、君が
「ここは――?」
「ようやく気づかれたのですね。」
頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、虚空の中に焔が現れた。焔の中には玉座があり、長いスカートを履いた人物が坐っている。それが少年であることはすぐ判った。髪も瞳も焔のように紅い。髪は腰にかかるほど長く、一本に束ねられている。腰には紅い鞘の剣を
「ここは一体どこだ――? 殿下は――?」
少年は君を哀れむような顔をした。
「ビャチェスラフ・カンチェルスキス――あなたは死んだのです。」
「なん――だと――?」
そんな
信じられないかもしれませんが、事実です、と少年は言った。
「よく思い出してみて下さい。あなたは、ここへ来る前は何をしていたのです? ツェツィーリヤ・ズビャギンツェヴァの後を追って、高楼から銑鉄の中へと飛びこんだのではありませんか。」
言われて思い出した。確かにそうなのだ――君はツェツィーリヤの閉じ込められた鳥籠を、最後まで掴むことができなかった。鳥籠は白い銑鉄の中へ落ちていった。そして君自身も、銑鉄の中へ頭から飛び込んでいったのである。
あの状況で生きていられるわけがない。
そしてふと、目の前にいる少年のことが気にかかった。
「君は――?」
「私は焔の神、カグツチです。」
君は唖然とした。
確かに聞いたことがある――焔の神は、少女のような恰好をした少年であると。そしてその神像もまた、君はかつて教会で目にしたことがあった。確かに、目の前の少年はその神像と似ている。
「まさか――実在していたとは。」
君はいよいよ現実を受け入れざるを得なくなった。
自分は確かに死んだのだ。そして、目の前にいるのは本物の神なのであろう。ここがどこなのかは分からないが、少なくとも生きている人間のいる処ではない。
そうであっても、訊ねざるを得なかった。
「殿下は――どうなりましたか?」
少年の長い睫毛が焔に照り返され、霜のように輝いた。
「ツェツィーリヤ・ズビャギンツェヴァは、あなたよりも先に鳥籠ごと銑鉄の中へと落ちて絶命しました。あなたが銑鉄の中へと落ちて絶命したのは、その一瞬あとのことです。」
君は身体中の力が萎えるのを感じた。床へ手を突き、項垂れる。
君が戦ってきた理由は、国を守るためというよりかは、君にとって特別な存在であるツェツィーリヤのためであった。その一年間の戦いと、君の勇気と努力は、全て水泡に帰したのだ。
君を慰めるかのように、カグツチは言う。
「落ち込むことはありません。あなたの戦いは――決して無駄ではありませんでした。要塞はあのあとすぐに陥落し、あなたの部下たちは魔王の首を打ち取ることに成功しました。ペトロパヴロフスク王国は、建国以来の脅威を取り除くことができたのです。」
「しかし――私は殿下を守ることができなかった!」
君は拳を握りしめ、床へと打ち付ける。
「私が兵を上げたのは、殿下を救うために他ならなかった! それなのに――殿下を
「ビャチェスラフ・カンチェルスキス――よく聴きなさい。」
カグツチの鋭い一声が響いた。ペトロパヴロフスク王国の人名は、自国民でさえ舌を噛むことが多いが、その声に澱みはなかった。
「あなたが最後にとった行動は、無謀とも言える行為ではありました。しかしそれに至る経緯を考えれば、運が悪かったとも言えます。そして、あなたの一途な気持ちは誰もが認めるものでしょう。何よりあなたは、私の
「それが――どうしたっていうんです?」
「あなたには、新しい生が与えられる権利があるのです。ただし、今まであなたが住んでいた世界とは、違う世界での転生となりますが。」
そんな誘いも、今となっては虚しいばかりだ。
「転生したところで、殿下がおられなければ――」
「ツェツィーリヤはもうその世界に転生しているのですよ。」
君は顔を上げた。
「――マジで?」
「はい。彼女は――あなたよりも遥かに運が悪かった。そして、私の眷属によって絶命したという点ではあなたと同じです。転生については、本人もまた
「殿下が――諒承された?」
「そうです。彼女は――あなたよりも遥かに若くして亡くなったのですから。もし転生しないのであれば、人はただ消えてゆくだけです。転生することを選んだのも当然ではありませんか?」
「消えてゆく――だけなのですか?」
「ええ――。普通は――そうですよ。死というのは、
それはさすがに厭だなと君は思った。
どうしますか――とカグツチは問うた。
「もしあなたも転生するのであれば、ツェツィーリヤと近い関係に生まれさせてあげます。それくらいの配慮はできますから。」
君は少しだけ考え込んだ。このまま転生しないのであれば、ただ消えてゆくだけだ。踌躇はあったものの、ツェツィーリヤが既に転生しているのであれば、もはや答えは一つしかない。
そうであっても、まだ疑問が消えたわけではなかった。
「しかし――殿下が転生された世界というのは、一体どのような処なのでしょうか? そこだけが少し不安です。果たして、そのような世界で生きてゆけるのか。――」
「安心してください。とても平和な世界です。」
「平和であっても、幸福な社会であるとは限らないですよ。」
「確かにそうであるかもしれません。しかし、非常に文明の発展した世界です。治安はよく、様々な病気にも治療法があり、食糧供給率は安定しており、人々は豊かな生活をしています。民主主義という制度により、人民の幸福を追求する政治が行われています。少なくとも、あなたが今まで住んでいた世界よりかは住みやすいでしょう。」
君は少しだけ驚いた。
「何です、それは? 天国じゃないですか。」
「この世には天国も地獄もありませんよ。豊かな国に生まれれば豊かに暮らし、貧しい国に生まれれば貧しく暮らす――ただそれだけです。そこに善行とか悪行とか、因果応報とかはありませんから。」
よりによって神にこんなことは言われたくないものである。しかし、それが現実なのであろう。貧しい身分から這い上がり、魔王によって散々な目に遭わされていた君は、身を以てそれを知っていた。
――たとえ善行を積んでも、地獄のような目に遭うことはある。
逆に、悪行を積んでも、積まなくとも、天国のような目に遇うこともあるのだ。そのような世界へ行けるのであれば、行くしかない。
「分かりました――転生しましょう。」
カグツチの冷たい顔が、微笑みへと変わった。
「あなたのその言葉を待っていました。」
カグツチは立ち上がった。虚空の中、焔の上に立っている。そして腰に佩いていた剣を鞘から抜き出す。焔の中の刀身はむしろ冷たそうに見えた。剣を前に立て、カグツチは一声する。
「勇者ビャチェスラフ・カンチェルスキスを転生させる!」
君の坐っていた周囲が、急激に明るくなった。床が、まるであの銑鉄のような、朱色を帯びた白に輝き始めたのだ。しかし熱は全くない。ただただ強い光がある。
カグツチは剣を前に降り下ろした。
「
光りはさらに強くなり、君は眼を開けられなくなった。それは、ちょうど銑鉄に落ちたあの瞬間とほんの少しだけ似ていた。
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