第12話「にじいろのねこ」

街の中心から少し離れた場所にあるレンガ造りの建物が立ち並ぶ通りから、狭い路地を抜けて更に奥へ行ったところに、赤いレンガでできた五階建てのひときわ古びたアパートがありました。


正面に備え付けられた黒い非常階段は、ところどころペンキがはがれていて、あちこちに茶色い錆が見えます。今にも倒れてしまいそうなアパートは、おんぼろにもかかわらず部屋はいつも満室でした。

そこに住んでいるのは、売れないもの書きや駆け出しの新聞記者、夜にならないと姿を見せない占い師などさまざまです。そんな彼らには共通点がありました。


それは、みんなそれぞれが「夢を叶えたくてこのアパートに住んでいる」ことでした。

というのも、かつてここに住んでいた住人の多くが、夢を叶えて大成功したため、いつしかこのアパートは『夢を叶えるアパート』と呼ばれていたからです。

いつかの画家は国を代表する絵描きに。いつかのコックは世界に名だたる三つ星レストランを持ち。いつかの靴職人は王様のために最高の一足をこしらえました。占い師は……(しーっ…)ああ、これはやはり秘密のようです。


そんなアパートの階段を上がって、埃っぽい水色のじゅうたんが敷かれた廊下を一番奥まで進んだ突き当たりの部屋。ここにもかつての「夢見る女の子」が、今は一人でひっそりと暮らしていました。


彼女はその昔、昼はウェイトレスをしながら、夜は酒場で歌を歌っていました。

酒場にやってくる客といえば、ろくでもない男たちばかりで、店の中はいつもワイワイガヤガヤ。酒が入ったジョッキが彼女の耳を掠めたことだってありました。それでも女の子は、そんなお客には目もくれず、歌手としていつか有名になる日を夢見て毎日を懸命に生きていました。


そしてほどなくして、その夢は叶いました。




女の子は、今ではすっかりおばあさんになっていました。

わきが女の子のもとから去ったあと。その歌声が評判となり、彼女は瞬く間に有名になりました。ひとたび舞台に出演すれば、その入場券を求める行列が、券売所の3ブロック先まで続くこともありました。また、ラジオで彼女の歌声が流れると、人々は手をとめ、車さえもその場で停車して、喧嘩中のものですら、その歌声に耳を傾けました。

そんな歌声を、人々は「奇跡だ!」と言いました。


しかし、どれだけ有名になっても、お金持ちになっても、彼女はこのアパートから引っ越すことはありませんでした。

一度、新聞社の取材でそのことについて聞かれた彼女は、その理由をこう答えました。


「ずっと待ってるのよ。私の大切な家族を」







ある四月の日曜日の昼下がり。

晴れた空には雲一つ見当たらず、いつかのように開け放った窓からは、柔らかで暖かな日差しが部屋の中に降り注いでいました。


その窓辺に、一匹の猫が現れました。

庭に植えられた桜の花びらのような淡いピンク色の毛並みに、おばあさんがちょうど飲んでいたコーヒーのように、濃いブラウンのしましまがありました。

猫はそっと部屋の中へ入りました。


そこから少し離れたベッドのそばで、おばあさんは揺り椅子に座ってうとうとお昼寝をしていました。

猫が部屋を見回すと、あちらこちらにトロフィーや賞状がありました。壁には新聞の切り抜きもあり、そこには若き日のおばあさんの写真とともに、その歌声を絶賛する見出しが躍っていました。


【今世紀最高の歌声!】

【放浪の歌姫、戦地を慰問。その歌声は休戦協定を呼ぶ】

【多額の寄付とぼろアパート住まいの謎を直撃取材】


記事によれば、おばあさんは歌手になる前に勤めていた、小さなレストランのオーナーと結婚。結婚後も精力的に奉仕活動を行い、多くの人の人生に希望を与え、また、命を救ったそうです。

猫はなんだか鼻が高くなりました。


ようやくおばあさんの足元にたどりつくと、その膝へ向かって飛び上がり、できるだけ優しく着地しました。おばあさんがさっきまで読んでいたのか、サイドテーブルには一冊の本がありました。



『幸運を呼ぶ虹色の猫』



その表紙から、誰が描いたのかバンザイをした桜色の猫が、こちらを静かに見つめ返していました。


猫の目から、涙がぽろぽろ流れ落ちました。

そのひとしずくがおばあさんの手にあたり、おばあさんは目を覚ましました。そして、ゆっくりと膝の上の猫を手探りながらなでると、その正体に気付き驚きました。



「わき、あなたなのね?」


「ただいま」


「目がはっきり見えないの。でも不思議ね。あなたがなにを言っているか、なぜかわかるわ」


わきはこちらに戻る前、たった一つ、今度は自分のために願いをかなえてもらっていました。


〔ほんの少しの時間でいいから、あの子と話をしたい〕



「ずいぶんと長い散歩だったのね?」


「まあね」


「まあねだなんて。あなたのこと、どれだけ探したかわかっているの?」


「さあね」


「ほんとうにあなたって子は…ほら、いらっしゃいな」


おばあさんはいつかそうしたように、わきをぎゅっと抱きしめました。


「お礼が言いたかったんだ。おいら、モモに拾ってもらって本当に幸せだった」


「私のほうこそ。あなたと過ごした幸せな毎日は、片時も忘れてなどいないわ」



わきはおばあさんの膝の上にバンザイして寝転ぶと、大きなあくびをしました。


「むこうでもお昼寝はずいぶんしたけど、なんだ、やっぱりここが一番じゃないか」


大好きなその人の膝の上で、変わった色の猫が、その数奇な運命の幕をおろしました。


おわり

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わきとおひるねのくに @opty61

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