美術室の亡霊

天川 夕

美術室の亡霊


 これは偏見であるが、人は超自然的なものを好む生き物だ。超自然的なものと一概に言うが、ここでは特に幽霊を指している。この世に未練を残す死者の霊が形となって現われる怪異現象、それが幽霊である。亡者という意味では、亡霊なんて呼ばれることもあるだろう。幽霊には僕ら生き物が生きるために必要な力、すなわち生命が、著しく欠如している。幽霊なのだから生命など存在しないだろうという人が多数派であるかもしれないが、僕はそうは思わない。形となり姿を現すのであれば、それは間違いなく生命であると考える。つまり、幽霊の、亡霊の生命はゼロではないというのが僕の考えである。ここで生じる矛盾については今回は省略しよう。少し脱線してしまったが、時には脱線も必要である。例えば今この状況。内幸高校に通う僕は退屈な授業を受けている。もし今脱線していなかったら話が早く終わってしまい、その分授業に耳を傾けることになっていた。そんなのは有意義とは言い難い。しかし脱線したことによって、それを避けることができたのだ。よって、時に脱線は必要である。まあ、脱線して本筋に戻れなかったら元も子もないのだが。

「板橋くん……板橋かけるくん!」

「は、はい!」

「ちゃんと聞いていますか? さっきからぼーっとしてるようですけど」

「聞いてますよ」

 聞いてないけど。

「ぼーっとしてるのは生まれつきです」

「そ、そうですか。ちゃんと聞いてくださいね」

 この若干引いている女性は実は教師ではない。どこかの大学からきた教育実習生である。先週着任した彼女、白山先生は英語を教えている。白山先生は高校時代この学校に通っていたらしく、普段の英語担当、高島先生とは顔見知りのようだった。初日の授業が終わった後で親しそうに話していたのをよく覚えている。

 終業のチャイムが鳴り響く。

「はい、じゃあ今日の授業はここまでです。みんな予習復習忘れないでね」

 授業が終わると同時に二人の生徒が白山先生に駆け寄る。

「先生先生! 明日もいるのー?」

 二人の生徒はまるで幼稚園児のように無邪気に話す。

「ごめんね、明日は水曜日だからいないんだ。私が来れるの月火木金だけだから」

 白山先生は微妙な表情を浮かべた。

「そっかー、残念。じゃあまた明後日ね!」

 白山先生は小柄で親しみやすいのと優しい性格から生徒に人気がある。特に女子。彼女らは同級生と会話するかのような振る舞いで先生に絡む。

「はーい、さようなら」

 そう告げて白山先生は職員室へ向かった。

 そして静まり返った教室に学級委員の声が響く。

「はい、ちゅうもーく。教育実習生の白山先生とは今週末でお別れとなってしまいます。そこでみんなで書いた色紙を先生にプレゼントしたいと思いまーす。高島っちの話によれば先生は高校時代、美術部に入っていたということで、パレットの絵が描かれたものを用意しました。私の机に入れておくので各自、先生がいない明日中に英語でメッセージを書いてくださーい。よろしくお願いしまーす」

 色紙を書くだけでもめんどくさいのに、それを英語で書けとは。どこまでもめんどくさいことが好きなんだな、この学級委員は。

 ガラッというドアを開ける音とともに色紙の話でざわついていた教室は静寂を取り戻した。ドアを開けたのはほかでもない、白山先生である。

「じゃあ帰りのホームルーム始めるよー。みんな席についてー」



 放課後、僕は部室に行くため長い廊下を歩く。この学校の構造は特殊で、まず校舎が七つある。個々の校舎をそれぞれハウスと呼び、広い敷地の中に設置している。正門を入ってすぐ左に一ハウス、その奥には七ハウス、さらにその奥には四つの体育館がある。その反対側、つまり正門を入って右に進めば、一番手前には二ハウス、三ハウス、四ハウス、五ハウスと続き、その向かい側に六ハウスがある。そして、それぞれのハウス、体育館を繋ぐ一階の外廊下をピロティと呼び、僕が今歩いている二階の大廊下はモールと呼ばれている。モールは中庭を四角く囲むように設置されていて、校舎内を移動する際には全生徒が利用している。休み時間なんかは移動教室をする生徒で大都会のスクランブル交差点状態だ。

 僕のハウスは五ハウスで、今向かっている部室は二ハウスにある。それぞれのハウスには別称があり、一ハウスから国語棟、外国語棟、社会棟、数学棟、五ハウスと六ハウスは合わせて理科棟、七ハウスは芸術棟と呼ばれている。こんな呼び方をする理由は実に単純だ。理科棟三階には理科の実験室があり、それと同じようにほかの棟の三階にも教科ごとの教室が設置されている。そのため、教科の後ろに棟をつけて呼ばれる。

 外国語棟の階段を上り、左に曲がる。その一番奥にある英語科準備室が僕らの部室だ。

 冷たいドアノブを捻り、前に押すとキーと立て付けの悪い不快な音がした。

 部室にはほかの部員が先に来ていたようだ。

 このきつねに似た顔をした男は、水道橋わたる。ここ推理部の部長である。

「相変わらず嫌味な顔だな」

 僕の挨拶を聞き、水道橋はにやりと笑う。

「板橋くんも相変わらず、僕に冷たいね」

「僕は誰にだって同じ態度をとる」

「それはいい性格だね」

 水道橋もいい性格だよ、まったく。

 英語科準備室はお世辞にも広いとは言えない。部屋の形は縦長でドアの反対側には窓がある。壁際には棚が隙間なく並べられていて、細長いテーブルとパイプ椅子を置いたらもう満員御礼である。

 水道橋はいつも、テーブルの一番窓側、上座にパイプ椅子を置いて腰掛ける。今日もそこに座っている。

 僕は窓に向かって右側の真ん中より奥に座る。いつも通り置いてある椅子に腰掛け、読みかけの本を開く。この空間にいると読書が捗る。教室はいつも授業を受けているせいか、いるだけでストレスが溜まるし、家では誘惑が多すぎる。カフェのような静かなところもいいが、バイトをしていない僕にはコーヒー代も惜しい。というわけでグラウンドから離れていて近くに空き教室の多いここ、英語科準備室は最優良物件なのである。それにこの部屋の狭さがまたいい。ただ、欠点が一つ。

「ねえねえ、板橋くん。なにか面白い話ないのかい?」

 その欠点とはこいつ、水道橋渡である。英語科準備室というオアシスを脅かし、僕の読書の邪魔をする侵略者。

「そうだな。ではここで一席」

「違う違う、違うんだよ板橋くん。面白い話ってのは落語とか漫才って意味じゃないんだ。僕が欲しているのは事件なんだよ。誰もが首をかしげる難事件、そういうのを聞きたいんだよ」

 まあ、知っていたが。

 水道橋渡は推理オタクである。ここでいう推理オタクとは推理小説好きという意味ではない。水道橋は推理するのが好きなのだ。誰も解けない難事件に興奮する特殊性癖の持ち主である。

「だから、そういうことは僕に聞かないでくれ。適役がいるだろ」

 適役というのは、推理部のもう一人の部員。いつも厄介ごとを手土産に部室へやってくる、めんどくさい製造機。というか、めんどくさいそのもの、体の十二割がめんどくさいでできている。水道橋と並び、この英語科準備室を脅かす侵略者。そう考えると欠点は一つでなく二つ、いや、二人。どうにかしてこの二人を部室から追い出したい。切実に。

まずは水道橋から。そうだな、できるだけ自然に、例えば水道橋の性格をうまく利用して。

「そういや水道橋」

「どうしたんだい板橋くん。なにか面白い事件でも思い出したかな?」

 よし。これを使って水道橋を校外へと追い出す。

「そうなんだ。実は駅前のパン屋で……」

「ふーん。それは大変だあ」

 僕の言葉を遮って水道橋が間の抜けたフライング。微妙な表情で僕を睨む。

「おい、まだ話が途中だぞ」

「いやー、だって板橋くんさ、嘘下手なんだもん」

「嘘って。まだ駅前のパン屋としか言ってないじゃないか」

「どうせ駅前のパン屋の看板メニュー、あんぱんの上のごまが白から黒になったとかなくなったとかだろ。それに駅前のパン屋を選んだのは学校から遠いからだ。学校から遠く、駅に近いパン屋まで行ってしまえば何もないとわかっても学校には引き返さず家に帰ると予想したんだろう。そして動機はもちろん、僕を部室から追い出したかったから。思考が論理的すぎるんだよ、板橋くんは」

 僕は深くため息を吐く。

「その通りだよ。悪かったな」

 これだから推理オタクは。頭が切れるだけじゃなく、勘まで鋭い。そこは素直に尊敬するがこの調子じゃ水道橋を追い出すのは無理そうだ。てか、わかってるなら自分から出て行ってくれよ。

「詰めが甘いなー」

「だが水道橋、お前の推理は間違っている」

「え? さっきその通りって言ったじゃないか」

「大元は間違っていない。間違っているのはあんぱんのごまの部分だ」

「いや、そこは例として出しただけで……」

 水道橋は若干引いているがこれでは僕の気が収まらない。

「あんぱんのごまってのは元々、日本人のパン嫌いを克服するためにかけられたものなんだ。だからごまがかかっていなかったくらいじゃ事件にはならない。現代の日本人はパン好きも多いからね。まあ諸説あり、だけどな」

「へ、へえ、そうなんだ。それは知らな……」

「それから諸説についてだが」

 水道橋は、「まだ続くのか」とも言いたげにこちらを見ているがまだ話し足りない。

「あんぱんのごまは中身の餡の種類を見分けるためにかけられていたとも云われている。つぶあんの場合は黒ごま、こしあんなら白ごま。つまり、ごまが白から黒に変わったのは餡の種類が変わっただけで、これも事件とは言えないな」

 僕が一通り話し終わってスッキリしている横で、水道橋は深いため息を吐いていた。

「君は何でも知ってるな」

 水道橋が言った。

「僕は何も知らないよ。ただ覚えてるだけだ」

 僕も続けて言った。

 さっきまでは水道橋が邪魔でしかたなかったが、一度話し始めてしまうと読書には戻りづらい。しばらく続いた沈黙に痺れを切らして話題を振る。

「そういえば、またうちの学級委員がめんどくさいことを持ち出してきたよ」

「へー。それは、クラスで?」

「そうそう、なんだか当ててみなよ」

 水道橋はただの推理オタクではない。さっきも言った通り頭が切れるし勘が鋭い。こんなちょっとしたことでも日常から手がかりを見つけて瞬時に正解に辿り着いてしまう。

「んー、教育実習生に関係することかな。今週末でお別れだし、今日は火曜日だからね。彼らは水曜日学校に来ない。何らかの話を持ち出すには好都合だろう」

 水道橋は細い目を薄っすら開いて僕の表情を窺い、推理を続ける。

「それに話を持ち出したのは学級委員だ。それらのことを踏まえて考えると、教育実習生に色紙でも渡すのだろう」

「さすが水道橋。でもよく今の情報だけで色紙まで辿り着いたな」

 水道橋がにやりと笑う。

「情報ならほかにもあったよ。この推理の決め手となる大きな情報がね」

「ほかの情報? 僕はほかに何も言ってないけど」

「そうだよ。板橋くんは何も言っていない。その情報は僕の中にあったからね。正確には僕のクラス、だけど」

 その言葉を聞いて思い出した。恐らく水道橋が言う情報は、

「いるのか、水道橋のクラスにも」

「そうだよ。そして僕のクラスにも今日、色紙の話が出た。学級委員の提案でね」

 僕は一度深いため息を吐く。

「ずるいぞ」

「ずるくないよ。手掛かりは手掛かりだ」

 狐に化かされた気分だ。

「水道橋、目もっと開けよ」

「だめだね。この細い目は僕のチャームポイントだ」

 水道橋の顔を見ているとイライラが収まらない。彼は未だにニヤニヤしている。

 しかしそれもここまでだ。僕にはまだ切り札がある。

「なあ、水道橋。うちの学級委員がただ色紙を書くだけで終わると思うか?」

「思ってないさ。もう大体わかってるよ」

 瞬間、驚いて眉を上げてしまった。

「そこまでお見通しってわけか」

「答えは英語だろ? 板橋くんのクラスの教育実習生は英語担当だからね。僕もその先生の授業を受けているよ」

 僕は黙るしかなかった。完全に敗北した。勝負していたわけではないがそんな気分だ。

「決め手は何だったんだ?」

「そんなの簡単さ」

 水道橋は一呼吸おいて言葉を続ける。

「彼女の性格だよ」

 僕は頷く。

「それしかないか」

 話に区切りがついたところで部室のドアが開いた。僕と水道橋がそちらへ視線を移す。

 ドアを開けた彼女は僕たちの顔を見て陽気に話す。

「おはよう、諸君!」

 もう夕方だけどな。

 へらへらしている彼女、千石茉莉まつりは推理部のもう一人の部員。そして、僕のクラスの学級委員、めんどくさい製造機である。千石は小柄で、後頭部には位置の高いポニーテールを配っている。耳の位置より高く結ぶのは校則違反だが、先生も風紀委員も千石に甘い。理由は単純明快、僕からすれば奇々怪々、千石が可愛いからだ。

 千石茉莉は美少女である。廊下ですれ違えば誰もが振り返る。それは顔立ちがいいからなのか、桃の香りがするからなのか、異質のオーラに引き寄せられてなのか、理由はそれぞれだが振り返らずにはいられない。

 しかし千石は頭が悪い。定期テストの学年順位は下から数えてすぐだし、考えが単調で単細胞すぎる。黙っていれば問題ないのだが、お喋りな性格から欠点がむき出しになっている。

 なぜそんな千石が学級委員になれたのか。それはもう言わなくてもわかるだろう。美少女だからだ。

 千石は窓に向かって左側のちょうど真ん中に座る。落ち着いた風にも見えるがそんなはずはない。千石が何の手土産もなしに部室へ来るはずがないのだ。僕は今にも千石の口が開くのではないかとまじまじと見る。水道橋も千石の口元を凝視している。

 千石はしばらく動かず、ポカンとしたままだったが、急に目を丸くしたかと思うと、「思い出した!」と女の子らしい高い声を上げた。同時にテーブルを思い切り叩いてその反動で立ち上がる。

 瞬間、水道橋も立ち上がった。

「どうした! 何か事件か!」

「そうなんだよ、スイスイ!」

 この二人はなぜこんな急にテンションを上げられるのだろう。

「事件が気になるとこだけど、とりあえずスイスイって呼ぶのやめようか!」

「じゃあ、やっぱわたるんかー」

 いや、それスイスイと大差ない気が……

「それならいいよ」

 だめだ。この二人だけだと話が一向に進まない。

「おい、とりあえず落ち着け。座れよ……座れって」

 二人はストンと椅子に腰を下ろした。

「それで、なにがあったんだ?」

「そう、聞いて、大変なの。あのね、実はこの学校……」

 千石がそこで一呼吸おく。同時に僕と水道橋はゴクリと唾を飲んだ。そして千石が小声でゆっくり喋る。

「幽霊が出るんだって」

 前略、さっきの僕。やはり人は超自然的なものを好む生き物らしい。



「それは千石ちゃんが見たの?」

 水道橋の質問に千石が首を横に振る。

「私は見てないよ。てかそんなの見てたら今頃部屋に引きこもってるから。まじ無理だから」

「そうだったね。千石ちゃんはホラーが大の苦手だったね」

 水道橋が笑いながら言った。

「笑い事じゃないからー。話で聞くだけでも怖いんだからね。早く解決してよー」

 千石が水道橋の肩を揺らす。

「わかったわかった。続き話してくれる?」

 千石は一度頷くと静かに語り始めた。

「ある女子生徒がね、部活終わりに教室に忘れ物をしたことに気づいたんだって。そしたらもちろん取りに戻るじゃん? モールを通って」

「そうだね。どのハウスに戻るとしても、体育館からならみんな同じモールを通る」

「それでその子、見ちゃったんだって。窓から、中庭を挟んで向こう側のモールを、石膏像が歩いてるところ」

 石膏像って、あの美術で使う白い彫刻か。たしかにそれが歩いてたとなれば相当ホラーだな。

「それってどっちに向かって歩いてたんだい?」

 怖がる様子もなく水道橋が問う。

「芸術棟の方に向かってたみたい。ゆっくり歩いてたんだって」

「ほお……板橋くんはどう思う?」

「まだ幽霊だとは言えないな」

「僕もそう思うよ」

 千石が、「ちょっと待って」と話を割る。

「あのね、それだけじゃないの。また別の生徒がね、芸術棟の階段下に大きな扉が現れたって言ってるの。あと、美術室に置かれてる絵が日に日に加筆されていくんだって」

 水道橋がにやりと笑う。

「歩く石膏像に、突然現れる大きな扉、そして日に日に加筆される絵画か……」

 水道橋の体が震えている。

「すばらしい! どれも学園七不思議の定番じゃないか!」

 やっぱ興奮してたか。この推理オタクっぷりというか変態っぷり、見てるだけでこっちまで震えてくる。

「なあ、水道橋」

「うん、もちろん気づいてるよ。今回の事件、どれも美術絡みだね」

 やはり水道橋も気づいていたか。

「恐らく、これは三つの事件じゃない。一つの事件だ」

 千石が僕の言葉に首をかしげる。

「どういうこと?」

「千石ちゃんにはちょっと難しかったかな。この三つの事件は恐らく全て繋がっているんだ。だから板橋くんは一つの事件という言い方をしたんだよ」

 その通りだ。だが疑問が一つ。

「水道橋。なんで大きな扉の件が美術絡みだと思った?」

 僕の言ってる意味が分からなかったのか、何かを誤魔化そうとしているのか、水道橋は僕に向かって首をかしげる。

「僕は単純に、突然扉が現れるなんて、立てかけられた絵しかないと思っただけだよ」

 水道橋は、「それに」と加え、続ける。

「千石ちゃん、扉が現れたのは階段下と言ったね?」

 千石がコクリと頷く。

「これがもう一つの理由だよ。芸術棟の階段下は天井が低く作られているからね。高さギリギリの扉の絵を置いたら、天井に近い分大きいと錯覚するだろう」

「そういうことだったか」

「それで。板橋くんはどうして美術絡みだと思ったんだい?」

 聞かれるだろうとは予想していたが、そんなに気になるのか。水道橋の目がいつもより開いている。

「簡単だよ。美術部の先輩の卒業制作さ。彼女らは今、大きな扉の絵を描いている」

 水道橋は元から細い目をさらに細めて笑った。

「ずるいじゃないか板橋くん。君は本当に何でも知っているね」

「だから僕は覚えてるだけだよ」

 一通り笑い終えた水道橋がまじめな顔で、「さて」と話を戻す。

「あと残り二つか。どっちから解く?」

「どちらでも」

「じゃあ、亡霊が加筆している絵の話からいこうか」

 ガタンッ。さっきからポカンと口を開けていた千石が飛び跳ねた。

「ぼ、ぼぼぼぼぼ、ぼうれいが、かかかか、かひつ!?」

「おい落ち着け千石。水道橋もからかうんじゃない」

 水道橋は腹を抱えて笑っている。

「おもしろいなー、千石ちゃんは。膝、テーブルにぶつけたみたいだけど大丈夫かい?」

 怖さを恥ずかしさが上回ったのか、あるいは中和したのか。すでに千石は冷静さを取り戻している。

「ち、ちょっと痛い……けど、大丈夫」

「怪我がなくてよかったよ。それで話の続きなんだけど。まず、加筆してるのが生きた人間だってことは分かってるよね?」

「ああ。僕は千石じゃないからな」

 千石が横で、「ちょっと待て」と寝言を言っているようだがあまり気にしないことにしよう。

「なら話が早い。答えはもう出たよ。板橋くんは?」

 もうわかったのか。

「いいや。さっぱりだ」

「そうか。僕は板橋くんの言葉で気づけたんだけどな」

 僕の言葉? どこにそんなヒントが……。

 水道橋がこちらを見てにやついている。

「もういいよ。教えてくれ、水道橋」

「しかたないな。説明してあげよう。千石ちゃんもよく聞いているんだよ?」

 千石がコクコクと力強く頷いた。

「結論から言うと、加筆されている絵は卒業制作だ。今年のじゃないよ。過去のものだ」

 そうか、僕の言葉というのは卒業制作のことだったのか。

「どうしてそう思うんだ?」

「まず考えたのは、なぜ今そんな噂が流れたか、ということだ。何か環境に変化がなければ新しい噂は生まれない。だとするとその要因は?」

 そこまで聞いて、やっと気づいた。

「教育実習生か」

 水道橋の目が薄っすら開く。

「ご名答。それで僕にはまだわからないことがあるんだけど、教育実習生の中にこの学校の美術部出身の方はいるのかな?」

 千石が目を丸くした。恐らく僕も同じ顔をしているだろう。

「「白山先生!」」

 僕と千石が同時に声を上げた。

「やっぱり白山先生だったか。彼女の指に筆だこがあったからね。そうじゃないかと思ったんだよ」

「わかってたなら先に言えよ」

「いやー、確信がなかったからね。それとさ、卒業制作という線も確信に近いものがほしいんだ」

 水道橋は僕の顔を窺う。

 卒業制作……加筆するということは描きかけ? だとしたらどうして。

「……そうだ! 初日の高島先生との会話。親しそうに話してたから妙に印象に残ってる。たしかあの時……」

 水道橋の顔が近い。

「あの時?」

「入院。白山先生は高校時代、入院していたことがある。そして高島先生は言っていた。途中までで残念だったな、と」

 水道橋の目がこれまでにないほどの開きを見せた。

「それだよ板橋くん! 君はやっぱり何でも知ってるな」

「だから僕は何も知らないってば」

「これで謎は全て解けた」

 千石が何かあたふたしている。

「え、え、全てって? 今の話もよくわかんなかったけど、石膏像は? 歩く石膏像はどこにいっちゃったの?」

 どこに行っちゃったの、か。的確な質問だな。

「千石ちゃん、石膏像はどこにも行ってないよ。あるじゃないか、そこに」

 水道橋は千石の後ろにある棚を指さした。

「なんだ、水道橋も知ってたのか」

「もちろん、知ってたよ。千石ちゃん、後ろの棚開けてみ」

 千石は従順な犬のように水道橋の指示に従った。思い切り棚の戸を引く。

 そこには真っ白とはとても言えない、薄汚れた石膏像があった。

「こ、これって……」

「そうだよ。卒業制作に使われた石膏像だ。英語科準備室は物置だからね。あらゆる教科で古くなったもの、必要なくなったものがここに集まっている」

 千石がフリーズしている。

「水道橋、順を追って説明してやれ」

「もちろんそのつもりだよ。真相はこうだ。

 高校時代、入院のせいで卒業制作を完成させることができなかった白山先生は、教育実習にきたこの二週間でそれを完成させようとした。そこで彼女は部活が終わった後に決行しようと考えたんだ。しかし美術室に行くと描きかけの絵はあるがモデルの石膏像がどこにも見当たらない。そして思い出した。彼女は英語の先生だから知っていたんだろう、英語科準備室に古くなった備品が保管されていることを。美術室の道具を持ち出すわけにはいかないと思った彼女は石膏像を運んでくることにした。外は暗かったはずだからね、遠目だと見間違えても無理はない。石膏像は歩いていたんじゃない。白山先生に運ばれていたんだ。運びきったところで問題がまた一つ。空いているイーゼル、つまり画架がなかったんだ。絵を立てかけるための木製の道具だね。そこで恐らく一番手前にあった扉の絵を退かすことにした。美術室の床には何がこぼれているかわからない。絵の具などで汚してはいけないと思った彼女は階段下にそれを立てかけた。これが突然現れた大きな扉の正体だね。そして、もうわかっているだろうけど、日に日に加筆されている絵は白山先生の卒業制作だった。

 これで全部かな。恐らく来週になれば、薄汚れた石膏像の絵が美術室に飾られてるんじゃないかな」

 千石が思わず拍手をする。

「すごい、すごいよ! 天才だよ、わたるんもかけるんも! やっぱ幽霊なんていなかったんだね!」

「そういうこと。よかったね、千石ちゃん」

 いや、それは違う。たしかに幽霊はいなかった。でも白山先生は卒業してから今まで気にし続けていた。間違いなくこの学校に未練があり、彼女の魂は、生命はたしかに美術室を彷徨っていた。そういう意味では彼女も幽霊……いや、美術室の亡霊だったのかもしれない。

「さて、そろそろ帰ろうか。駅前のパン屋であんぱんでも買おう」

 水道橋が陽気に言う。

「あ、私こしあんがいい!」

「じゃあ白いごまだね」

 千石が、「白? ごま?」と首をかしげる。

「こっちの話だよ。ね、板橋くん」

「ああ。僕はクリームパンにするよ」

 こうして、推理部の長い一日が終わった。



 後日談。

「おはよー、かけるん!」

 駅から学校へ向かう途中、後ろから声をかけてきたのは千石茉莉だった。

「おはよう、千石」

 教育実習生が来なくなってから、幽霊の噂は聞かなくなった。

 ちなみに白山先生が加筆していた絵は、美術室に飾る場所がないということで英語科準備室に飾ることとなった。

「そういえば、かけるんは色紙に何て書いたの?」

「あー、I don't believe in ghosts って書いたよ」

 千石が首をかしげる。

「それってどういう意味?」

 僕は今日初めて、千石と目を合わせた。

「おばけなんてないさ、って意味だよ」

 千石は満面の笑みを浮かべた、嬉しそうな表情で言う。

「寝ぼけた人が見間違えたんだね!」

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美術室の亡霊 天川 夕 @LuNali0n

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