続・マーガリンガール

 総務課の加藤さんは、給湯室で立ったままコーヒーを飲む。

 タイムスリップしたのかと思うほど古臭いデザインのマグカップに備え付けのコーヒーポットからジャーとコーヒーを注ぎ、そして、砂糖を山ほど入れる。ティースプーンではなくカレーを食べるような大きいスプーンで、山盛り5杯。

 カレースプーンはたぶん加藤さんの私物ではない。共有の食器が入っているほうの引き出しにあるからだ。

 砂糖の容器には小さなプラスチックのスプーンが入っているのに、加藤さんはわざわざ大きなスプーンを出してきて、そこに勢いよく、ゴボッ、と突っ込む。それを、5回。

 そして、混ぜる。遠心力でコーヒーがすべて飛び去るのではないかと思うほどの勢いで。

 ただマグカップは古臭いけど巨大なわけではないので、あんなに砂糖を入れたら溶けきらないだろう。それを、無表情のまま息もつかずにぐびぐびと飲み干して、加藤さんは自席に戻って行く。


 ひとつ上の先輩たちの中で、というか、部署全体で、それどころか会社の若手社員全体の中で、加藤さんが浮いていることは、入社したときから知っていた。

 直接言葉を交わしたことはない。ただ、なんとなく気になって、私はひそかに時々、加藤さんの行動を観察していた。


 加藤さんは、制服のシャツをこれでもかというほどきちんとスカートに仕舞い、夏でも長袖のシャツを着、夏でも、黒のストッキングを履く。化粧気はなくて、口紅だけが濃く、赤い。髪は真っ黒のまま染めず、天然パーマをストレートパーマで無理やり直毛にしたような髪型。

 お昼休みには、必ず、食堂で魚フライ定食を食べる。毎日それだ。プラスチックのお茶用コップに、くっきりと口紅のあとがつく。食べ終わるとすぐ席を立ち、トイレで、歯か歯ブラシのどっちかが折れるんじゃないかと思うほど力を込めて歯磨きをする。席に戻るときにはもう、唇はしっかりと赤く塗り直されている。


 ある昼休み、電話当番で事務室に残っていると、先輩社員たちが、きゃあきゃあと笑いながら戻ってきた。ねえ、きいてよ、という声。「加藤さんが歌ってたの、トイレで!なんか、演歌みたいな」「信じられない!」部長たちが昼から戻ってきて、わっと起こった笑い声は潮が引くような忍び笑いに変わる。

 トイレに行くと、ちょうど加藤さんが出てきたところと鉢合わせた。右手に、ザギザギになった歯ブラシと、歯磨き粉のチューブ。口紅はいつものように塗り直され、細い縁の眼鏡はレンズが少し汚れている。歌ってはいない。


 加藤さん、と呼び止めると、無言で立ち止まった。


 「さっき歌ってたの、なんの曲ですか」


 しばしの沈黙があったあと、加藤さんは口の片端だけをひくっとさせて、たぶん、笑い、そして言った。


 「チューリップの、青春の影」


 チュウ、の部分だけ裏声になるほど音が高く、そこだけに、強くアクセントを置いた言い方だった。


 それだけ言って、加藤さんは私の身体を大きく避けるようにして廊下の反対側を通り、事務室のほうへ歩いて行った。

 私は振り返り、加藤さんの、ゴリゴリに痩せた後ろ姿が遠ざかるのを見送った。

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マーガリンガール 伴美砂都 @misatovan

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