転生の勇者

千石杏香

第1話 要塞での決戦

熱風と臭気が身体を蝕んでいた。


汗が涙のように落ちてきて顔を濡らす。


君は息を切らしつつも塗炭の屋根の上を駆けている。


魔王の住処すみかは、鋼鉄の装甲とコンクリートによって形作られた要塞であった。箱型や円筒形の建物が鉄骨やパイプなどで複雑に連結されており、やぐらのように高い煙突からは黒煙が吐き出されている。随所には戦艦のように鉄塔や砲台が連なっていた。


君から百メートルほど離れた場所の塗炭の屋根が、突如としてはじけ飛んだ。塗炭や鉄骨の破片を散らしながら、赤錆あかさびの浮いた鈍色にびいろの龍が頭を突き出す。魔王の主要兵器――クラスノルツカヤである。突き出た頭は数メートルほどの高さがある。


君は地面を蹴った。持ち前の運動能力と足につけた反重力靴の力で、転瞬てんしゅんのあいだに数十メートルほど駆け上がった。


クラスノルツカヤが少し遅れて焔を吐く。火のいたナパームが空中を舞う。君は手にしていた五十ミリ機動砲をクラスノルツカヤへ向けて三発、発射させる。うち二発がクラスノルツカヤの首と顔に直撃した。君は五十ミリ機動砲の反動を利用して空中をさらに飛び、建物と建物をつなぐ鉄骨に掴まった。


爆炎の中、クラスノルツカヤはあらぬ方向へとナパームを飛び散らせる。羽をばたつかせ、鉄骨や塗炭を弾き飛ばす。苦しんでいるようではあったが、鋼鉄の兵器が苦しむはずもない。


君はそこへさらに機動砲を四発撃ち込む。


そして鉄骨の上へ這い上がり、魔王のいる高楼へ向けて走り出した。


鉄骨は地面から百メートルほど離れていた。地面は熔解した鉄で充たされている。銑鉄せんてつほのかに朱色がかっていたが、全体的に白い輝きを見せていた。熱風は君の元へも容赦なく駆け上ってきている。


「もはや限界が近いことは君自身が最も分かっているだろう?」


要塞のあちこちに取り付けられたスピーカーから魔王の声がした。


「勇者ビャチェスラフ・カンチェルスキス――君は私の元に辿り着くことなどできないのだ。いずれ力尽き、クラスノルツカヤの餌食となってしまうのだよ。それなのに進むしかないとは――ご愁傷さまだな。大人しく王の元へ帰って処刑されるか――そうでなければ、逃亡してどこかでひっそりと暮らしていれば長生きできたものを。」


――黙れ、魔王。


そう思ったものの、口に出したところで魔王には届かない。


しかし、魔王との距離は確実に縮まりつつあった。


五百メートルほど前方には、要塞の中で最も高い楼閣がある。ちょうど戦艦の艦橋のような建物であり、様々な形の張り出しや建物が積み重ねられたような形をしていた。


魔王はその頂点の張り出しに立っている。人間とほぼ変わりない姿であり、詰襟つめえりの軍服を着ていたが、顔は異様なほど長かった。


本当はここからでも機動砲を魔王に喰らわせてやりたかった。しかし魔王のすぐ隣からは短いクレーンが突き出し、その先端には巨大な鳥籠が吊るされている。中には銀の髪をした少女がおり、戦いの行く先を不安そうに見守っていた。


教会歴千六百九十八年、ペトロパヴロフスク王国は突如として魔王の侵略を受けた。家々は焼かれ、畑は踏み潰され、多くの人々が魔王軍の魔の手にかかった。食糧生産率は格段に下がり、人民の四分の一が飢えと寒さによって落命した。


しかのみならず、王都からたまたま離れていた王女、ツェツィーリヤ・ズビャギンツェヴァが魔王軍の捕虜となる事態が起きた。


魔王はツェツィーリヤを殺さなかった。ツェツィーリヤはペトロパヴロフスク国王、ノヴォシビルスク・ズビャギンツェフの長女であり、まだ十三になったばかりの少女だったからだ。


魔王はノヴォシビルスクに対し、国を明け渡し、人民の全てを奴隷にする代わりに、ツェツィーリヤの命を助けてやろうと放言した。


ノヴォシビルスクの心境は苦渋に充ちていた。手塩にかけて育て上げた、美しくいとおしい娘――。しかし娘の命は、全ての人民の自由と幸福を奪わなければならないほど重いものなのか。この国には、ツェツィーリヤと同じ年齢の娘を持つ人民が、一体どれだけいるのか――。


そんなとき、起ち上がったのが君であった。


君は一個大隊の指揮官であった。持ち前の天才的な作戦能力と身体能力、魔王軍に対する煮え滾る義憤と愛国心、何よりも部下からの熱い信頼により、劣勢であったペトロパヴロフスク王国軍の中で唯一、魔王軍に対して勝利を収め続けていた。


君はノヴォシビルスクの前に名乗り出た。


――国を売り渡してはいけません。ツェツィーリヤ王女殿下は私が救い出してみせます。何卒なにとぞ、私に一個連隊をお与えください。逆にこちらから魔王の元に攻め込んでみせましょう。


ノヴォシビルスクはこれを裁可した。


君の元に、ペトロパヴロフスク王国軍の中でも選抜された強者が集められ、約三千人からなる連隊が構成された。君はその先頭に立って魔王軍へと立ち向かった。率先して奮鬥ふんとうする君の姿に、兵士たちの士気は昂揚した。君と君の連隊は次々と魔王軍を打ち破り、侵略された国土を回復し、魔王の領土へと攻め込んでいったのである。


しかし――魔王領に攻め込んでからは苦難が続いた。魔王軍は敗北を続けていたものの、君達の損害も生易しいものではなかったのだ。


そして今日――最後の戦いに至った。君達は魔王の本拠地まで進撃した。魔王も必死であった。温存させていた兵力を全て用い、この戦いのなかで最も激しい反撃を開始した。戦いは熾烈を極めた。魔王軍の相手を部下たちに任せ、君は単身で要塞の中に乗り込んだのである。


魔王とツェツィーリヤの元まであと僅かだ。


しかし、君の体力が限界に近づいていたことも事実であった。


楼閣の張り出しから、魔王の近衛兵が機銃や機動砲を君へ向けて発射する。銃弾や砲弾が次々と君の付近に着地した。君はそれを避けながら駆け、近衛兵に向けて機動砲を発射する。


そして、高楼の手前にある砲台のような建物へと駆け上がった。それを踏み台にしてさらに飛び跳ね、高楼から突き出た張り出しの一つへと着地した。


魔王の近衛兵たちがやいばかざして駆け寄ってきた。君はそれを機動砲で次々と斬り倒していった。機動砲は、大きな剣でもあった。


近衛兵を斬り倒し、機動砲で吹き飛ばしながら、高楼を駆け上ってゆく。中腹まで来たとき、窓からクラスノルツカヤが顔を覗かせた。口を大きく開き、ナパームを発射しようとする。しかしそれより先に、君の五十粍機動砲が火を噴いた。龍は口内を爆発させ、身を仰け反らせ、ゆっくりと高楼から落ちていった。


しばらくして、銑鉄のなかに何か巨大な物の落ちる音がした。


君は息をいた。


――やった。


クラスノルツカヤはやや動きが鈍いとはいえ、一瞬の差であった。要塞に侵入して以来、君はクラスノルツカヤに苦しめ続けられてきた。その撃滅に成功したのだ。あと残るのは若干の近衛兵と魔王だけだ。


君は高楼の階段を駆け上った。


しかしながら――どういうわけかこのときになって敵の姿が見えなくなった。多くの敵を相手にしてきた今までに比べれば、君は楽々と絶頂へ向けて駆け抜けていったのである。


そうであっても、九割ほど昇ってきたところで疲労が押し寄せた。君は一旦立ち止まり、呼吸を整える。


ふと目を遣ると、張り出しの向こうに外の風景があった。煙のような曇天の下に、いくつもの光が瞬いている。しばらく遅れて、機動砲を撃つ音が聞こえる。仲間たちが戦っているのだ。


その風景に引き寄せられるように、君は張り出しへ出た。遠くに、虎口こぐちを破って要塞の中へ侵入した仲間たちの姿が見える。


君は頭を上げた。


十数メートルほど上に、張り出しから君を見下ろす魔王と、鳥籠の中で怯えるツェツィーリヤの姿があった。


魔王の硬い声が降ってくる。


「勇者ビャチェスラフ・カンチェルスキス――よくぞここまで来られたな。素直に褒めてやろう。貴様が無様に足掻く姿を見られて、私もとても面白かったぞ。」


「黙れ、魔王!」


君は一喝する。


「貴様にとっては――こんなものは遊びだったのかもしれない。しかし貴様のせいで、一体どれだけの人々が苦しみ、命を落としてきたと思っている! 今日はそんなお前が報いを受ける番だ!」


「知っている。知っているからこそ愉しかったのだ。」


君は言葉を失った。魔王はどこまでも冷血であった。


「だが、もうそんな愉しいお遊びは終わりだな――勇者ビャチェスラフ・カンチェルスキス。今まで愉しませてくれてありがとう。」


言って、魔王はツェツィーリヤへと目を遣る。


「――この娘は、お前にとって本当に大切な人間らしいな。」


「当たり前だ――! 殿下はお前のような奴とは違い、お優しい方だ! 私がまだ訓練兵で、上官にしごかれ、大きな傷を負ったときも、親しくねぎらいの言葉をかけて下さった。殿下のためならば、私はたとえ焔の中であろうとも微笑んで飛びこんでみせる!」


「ほほう? では飛びこんでもらおうか。」


皮肉に微笑み、魔王は指を打ち鳴らした。


瞬間、鳥籠を吊るしていたクレーンが不吉な音を立て始めた。鎖がこすれるような音である。何をする――と思い、君は駆け上がろうとする。しかし、それよりも先に鳥籠がクレーンから離れた。


鳥籠が絶頂から落ちてゆく。


君は咄嗟に方向を変え、張り出しから飛び出した。


鳥籠を追うようにして君は落ちてゆく。


絶頂から地面までの距離は四、三百メートル。鳥籠を掴み、高楼のどこかに掴まることは、たとえその重さを勘定しても、君の身体能力では不可能なことではない――ただ、非常に難しいだけだ。


落下しているあいだはとてもゆっくり感じられた。


君と鳥籠とは数メートルほど離れている。君は身体を矢のように伸ばし、鳥籠に近づこうとする。しかし距離は縮められない。白く輝く銑鉄が近づいてきている。鳥籠からツェツィーリヤが顔を出し、腕を伸ばした。そして、力の限り君の名前を叫ぶ。


「ビャチェスラフ・カンチェルスキス――!」


鳥籠よりも、ツェツィーリヤの手を取ろうとして君は腕を伸ばす。だがそうであっても、まだまだ二、三メートルほどの距離がある。


熱風と共に、白い銑鉄が二人のすぐそばまで迫っていた。

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