一 2.

 しばらく××市に通うことにした。

 他にすることもないし謝罪あおりもしなきゃだし、後は病院に通うためだった。


 最近俺は、××市の北の郊外にある精神病院に通っていた。周りには松林以外何もなく、ほとんど人のいない寂れた場所にポツンとある病院だ。

 待合室の椅子に座っていると、「私が何したっていうのよ!!」という絶叫が聞こえた。たぶんあれは鎮静剤を打たれて入院する口だろう。光の差す窓辺で、他の患者の呻き声とかをBGMに俺はひたすら漫画を読んで暇つぶししていた。

「はーい、じゃ次の方どうぞ」

 受付のおばさんの声に導かれて、俺は狭い診察室に入った。ここも外の光が入らない取り調べ室みたいな感じで、おまけにメガネのおっさんと二人きりになるのでげんなりする。

 保護観察の時から臨床心理士についてもらって相談に乗ってもらっていた。相談、というかただ単に俺が一方的に愚痴るだけなのだが。

「最近どうだい? っていうかその顔どうしたの?」

 どうだい、って言われてもねぇ。

「特別変化はないです」

「なんかハローワークであば……ちょっと騒ぎがあったって聞いたけど、何かあった?」

 言いなおさなくていいから。

「まあ、何もないっスよ。もう気にしてないんで平気ですから」

「そっか」

 そこから俺は、いつものごとく俺の人生についてながーくお話ししてあげた。いかに自分は悪くないか、自分は被害者であるか、自分の人生の責任は他者にあるかを三十分近くご高説して、今日のカウンセリングは終わった。

「はい、それじゃまたね」

 おっさんは仕事なんだろうけど、××市科学館のボッロいロボットみたいに何も言い返さないで相槌をうっているのはすごいと思う。


 市内にいると会いたくない人間にも会ってしまう。

 帰り道、駅構内のハンバーガーショップで一人飯を食っていると、中学の頃の同級生とたまたま出くわした。

 彼は見慣れぬ高校の制服を着て仲間と一緒に歩いていたが、わざわざガラス越しに店内にいる俺を見止めると店に入ってきた。

「うわ……お前、○○だよな?」

 へらへらとだらしなく笑う彼は、見るからに小ばかにしている感じだった。彼は高校デビューを果たしたらしく、ワックスをつけたツンツン頭に着崩した制服が似合わなかった。

「そうだけど、何か用?」

 俺は冷たく言い放った。昔はよく話した仲なのだが、あいにくもう顔も見たくない。即座に尻尾撒いて逃げようとしたが、彼の仲間たちも彼に続いてぞろぞろとやってきた。

 これは逃げられない。

「久しぶりじゃん。ちょっと聞きたいこと色々あるんだけど」

 彼は俺の前の席に座ると、俺がハンバーガーを口に含んでいるタイミングで話しかけてきた。慌てて飲み込んで返事をする。

 どうやら根掘り葉掘り俺の事情を聞くつもりらしい。

「お前、もう少年院出たの? つかその顔の線みたいの何?」

 隣にいた別の少年たちも、俺の方を見ながらお互い耳打ちしたりニヤニヤ笑ったりしていた。

 俺がいたのは少年院ではなく少年鑑別所なのだが、こいつらに説明しても分からないだろう。あと、それは名誉の負傷なんだ。

「……出たよ。今は働いてる」

 嘘ついた。

「マジかよ。じゃ高校中退して働いてんの?」

「あぁ。新聞配達だ」

 また嘘をついた。

「しょっぺえな、給料二十万切るっしょ?」

 嘘をつくのに疲れてきたので、話を切り上げることにした。

「帰れよ。お前らに話すようなおもしれえことなんて何もねえよ。人を動物園の象かなんかだと思ってんのか」

 俺はゴミをくずかごに入れると、立ち上がって帰ろうとした。

「は? なんでイラついてんだよ。心配してやってんのに」

「心配?」

 多少カチンときたので、喚くだけ喚いた。

「完っ全に馬鹿にしてんじゃん。とっとと帰れよ。てめえら勝ち組にいじめられる側の人間の気持ちなんて分かるかよ。

 毎日毎日学校行くたびに靴箱に砂入れられてたりとか、机の上に花瓶おかれたりとか休み時間に殴られたりとか、キレて人刺したっておかしくねえだろ? 俺の気持ちが少しでもお前らに分かるか? 俺がどれだけ悲しかったか怖かったか嫌だったか、少しでも分かるのかよ?」

 俺は人目も気にせず一層声を張り上げて叫んだ。すると奴は何が面白いのか笑い出した。

「いじめられて逆ギレして、そんでもって人刺して捕まるとか、何それウケる。負け組の癖にチョづいてんじゃねえよ」

 奴はまた友人たちとともにガハハ、と品なく馬鹿笑いしていた。俺は笑い声に包まれながら不快な気持ちでハンバーガーショップを後にした。

 ――と思ったけど、やっぱり戻ってきてやってしまった。

「うるせえんだよウジ虫が!! 俺は悪くないっ!」

 もう一度店の中に戻ってきて、彼の前で吠えた。

 俺の叫び声が辺りを包み、店内は俺以外誰も喋らず異様な雰囲気に包まれていた。彼は唖然としていた。あからさまに不快な様子で、仲間たちと一緒に俺を睨みつけていた。

「今の話聞いて俺のどこに悪い要素があったんだよ! 俺は、悪くない! 俺は悪くないんだ! いい加減にしろどいつもこいつも見下しやがって」

「お客様、お静かにお願いします」

 鼻息を荒げてとびかからんばかりに肩を震わせていたら、店長とおぼしき人が店の奥から出てきた。

 ようやく我に返って、俺は周囲を見回した。そうしている内ひどく自分が憐れに思えてきた。


 ○


 やっぱりあのキンパ女をどうにかしないとな。

 俺は家に帰ってから、座椅子にふんぞり返ってまた一人で考え事をしていた。

「よしっ、また会いにいこう」

 今度は変装して、バレないようにしよう。その辺のホームセンターで適当なカツラと帽子、サングラスを買って、まあそんなところでいいだろう。

 しばらく経ってから、俺はまたATMから金をもらってキンパ女に会いに行くことにした。あの事件からずっとどうしたらいいか分からなかったが、ようやく答えが出た気がする。

 俺は勇んで、いざ往かん、冒険の旅へ、と言いながら鼻歌交じりに歩き出した。


 最初に謝罪しに行ったときは、頭から水をかけられた。冬なのにお笑い芸人みたくバケツで水をかけられて、その日は風邪を引いた。

 二度目は持ってきた土産の饅頭を道路に投げ捨てられ、車に轢かれてぺしゃんこになった饅頭を持って帰って一人で食べた。三度目も似たような感じだった。

 それからは真面目にやるのがばからしくなって、謝罪はやがて謝罪あおりに変わった。

 人がセイイ持って謝ってんのにぃ、どうして分かってくれないの?

 片思いする乙女の気分で俺は彼女に思いをはせてみたが、彼女の心情は微塵も理解できなかった。

 確かに女の人生にとって顔は大切かもしれない。でも俺は誰も殺してないし、彼女は身体に重い障害を負ったわけでもない。

 電車に揺られながら、俺はいつまでも自己弁護を繰り返していた。


 よほど俺の変装が似合わないのか、またしても注目を集めていたのでかつらは捨ててサングラスのみにした。

 彼女の家についてから、俺はアパート近くの茂みに隠れて彼女の動向を窺った。今度こそバレないように、静かに息を殺して彼女が家から出てくるのを待った。そして朝早く来た甲斐があって、彼女が家からちょうど出てくるところを押さえるのに成功した。

 彼女はファンデーションを顔に一ミリぐらい塗ってるような派手目の化粧をして、露出の多いカッコでどこかへ向かって歩き出した。

 こいつ売春婦かよ、と内心突っ込みをいれながら彼女の後をつけてしばらく歩いていると、彼女はバス停からバスに乗った。これぐらいのお金はあるので大丈夫だ。

 やがて終点の××駅で降りた彼女は、駅の南に向かって歩き出した。そしてJR××駅の高架下を通って約五分程度歩いた場所にある、気持ち悪い青赤黄色のネオンがついた店に吸い込まれていった。まるで水商売のお店みたいだった。

 っていうか、ホントに水商売じゃね?

 そんな疑問が頭をかすめた時、彼女は店から出てきて俺の方へつかつか歩いてくると、

「警察呼ぶぞ」

 とぶっきら棒に言った。

 むっはー、同級生の女の子だ。

 俺の目の前に年が同じぐらいの女の子がいて、しかも自分に話しかけている事実にちょっと興奮してしまった。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

「この間注意されたばっかりでしょ。今すぐ通報してやる」

 彼女は俺の顔に視線を固定したまま、携帯を取り出そうとした。さすがにこれぐらい塗ると傷が隠れていいのかもしれない、と思っていたが、近くでまじまじ見るとやっぱり傷はそこにあった。

 このままだと本当にまた御用になりかねないので、俺は最後の切り札を使ってみた。

「金は、やっぱりいるっしょ? 何の仕事してるのかしらないけどさ。お前が望むならいくらでも金は払うよ」

 彼女は一瞬、眉間にしわを寄せた。まあ多少は効いたらしい。

「今忙しいから、仕事が終わるまで待って」

 周囲をきょろきょろと確認してから、また彼女は店の中へ消えた。


 俺はそのまま何時間も駅南のどこかで暇をつぶしていた――この辺は遊ぼうと思ってもゲームセンターも映画館もないので、結局携帯でひたすらネットするぐらいしかすることがなかったが。

 夜になって、あたりが暗くなり始めた頃。俺は腹が減ったので、近くにあった南米雑貨店に入った。そしてグアバだかマンゴーだかのトロピカルジュースと、明らかに日本人向けに味付けされていないガーリックトーストを食べながら、彼女が店から出てくるのを待っていた。

 この辺は結構治安が悪いようで、どこの国出身だか分からない外国人が客引きしていたり、ホストと思しき人がティッシュを配ったりしていた。

 このままだとヤクの売人につかまっちゃう!

 ひたすら自分の身の心配をしていたら、彼女がようやく出てきた。何ていう名前なのか分からないが、彼女は肩を全部出した服を着ていた。ずり落ちないんだろうか。

 来い。

 彼女は唇だけ動かしてそう言うと、例のタワーの方を指さした。


 俺たちは二人、とりあえずあんまり人の来なさそうな場所――市内中央にあるでっかいタワーの根本、駅に隣接した謎の広場に来た。高名な音楽家の名前がついているこの広場は存在が忘れ去られているので、普段は誰も来ない。

 俺と彼女は、ベンチの前で距離を開けて正面向かい合っていた。

 街灯の明かりだけが俺たちを照らしていた。夜の空気は昼間とうってかわって涼しく、おまけにビル風が強いので少し冷えてきた。

 彼女は風に揺れる髪を押さえながら、鋭い刃のような視線を俺に突き刺して喋り出した。

「なんでいきなり来たワケ? 本当にお金くれるの?」

 いつにも増して目が怖い。でも色々前置きを言うのがめんどくさかったので、結論から言うことにした。

「端的に言うと死んでほしいんだ」

「は?」

「死ねよお前。生きてるの辛いだろ」

 彼女の顔が福笑いみたいで面白い。あまりにも意表をつくナイスアドバイスに言葉も出ないようだ。

「暇つぶしも兼ねて、一週間お前みたく顔に油性マジックで線引いて生活してみたんだけど、どこ行ってもみんな俺の方ガン見するんだよね。まあお前の気持ちも多少分かったよ。

 で、思うんだけど、自殺してくんない?」

「……なんで、そんなこと言うのよ」

 ひどく低く、疲れているような声だった。よく見ると目の下のクマがひどい。夜遅くまで仕事していて疲れているのだろう。

「いやさ、どんなに考えても俺がいじめられてたのは本っ当にただ運が悪かっただけとしか思えないんだよ。あの時俺がキレちゃってもしかたないぐらいのことやられてたのだって、お前は知ってるはずだ。

 俺がお前を傷つけたのも意図してやったことじゃないじゃん。だから俺は悪くない――」

 またしても平手打ちが飛んできた。俺はカンフーばりのアクションで迫りくる狂気を躱すと、無理やり話を続けようとした。

「いや、だから……」

「わざとじゃなかったら許されるの?」

 彼女は肩を大きく上げ下げして、スカった右手を振り下ろしていた。

 こいつに言い返すことなんてできない。でもいくらでも言い訳をすることはできる。

「俺が言いたいのはさ、そんなわざとやったことでもないことで犯罪者だのなんだの言われ続ける俺の身にもなってみろよ、って話。

 加害者の気持ちがお前に分かるかよ。俺がこれから先気持ちよく生きていくのに、お前が俺の人生の枷としていつまでもいつまでも残り続けるのが許せないんだよ」

「だから死んでほしい、と?」

「その通り。俺人殺しにはなりたくないから、自殺してくれると助かるな」

 とりあえず要求は伝えてみたが、彼女が俺の言うことを呑むとは思えない。しかし頼む、こうやって毎日毎日嫌がらせし続ければ、精神的にめいって本当に自殺してくれないかなぁ。

「……アンタさ、自分が何を言ってるのか分かってる?」

 彼女は怒っている。しかし彼女の目には怒りよりも恐怖が見えた気がした。

「そうやって屁理屈を言い続ければ、自分の罪が晴れるとでも思ってるの? 他人の人生土足で踏み荒らしといて、アンタこそ生きてる意味ないじゃない」

「他人の人生を土足で踏み荒らす、ねぇ」

 彼女はゴミ虫を見るように俺を見下していた。俺はしゃがんだまま、頭を抱えて話し出した。

「人生のすべてに意味があるとかいう人いるけど、俺はそんなふうに自分の人生に意味があるとかって全部美化できない。

 お前の傷だって意味なんかないじゃん。どんなにあっつい化粧塗ってごまかそうとしたって消えないし、何なら俺が手術代払ってやるから整形しろよ。あんな仕事辞めて――」

「そういう問題じゃないんだよっ!」

 彼女がもう一度俺を殴る構えを見せたのでよけようとした。しかし背を向けた所で、俺はガッチリと両肩を掴まれた。

「アンタはアタシの人生を変えてしまった。普通に他のコたちと女子高生する未来だって、大学行ってもっといい仕事につく未来だってあったのに! それを全部アンタが台無しにしてしまったんだっ!

 アンタが作った未来をアタシは生きてるんだよ! 責任とってよっ!!」

 確かにそれはそうだ。彼女は俺のせいで人生が変わってしまった。高校を退学し、なんだかいかがわしい商売をして生きている。もちろんそれは俺のせいじゃないし、そこまでの責任はとれない。

「誰がこんなふうに生きるのを望むと思ってるんだ……」

 そう言いながら、彼女はそのまま泣き崩れた。

 俺は俺が悪くないと思いたい。でも俺があの時彼女の顔を切らなかったら、今頃こうはなっていなかっただろう。

「自分が悪いことぐらい認めろよ、簡単でしょ」

 再び彼女の方を見たとき、彼女の顔は化粧が涙で崩れてグチャグチャになっていた。三歳児みたく大泣きする彼女を見て、少しは良心が疼いたのか、俺はちょっとだけ本音を口にした。

「別に、俺が言ってることなんて全部詭弁だよ」

 彼女がまた、意外だというように驚いた顔をした。

「けど、やめることはできないんだ。こうでもしなかったら、俺は俺を保てない」

 俺をここまで追い詰め、変えてしまったのは周囲の人間だが、根本的には自分が事件を起こしたことが悪いということは知ってる。そしてどうせ誰も俺を許すことはない。

 このまま放っておいても彼女は死にそうにないので、俺はそのまま帰ることにした。


 ○


 それからしばらく逮捕されない範囲で嫌がらせしたり、また偶然を装って出くわしてみたりしたけど変わらなかった。彼女を自殺に追いやる作戦は失敗に終わりそうだった。

 あれからの彼女は前にもまして強情になっていた。ただあの夜と違って、彼女はもう何も喋らなくなってしまった。俺が何を言っても無言のまま。何かが彼女の心を蝕んでいるのは確かだったが、俺としては面白くなかった。

 次第に飽きてきて、二週間ほど家から出ずに――食事の買い出しで深夜三時に家を出る以外――ずっと引き籠っていた。昼夜逆転してきて、たまに起きてパソコンするか日中寝ているか、そんなどうしようもない生活を続けていたある日のことだった。


 午後、昼下がり。

 ベッドから起き上がって、覚醒しない頭を食事で起こそうとする。部屋はエアコンをつけっ放しにしたせいでひんやりとしていて、足が床に触れるとほんのりと冷たい。

 冷蔵庫を開ける。 茶渋がこびりついたマグカップに注いだ茶を飲みほす。 ひさしぶりに買ってきたアイスキャンディーを食べる。包装を破り、先端にかぶりつく。深夜にコンビニで買ってきたのだ。

 喉を伝う冷たい感触が心地いい。こんな生活で唯一の至福のときだ。ここ数週間なんらかの理由でむかついたままの胃は、明らかに異物の進入を歓迎してはいないが。

 腹の調子が悪いのは原因不明だ。しかし何かを食わなければいられない。耐えられない。精神を落ち着かせるには規則正しい生活が一番だと分かりきっている。そんなことは分かりきっているはずなのに。

 相変わらず昼夜逆転は治らない。妙な時間帯に起きていると、麻薬をやっているかのように感覚が過敏になる。耳や目がおかしくなるのだ。異常に音が大きく聞こえて、鼓膜をびりびりと弾いてるように感じたり、目が光っているものを必要以上にまぶしく感じてしまったりする。

 外から「気温が非常に高くなっているので、熱中症に注意しましょう」という拡声器越しに女性が喋っているのが聞こえた。市役所の宣伝カーは、今日は珍しい目的で町中を奔走しているようだ。空調が常に効いている部屋の中にずっといたせいで、外部の気温が非常に高くなっていることが分からなかった

 大変だなあ。

 そして俺は、ずっと目を背けてきた気がつくべき単純な事実に気づく。


 そうだ。


 もう、夏なんだ。


 また夏が来てしまった。


 このまま俺は何もせず、無為に過ごしていくのだろうか。生きてればいいことがある、というのは嘘だ。ただ生きているだけでいいことがあるはずがない。なのに人間は無駄に生きることを美化する、いいものとする、よしとする。

 生きてても無駄な人間はいるし、そういうのは早めに死んだ方がいいよ、マジで。

 正直ひたすらネットしても飯食うだけくって昼まで寝ても逆立ちしても、自分が今どうするべきかという答えなんて見つかるはずなかった。

 罪罪罪罪、うっぜぇんだよ。どんだけ反省すれば俺の罪は償われるの?

 どれだけ俺が土下座して謝っても、金を払っても罪は晴れないし俺が過去にしたことも消えない。


 もうどうでもいい、死んでやる。


 ○


 朝の四時になっても寝れなかった。頭がぐわんぐわんして、割れそうなほど痛い。ちょうどいいのでそのまま自殺することにした。

 玄関を飛び出して自転車にまたがり、防波堤沿いの道を走って海を目指した。やがて湖のほとりにやってきた。桟橋に船がいくつか係留されている。

 夏なので朝が早いのか、もう太陽が水平線から微妙に顔をのぞかせていた。

 夕日みたいな綺麗なオレンジ色の光が辺り一面に広がり、波の音と相まって壮大なパノラマを繰り広げていた。

 俺はまだほんのり冷たい朝の空気を思い切り吸い込んだ。気持ち悪いと思っていた潮の香りが、この時だけは少しだけマシに感じた。

 足下に広がる黒い水面――ここは水深が五、六メートルぐらいだと聞いた。いずれにせよ海に向かう潮の流れに巻き込まれてしまえば簡単に死ねるだろう。

 俺は自分の腕をさすりながら、小さく独り言を言った。

「さよなら」

 最後の一言は、せいぜいこれだけにしておこう。どうせ遺書もない。

 俺は残っていた睡眠薬を全部口に含んでから、自転車で思いっきり加速をつけて桟橋を突破し、そのままエクストリーム大ジャンプして海に落っこちた。


 ○


 実はそこからのことはよく覚えていない。

 本当ならもっと飛び込んだ時の記憶があるはずなんだろうけど、あまりに痛かったせいなのか思い出すのを脳が拒んでいるようで、軽く記憶喪失だ。どうも海に飛び込む寸前のところまでしか思い出せない。

 いずれにせよ自殺未遂しただけなのになぜかまた警察に捕まり、病院に入院させられた。病院は一週間もあれば出られるらしいが、警察にあのキンパ女を脅したことがバレたらしくかなりキツく叱られた。

 しかし問題は、その後の周囲の対応だった。


 警察のおじさんから聞きたくもない説教を何時間もされた後のことだった。「もうこれ以上周囲の人間に迷惑かけるなよ」という言葉を最後に彼が去った後、入れかわりで親が来た。

 俺は病院のベッドに横たわって、複雑に絡み合った点滴を何本もプスプス腕に刺された状態で久しぶりに両親と面会した。二人とも新成人みたいな黒いスーツ姿なのがウケる。

「や、おはようみんな。元気?」

 ドナルドの真似をして父と母を励ましてみたが、父母はピクリとも笑わなかった。血相を変えて怒鳴り散らすかと思いきや、彼らは無言で俯くだけだった。

「○○はうれしくなると、ついやっちゃうんだ!」

 らんらんるー、と言いながら腕を交差させてみたが、やっぱり誰も笑わなかった。片手をひらひらさせて顔の前で振ってみたが、何の反応もない。俺が鼻くそをほじり出した時になってようやく、彼らは相変わらず重苦しい沈黙とともに果物をテーブル脇に置いて、早急に踵を返した。

「自殺しようとしたけど死ねなかったわ。やっぱ死ぬのってこええな、俺が死んだら万事解決なんだろうけど」

 彼らは俺に背を向けていたが、ビクッと大きく震えたのが分かった。

「っていうか助けなきゃいいじゃん。俺なんか死んでも喜ぶ人間しかいないでしょ。罪を償えとか言われながら人生続けるぐらいなら、また何度でも自殺してやるよ」

 ハハッ、と甲高い声で笑ってみせた。しかしさすがにここまで悪態をついたせいなのか父がキレ出した。「どうしてそんなことしか言えないんだ」とか「少しはまともに生きようとしろよ」とかほざいていた。お前らの教育のせいだっつーの。

 母に至っては去り際に一言。

「いいよ、別に自殺しても。でも死ぬならちゃんと死のうよ。生き残ったりしないでよ」

 そして母は父にうながされて、そのまま病室から出ていってしまった。

 そうか。まあ、そりゃそうだよな。

 俺は親に関して色々と諦めているので怒りも湧かず、確かにその通りだなと思って納得してしまった。


 ○


 まさか自殺しようとしても文句言われるとは。

 病室に一人取り残されて、俺が自身のクソみたいな将来について思いをはせていると、白衣を着たおっさんが出てきた。いつものカウンセリングのおっさんだった。

「君にちょっとお話があるんだけど、いいかな?」

 彼は沈痛な面持ちで、持っている紙をめくりながら色々と説明し出した。話自体は長ったらしいので割愛する。内容を要約するに、どうやら俺はこのまま精神病院に入院させられるらしい。

「君にとっても悪い話じゃないと思うから、真面目に考えておいて。きっと大丈夫だから」

 どこが大丈夫なんだよ。でもどうせ逆らうという選択肢もなさそうだ。

「まあ、分かりました。入院します」

「そうか! ありがとう!」

 彼はなんだか大げさに喜んでいて、俺はひどく興ざめした。誰が喜びに満ち溢れながら入院するもんか。

 彼の書類には患者が自筆でサインする欄があったが、別に家族がサインしてしまえば強制入院させることだってできるのだろう。

 まあ他にすることもないし、しばらく暇つぶしに入院するのも悪くない。


 こうして、俺は九月から精神病院に入院することになり、将来の方向性が決まった。これからは○×障害者になって「そうか! 俺は○×障害だから、今まで社会に適合できなかったんだな!」とか笑顔でのたまいながらぎょーせーにお世話されていくんだろう。

 やった! 障害者年金でニートして生きるなんて、なんて素晴らしい人生なんだ!


 ●


 教室に入ると睨まれる。

 授業中指名されて発言しただけで舌打ちされる。

 教室に自分の席がない。

 教科書やバッグに落書きをされる。体操着を捨てられる。

 私物を机の中に入れておくと盗られる。

 日直が自分の時は、二人分の仕事を全部自分でしないといけない。

 席替えのくじびきの意味がなく毎回教卓の真ん前。

 黒板消しを投げつけられる。

 金貸して、と言われる。貸さないとキレられる。貸しても返ってこない。

 テストの答案を盗まれて教室の壁に張り出される。

 辺り構わず罵声を浴びせられる。

 殴られる。

 蹴られる。


 ●


「あぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 夜中の三時に叫んで起きた。何をつまらせたわけでもないのに窒息しそうになって、俺は喉をかきむしりながらベッドから転げ落ちた。ドンッ、という鈍い音がして、激痛が背中に走った。

「……いってぇ」

 俺は窓越しに空を見上げた。雲の間に青い月が見える。病院の周りにある木々のざわめきが、遠くから聞こえる犬の遠吠えが、静かな病室によく響く。

 みぞおちのあたりを押さえてみたが、やはり何か違和感がある。胃がチクチクするような痛みも感じる。きっと治療したときの関係だろう。

 さっきのは被害妄想なんかじゃない。本当に起きたことだ。だからこそ思い出したくないのに、定期的に夢に出てくる。

 俺は、どうしたらよかったのか。

 逆らうのが無駄だとは思わない。でも、いじめてきた奴らにやり返したところでどうにかなったとも思えないのだ。


 今日は、退院の日だ。


 先日、親と一緒に病院で検査を受けた。発達障害だか学習障害だかの検査を受けさせられて、親も面接で色々幼少期のことについてくどくど聞かれたらしい。

 しかし検査の結果、皮肉にも俺はいわゆる「精神病」ではないことが判明してしまった。病院に入院したとしても、せいぜい数か月で出ることになるかもしれない、とも言われた。九月一日から入院するのだそうだが、果たしてそれが、俺の人生にとって正解なのか。

 そんなことを考えながら、病院のロビーでまた漫画を読みながら暇をつぶしていると、窓の外に思わぬ人がいるのに気づいた。

 ガラス越しにいたのは、例のキンパ女だった。彼女はひどく血相の悪い顔で、申し訳なさそうに立っていた。

 俺は受付のおばさんに適当な方便を垂れて、玄関から外に出た。


 松林に囲まれただだっ広い駐車場で、俺たちはまた立ち話していた。今日は天気があまりよくなく、雨が降り出しそうな曇り空だった。

「なんで来たのよ? お金くれるの?」

 あの時の声をそっくりそのまま、耳コピして言ってみた。彼女の表情は固く、決して視線を合わせようとしなかった。

「……あんまりふざけないでくれる?」

 彼女はこの日セーラー服みたいなものを着ていた。みたいな、と言ったのは、この子が学生ではないはずだからだった。長袖のカーディガンにちょっと長めのスカート。季節外れもいいとこだ。

「何しに来たんだよ、こんなとこまで」

 俺は不思議だった。俺に女の子が会いに来るという状況が理解不能なのに加え、彼女がいつもみたく怒っていないのも妙だった。

「一つだけ、アンタに言いたいことがある。もうこれから先二度とアンタになんて会いたくないけど、これだけは伝えたい」

 それはこっちのセリフだよ。

「ジ――」

「じ?」

 彼女は唇を噛んで、すこしためを作ってから吐き出した。

「ジサツは、しないでください」

 囁くような声でそう言うと、彼女はまた涙を流した。女に泣かれるの何度目だろ、これで。

「アタシのせいでジサツされたみたいで、嫌だから……」

 嗚咽を抑えて喋っていたがもう限界のようで、彼女は目を手で押さえながら走り去った。俺は彼女の手をとろうとした――彼女の服の袖、手の付け根部分に何かでひっかいたような赤い横線が見えたからだ。

 しかし手を伸ばす前に、どこから出てきたのか例の彼氏が通せんぼした。

「……これ以上、こいつに関わるな。こいつを不幸にするようなこともするな」

 両腕を広げて、馬鹿みたいに深刻な顔で俺の真ん前に立ち尽くす彼。

 皺の酔った額をデコピンしたい願望を必死で抑えながら、俺は聞こえるように舌うちして病院へ戻ることにした。どうせ雨が降りそうだし、これ以上話すのも無駄に思ったからだ。

 リスカ、か。

 リスカじゃ死ねないんだから、もっと俺みたいに死ぬ確率の高い方法をとればいいのに。


 夜になってから、俺は自宅の居間で一人考え事をしていた。ATMは今日も帰ってこないので、一人で食事をしていた。

 おかずになりそうなものは冷蔵庫に特になく、ぬか漬けでも切ろうと思って刃物を探した。

 台所の下の収納スペースや、自室以外の部屋を漁ってみたが見つからない。しかたなく、結局相棒に選んだのは包丁だった。いつも魚や肉を切るのに使っているやつで、骨も切れる鋭利なものだ。どうしてガスコンロの横の壁との隙間なんかに落ちてたんだろう。

 テーブルの上に包丁をドン、とおいてみた。まじまじと見つめたそれは鈍い光を放っていて、人を殺すのに十分な凶器であるように見えた。

 夜になってから降り出した雨のせいでいやに涼しい空気の中、畳の上にあぐらをかいて俺は包丁と向き合っていた。

「死ぬべきだったのは誰か、か」

 一人、そう嘯いてみた。

 暗い電灯の下、包丁を握り締めながら、俺はあいつを切ったときのことについて考えを巡らせていた。あのナイフは捨てられてしまったので、もう今は持っていない。目をつぶると当時の事がまるでついさっき起きた出来事のように鮮明に蘇ってきた。

 それは、あまりに唐突な感情の高ぶりだった。

 なんでこいつらにまで社会のゴミが自殺するのを止められなきゃならないんだろう。死んだっていいじゃないか。

 俺を生かしも殺しもせず、理由もなくいたぶり続ける。

 俺は悪くない。この社会が間違っている。

 やっぱりそうだ。

 そうでなきゃ、こんな理不尽は許されない。

 あの事件の時、本当なら誰かが死んでいてもおかしくはなかった。しかし俺は誰も殺すことができなかったし、関係ない人間を傷つけてしまった。あの時ナイフを振り回したことは何の意味もなかった。なら、あの時本当に死ぬべきだったのは誰なんだろうか。

 少なくとも責任をとるべき人物はいるはずだ。もちろん俺がそうだといえばそうだが、俺を追いつめたという点で周囲の人間にも責任があるはずだ。この完璧な論理展開には何の誤りもない。

 この計画――俺による俺のための罪人処刑計画――の構想は、実はずっと前からあった。あの時葬れなかったダレカを、今この手で叩き潰す。

 どうせあと二週間ぐらいでまた病院に入院しなければならない。そうしたらしばらく自由が拘束されてしまう。それこそが両親の狙いなんだろうが、やつらの好きにさせてたまるか。

 俺は紙を取り出して、「死ぬべきだったやつリスト」を作ることにした。パチンコ屋の広告の裏に黒いマーカーで処刑対象の人物たちを一生懸命書き出してみた。


 ・高1の時の担任

 ・いじめてきたやつら(主に☆☆、◆◆、◎◎など)

 ・キンパ女

 ・親


「いけね、書き忘れてた」

 最後に一応、自分自身の名前を付け加えた。これで完成だ。

 俺は今までずっと、長い長い終わらない夏休みの中で喘いできた。学校にも行かず、働きもせず、人ともかかわらない人生に意味を見出すことができなかった。でも、もうそれも終わりだ。とうとう俺の人生に「目的」ができた。


 今年の夏は、俺の人生最後の夏になるかもしれない。

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死ぬんじゃないかとは思っていた。 中原恵一 @nakaharakch2

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