リンカーネーション・アサシンガール
三丁目の中川さん
明日は明日の風が吹く
季節は冬。
人里離れた雑木林は、朝方に降り積もった雪のために銀色に輝いておりました。
太陽は燦燦と輝いていますが、身を切るような冷たい風に変わりはありません。
そんな雑木林の中に、二人の男女がいました。
二人は少し離れて見つめ合い。
次の瞬間、少女が凄まじい速さで男性へと飛び掛かりました。
その速度は常軌を逸しています。疾風のような、という形容詞をつけられる程に。
普通の人間が出せる速度ではありません。
対して男性は、その突撃に対して特に動じず、とても柔らかく、緩やかな動作で右足を踏み出します。
魔法か、魑魅魍魎の類か、大地が陥没し、局地的な揺れが発生します。
「!?」
少女はそれで体勢を崩してしまい、体勢を崩したまま、男性の方へと突っ込みます。
ヒョイ、と躱された上、足を引っかけられて少女の身体は宙を舞いました。
盛大に跳ねた雪と泥で、少女の黒を基調とした動きやすい服が汚れてしまいました。
「…………」
ひっくり返ったままの体勢で、少女は無言で不満そうな顔を浮かべます。
「これで、五十四回目」
それに対して、男性が声をかけます。男性にしては低過ぎない、優しい声音でした。
「諦めたら?暗殺」
無垢に、一切の悪意なく、男性は春の日差しのような微笑みを浮かべ、首を傾げます。
それが逆に、少女の逆鱗に触れました。
「絶対、コロス」
少女の口から零れるのは、殺意に塗れた呪詛。
その殺意に、男性はニコニコと微笑みを返しました。
これは、現代日本から異世界に転生した、新米暗殺者少女と、暗殺対象である変人のお話です。
少女__風鳴燕が現代日本から転生したのは2015年、当時彼女が十歳の時でした。
燕は外で遊ぶのが大好きな子で、特技は新体操。読書や勉強などは余り好きではありませんでしたが、女性がヒーローの漫画や映画、アニメ作品が好きでした。
ある日、新体操の大会会場に向かう為に乗ったバスが事故に遭い___気付いた時には、彼女は現代日本では無い、もう一つの世界に訪れていたのです。
ミカド皇国。日本と同じ形をしたその島国に飛ばされた彼女に最初に起きた出来事は、悲惨の一言に尽きました。
彼女が居た村が他勢力の軍からの侵略に遭い、彼女は奴隷として捕らわれてしまったのです。
奴隷として酷い待遇を受け、処女を奪われ、そのまま捨てられる筈の彼女でしたが、一つだけ幸運が訪れます。
彼女が覚醒者と呼ばれる、特殊な力を宿す人間になっていたのです。
覚醒者とは、ざっくりと言ってしまえば超人です。人間を遥かに超えた身体能力を有していて、中には魔法などの特別な力を扱える者も居ます。この世界に来た際に、彼女は覚醒者となっていたのです。分かり易い判別の方法は、暗闇の中でも、爛々と輝く瞳。
燕の瞳は、この世界に来た時から、輝く翡翠の色になっていました。
彼女は暗殺者集団に買い取られ、そこで暗殺者としての訓練を受けました。
酷い暴行によって心を完全に破壊されていた彼女は、ただ言われるまま訓練を積み、素質があったのか、次々の殺しの技を覚えていきました。物理的な殺害方法だけで無く、毒や誘惑等の搦め手も苦手ながらも習得しました。習得せねば、生きていけませんでした。
そして十四歳となった今年、漸く初めての暗殺任務に就きました。
対象の名前はブレイク=フェロニアス。ずっと西にある大きな帝国の、没落した貴族の嫡男だったそうです。上司の言葉を信じるならば、国家の暗部に落ちてわざわざ東の果てにある島国にスパイに訪れたという事でした。
隠し撮りされた写真を見ると、男か女かよくわからない、美しい顔をした男が写っています、年齢は、燕よりも少し年上のように感じられます。
彼を殺す事に、何の情緒も湧きませんでした。
機械のように目的地へと赴き、密偵というには余りに不用心な旅行を行っているブレイクの後ろをつけ、月の綺麗な夜の中、背後からそっと近寄ります。
人間は、大きな動脈を切れば直ぐ死にますが、覚醒者は違います。心臓か脳を完全に破壊するか、それとも首を完全に切断しなければ中々死にません。燕は背後からブレイクの心臓を短刀で貫こうとしました。どれ程の超人も、油断している時は無防備なものです。
ブレイクは皇国名物の団子を美味しそうに食べており、隙だらけでした。
息を殺して近寄り、機械のように短刀を振り上げて。
ガクン。
次の瞬間、燕の顎に強い衝撃が走り、意識が闇に沈みました。
目を覚ました時、そこは森の中でした。皇国はその国土の七割を森林で埋めつくされています。秋ごろの肌寒い季節でしたが、たき火とかけられた毛布のお陰で、そこまで寒さを感じません。そこは簡易的なキャンプでした。
鼻をくすぐるのは、食べ物の良い匂い。匂いの元を辿れば、ブレイクが鍋に火をかけ何か料理を作っているようです。
彼は目を覚ました燕に気づくと。
「あ、おはよぅ」
そう言って。春の日差しのように、微笑みました。
「……!!」
慌てて起き上がり、武器を取ろうとしますが、流石に武器は没収されていました。隠し武器の類も全て没収されているので、かなり念入りに調べたのでしょう。
特に縛られているという訳でも無く、逃げようと思えば逃げられそうでしたが、一つ問題があります。
このまま暗殺に失敗して帰れば、粛清されてしまう可能性が高いのです。
「……ッ!」
それでも、ここに居るよりは良い。そう思って逃げようとすると。
ぐぅ。
お腹が大きな音を立てました。思えば張り込みの為に、一日何も食べていませんでした。
そのお腹の音を聞いて、ブレイクはクスクスと笑うと。
「食べる?」
そう言って、お椀を彼女に差し出しました。
彼女は、長い思考の末に頷いて、お椀を受け取りました。
それが、二人の出会いでした。
腹も膨れ、体力も回復しましたが、問題は何も解決していません。
戻っても粛清、逃げても粛清、燕が生き残る為には、ブレイクを殺さねばなりません。
何とかして、この男を殺さねば、そう考えていると。
「殺されるのは、いやだけど。そういう事情、なら、時間をかけて、殺せば、良い」
燕の事情を知ると、ブレイクはしみじみと頷きながらそう言ってきました。
きっと、頭がおかしいのでしょう。
「……何故、私を殺さない」
押し殺した声で、燕は言いました。彼女を生かしておく理由は、ブレイクには何一つありません。直ぐに殺して、ほかの暗殺者に狙われる前に逃げるべきです。
「んー、妹に、似ている、から?」
本当に狙われている自覚があるのか、ブレイクはそう言って首を傾げます。
どこかのほほんとした口調に、イライラさせられてしまいます。
こんな男に負けたなんて、非常に悔しくて仕方ありません。
しかし、背後からの奇襲に対して、この男は完璧に対応してみせました、かなりの手練れである事は間違いありません。
グルグルと暴走しそうになる感情を、必死に燕は押さえつけました。
生き残る為に、暗殺者はどこまでもクールでなくてはいけません。
燕は、ブレイクの提案を受ける事にしました。彼を尾行し、何度でも、何度でも、あきらめずに暗殺を狙う事にしたのです。
それから三か月、彼女は本当に様々な手段を試しました。
狙撃を試し、料理に毒を仕込み、寝込みを襲い、まるで感情を取り戻したかのように演技した上で、色仕掛けも行いました。
ブレイクはそれらに完璧に対処してきました。
死角からの狙撃を向けられる前に回避して、毒を入れようとする食べ物を粗末にするなとゲンコツを落とし、寝ぼけながらボコボコに倒し、色仕掛けを鼻で笑いました。
明らかに食べ物と睡眠への妨害の後が辛かったので、それだけは邪魔しないようにしました。
暗殺手段が底をついたので、今度は正面戦闘となります。
覚醒者としての優れた運動能力と、新体操で培った精密な動作を組み合わせた戦闘、何度も返り討ちに遭いましたが、その度にブレイクはアドバイスをしてくれます。
「筋は良い、後は経験。正面から、戦うなら、正面でも、意識の外から、攻撃しないといけない」
どう見ても十代後半の男が経験を語るのも業腹ですが、燕はその言葉を胸に刻み付けます。言っている事自体は最もだからです。
「先ずは、基礎。基礎が高まるだけで、応用した技も、その鋭さを、増す」
吃驚する程、ブレイクは基礎を重んじていました。少しでも身体のブレを見つけたら棒でペシペシと叩いて矯正してきます。
「思いついた技は、見られない場所で、何度も練習。見られた技は、通用しない」
燕が使い慣れた技を使うと、そう言って嗜めてきます。結果、燕はブレイクの見ていない所で徹底的に新しい必殺技を編み出そうと努力しました。
そして、少しでも有効な手を使うと。
「ん、今のは、良かった」
そう言って、春の日向のように微笑んで褒めるのでした。
燕は、断じて、これっぽちも、嬉しくありませんでした。
暗殺開始から三か月、冬も暮れ、春に近い季節です。
ブレイクは燕の相手を片手間に熟しながら、ミカドの皇国の様々な県を旅していました。
密偵というよりは、観光を楽しんでいる外国人という印象がとても強いです。その土地の有名な料理を食べ、綺麗な景色を楽しみ、人々との交流を楽しんでいました。
内乱に在れるこの国の中とは思えない程、のびのびとしています。
今日もまた返り討ちにされ伸びた燕に対して、ブレイクは大きな荷物から何かを取り出しました。夜でしたが、月明かりのお陰で、特に問題なく見る事ができます。
それは、手作り感が満載の上着でした。秋にアジトから出発した燕の服装が、余りにも寒そうなのを見かねたようでした。昨日狩った熊の皮から作られているようです。
「……礼は言わない」
それを抱きしめて、ジロリと睨んで燕は言いました。
「ん」
羽織る燕に、ブレイクは相変わらず春日向の微笑みで頷きます。
今日立ち寄る筈だった街は、戦争により滅びていました。ブレイクは一つの廃屋の中で団を取り、寒さを凌ぎます。
ブレイクの作っているご飯にありつく為に、燕も一緒にいます。
「勝てないのだけど……」
暖かい食事を掻き込みつつ、燕は文句を言います。
三か月、いい加減次の刺客や、自分を始末する手合いが来てもおかしくありません。寧ろ遅すぎる位です。
焦る燕に対するブレイクの答えは。
「実力不足」
何とも無慈悲でした。
「せめて、少しヒントが欲しい」
燕は粘ります。知識は力です。
「私の策で強くなっても、私が知っているタネなら、意味ない」
この男、能天気な割に、本当に合理的なアドバイスばかりしてきます。
むくれて拗ねる燕を見て、ブレイクは少し考えてから言葉を続けます。
「先ずは、相手を、良く観察。見て、知る事から、全てが、始まる。」
アドバイスの通り、ブレイクの事をしっかりと観察してみます。
雪のような白い肌に、春の快晴のような青色の瞳。灰色のボサボサヘアーは長旅の影響故でしょう。燕とお揃いの熊の毛皮コートの下には、センスの悪い灰色の洋服があります。そして腰元には、一本の剣が差してあります。
ブレイクが剣を抜いた所を、今の所見た事がありません。燕の相手をする時は、素手か、落ちている枝を使います。
それにしても、とんでも無く顔が良い。美形は中性的と言われますが、まさしくその通り。
「戦いの、最中の、話」
顔をじっと眺めているのを見て、ブレイクは苦笑しながら言いました。
燕はビクリと肩を震わせると、そっぽを向きました。それを見て、ブレイクはまた笑いました。
「もっと、直ぐ強くなる方法が、必要」
「無い、あるなら、誰も苦労しない」
ごもっともな言葉ですが、何かしらのコツがあるように感じもします。
だって、年齢があまり違わない筈のブレイクがここまで強いのです。
無言で強請ると、ブレイクは仕方ないなとため息を吐きます。
「基礎を重ねた上で、後は実戦。注意点は、油断しない事、私はこれしか、知らない」
「気合とか…根性」
無いと思いつつも、取りあえず言うと。
「感情は、寧ろ行動を、予測させやすいし、疲れやすい。危険」
やはり、返答はバッサリとしていました。
一瞬の沈黙。気まずくなった燕は、兎に角話題を探します。
「……何で、そんな強くなったの?」
ずっと前から気になっていた事を、燕は訊ねました。何か壮大の目的の為に、ここまで力と技を練り上げた、そんな想像を燕は抱き始めていました。
「旅をする為」
返事は、酷く短いものでした。
「それだけ……?」
「それだけ、一人旅は過酷。大国の都以外は、まだまだ治安が悪い。それでも、世界中を見て回りたかったから、一人でも生き抜けるように、した」
「あれ、密偵じゃ無いの……?」
燕は、ある事を思いついてしまいます。
若しかしなくても、この男、ただの旅行者なのでは無いか。内戦国家でも平気で足を踏み入れるとんでもなく頭がおかしいだけの、旅人なのでは無いかと。
「ん?違う。私は爵位を返上して、旅に出ている」
「……」
明かされた衝撃の事実に、燕は頭を抱えました。密偵だと思って狙っていた男は、何でもないただの旅人だったのです。この国を満喫している時点で、気付くべきでした。
最も、今更この事実を持って帰っても、彼女の上司が納得する筈がありません。
「故郷でヌクヌクしていれば、いいものを……!」
「ん、既定路線は、好きじゃ無かった。賢いとは、お世辞にも、言えないけど、私は自分の、したい事を、している」
温めた水を飲みながら、ブレイクはしみじみと語ります。
「集団が決めた事に逆らうのは、大変だし、危ないし、怖い…らしい。だけど、私はこの生き方が、性に合っている。凄く、楽しい」
夏の夜空に輝く星のように瞳を輝かせて、ブレイクは話し続けます。
その様が、本当に楽しそうで。
「楽しい……事」
この世界に来てから、楽しいなんて考えた事も無かったと燕は思いました。
彼女の胸には、彼を羨む気持ちも、憎む気持ちも、もう湧く事はありませんでした。
そんな彼女の様子を見て、ブレイクは秋の夕暮れのように微笑みました。
「集団に、従うのも、生き残る為の、大事な術」
元の世界に居た時には、思えば集団行動を強いられていました。
同じように、この世界でも、残酷なルールに、従い続けている気がします。
覚醒者となっても、暗殺者になっても、何も変わらず、自分は従い続ける犬なのだと、燕は気付いてしまいました。
途端、全身に怖気が走ります。
一体いつまで、自分は従い続けなければならないのか。機械のように固まった心に、嵐のような恐慌が押し寄せます。
死ぬまでこき使われる。その事実に、固まった思考が向き合ってしまったのです。
コートでは防げない寒さが魂を捉えました。
「大丈夫?」
心配そうに顔を向けるブレイクから飛び退くと。
燕は、叫びたい衝動のままに廃屋の外へと飛び出していきました。
引き留めるブレイクの言葉は、耳に届きませんでした。
月明かりの下、燕は雪の上を走り続けます。
アテは全くありませんでした。ただ恐ろしくて走り続けました。
その心にあるのは、恐怖と不安。
今まで、少しずつ成長している気がしていました。彼に勝つことができれば、何かが変わりそうだと、そんな幼い考えが心の隅に芽生え始めていました。
結局、自分がしていた事は、同じことの繰り返し。
走って、走って、走って、積もった雪に足跡がつかない程素早く走り。
そして、雪の下の岩に躓いて彼女は転倒します。そのまま、動けなくなりました。
「う……うう……!ううう……!」
何年ぶりか、大粒の涙が頬を伝います。ただただ惨めで、怖くて、辛くて、寂しい夜でした。もう顔も思い出せない、家族の元に帰りたいと思いました。
それでも、現実は変わりません。彼女を救うものは、何も居ない。
「惨めなものだな」
老練な声が、背後から響きます。月明かりの下、雪によって白色に染められた世界で、彼女へと近づく男が一つ。闇の中輝く紅の瞳は、それが覚醒者である事を示します。
「し……しょう…?」
燕は、その男を知っていました。
それは、彼女に暗殺の手管を叩き込んだ、老練な暗殺者でした。
獣のような気配を纏う、簡素な和服を纏う初老の男性。
常にボスの傍らに控えている筈の、組織最強の暗殺者。
彼が居るという事実に、燕は絶望してしまいます。
「暗殺に失敗し、標的に生かされ、何故貴様は生き恥を晒している」
手を背後に組み、一件堂々とした姿勢のまま暗殺者は近寄ります。
一見隙だらけに見える、しかし一切の油断の無い姿勢。
「ヒィッ」
燕は喘ぐように後ずさり、身体をガクガクと震わせます。
それは、演技。
俯いた姿勢から、燕は短刀を投擲しました。
それは正面からの奇襲。哀れな程弱弱しい姿を晒す事で、相手の油断を招く暗殺者の技。
しかし。
「今のは、良かった」
それを、暗殺者は素手で掴みました。
次の瞬間、鋭い蹴りが腹に突き刺さり、燕は嘔吐しながら吹き飛びました。
「だが思い出せ、貴様に暗殺者の手管を教えたのは誰なのか」
「う‥‥…!うう……!」
勝ち目が無い。その判断を脳が冷静に下しました。
燕の身体が、完全に脱力しました。心の折れた音が、ハッキリと聞こえました。
「貴様の次はあの男だ、同じく黄泉路へと送ってやろう」
暗殺者は受け止めた短刀を握り返すと、燕に止めを刺そうと手を振り上げます。
寒いと、燕は思いました。雪の風が、余りに冷たい。
だからこそ。
「待て」
低く、冷たい声が暗殺者の動きを阻みます。
月明かりの下、氷のように瞳を輝かせ。
ブレイクフェロニアスが、幽鬼のように姿を現しました。
その表情は、まるで冬のように、厳しく冷たい。
「……その貌。猫と騙る虎と思っていたが、剣鬼が出でましたか」
暗殺者は獣のような笑みを浮かべるとゆっくりと雪の上で短刀を構えました。投げる、斬る、突く、いかなる攻撃にも繋げる事ができる、暗殺者の構え。
対して、ブレイクは構えも行っていません、撫でるように、剣の柄を触るのみです。
二人は何も言葉を交さずに、お互いの瞳だけを見ていました。
勝負は一瞬でした。
二つの影が交錯して、血飛沫が舞いました。
「………見事」
暗殺者の首から噴き出した血流が、ブレイクの白い肌を汚します。
血泡を吹きながら称賛を述べると、暗殺者は斃れ伏しました。
燕は何も状況が掴めずにいましたが、判った事が一つ。
助かった。
その安堵が、彼女の胸に湧きおこります。
「よくやった、頭領」
その安堵を叩き潰すように、第三者の愉悦に塗れた不快な声が起こります。
次の瞬間、ブレイクは膝を付いて、苦しみ始めます。顔に付着した血液の周辺から、毒々しい汚染が広がっていくのを、燕は目撃しました。
「しまった……未熟……!」
「ブ……レイ……ク?」
「覚醒者は、毒への耐性を持つ。それを悪用し幾つもの毒を徐々に慣らし、凶悪な毒を血に宿す技術こそが蟲毒。頭領の奥の手さ、万が一自らに手傷を与え、殺す程の猛者を、返り血で殺す為のね」
不快な声の主、太った眼鏡の男がゆっくりとその場に現れます。
燕は、その男を知っていました。
自分を何度も痛めつけ、犯し、恐怖を刻み付けた男。暗殺組織のボスである男です。
その姿を見るだけで、不思議な感覚が彼女を襲います。
恐怖と快感。恐ろしいのに、褒めて欲しくて仕方がない感覚。
四年間の調教は、強く彼女の心に枷を与えていました。
理性では、防げない程に。
そんな燕に目もくれず、ボスは興奮混じりに苦しむブレイクを見下ろします。
「送り付けた数多の刺客を返り討ちにして、頭領も屠り、果てはその毒さえを乗り越えようとするか、化け物め。だが、ここで殺す。ここで、お前は死ぬんだ」
頭領の落とした短刀の血をハンカチで拭い、燕の方へと放り投げます。
殺せと、彼は無言で告げました。
「勤めを果たせ、百二十二番。そうしたら、今までの不始末は赦してやる」
この場で助かる唯一の方法、それはブレイクを殺し、元の鞘に収まる事。
脳が答えを出し、ナイフを掴んでブレイクへと這いながら近寄ります。
脳裏をよぎるのは、二人で過ごした、碌でも無い三か月の日々。
腹立たしかった、悔しかった、屈辱だった思い出。思えば、女の子のように扱われていません。西の大国の貴族の御曹司にあるまじき失態です。
何を考えているかも判らないし、暗殺者を放置しているから今のように殺されかけるのです。全くもって度し難い。
不平不満を存分に吐き出して、吐き出して、吐き出して、それで尚、考えるのは、そんな日々が決して悪い物では無かったという思い。
この三か月は、この世界で最も楽しい三か月間だと、彼女は気付きました。
それでも、自分は逃げられない、英雄では無い彼女は、理不尽に対して、立ち上がる事はできないのです。
だから、短刀を振り上げて。
朦朧とした、ブレイクと顔が合ってしまいました。
状況を理解しているのか、彼は汚された顔で間抜け面を晒すと。
いつも通り、お日様のように、微笑みました。
プチンと。
彼女の中の、何かが断ち切れました。
「ウ、ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
激情のままに、燕はボスに向かって突撃を開始しました。
暗殺も、磨いた技量も、何もない、爆発する感情だけの突撃。
ボスも暗殺組織の長を務める男です、容易くそれに反撃しようとします。
感情のままの突撃など、鍛えた覚醒者にとっては最も対処が楽な攻撃です。
懐の銃を取り出し、躱して、脳髄へズドン。それで終わり。
だから、彼は油断しました。最もしてはならない事を、してしまいました。
接触の寸前、燕は盛大に転びました、雪に隠れた岩に二人とも気付かなかったのです。
只独り判っていたのは、こっそり雪の中に岩を仕込んだブレイクだけでしょう。
盛大に転んだ結果、ボスが予測した攻撃軌道が大きく変わります。
それが、結末を変えました。
逸れた短刀が。
ボスの心臓に突き刺さったのです。
「ヌゥ……!?」
「う、うああ!うああああ!!」
錯乱しながら、何度も、何度も、ボスの心臓を貫きました。
死体を切り刻んで、そして……静寂が訪れます。
「ハァー!ハァ!ハァ!」
無様に喘いで、そして、燕は震える手でボスを殺した短刀を、自分の喉に向けます。
もう、何でもいい。
もう、死んで楽になりたい。
自分の喉に、短刀を突きつけようとして。
その手を、横合いからもう一つの手が掴みました。
血反吐を吐きながら、ブレイクが駆け寄っていたのです。
「死なせて……」
「……っ……!」
言葉を話せる状況ではなく、必死の表情で燕を止め続けるだけです。
「しなせてよぉ!貴方は毒で死ぬくせに……!」
「……!……!」
「帰して、帰してよぉ……!帰りたいよぅ……!誰か、助けてよぉ……!」
「わかった……!」
絞り出すように、ブレイクは言いました。
「帰す……!君を、本来あるべき所に……!」
苦しみながら、ブレイクは微笑みました。何時ものような、春の日差しのような微笑みでした。
「約束だ……!」
握りしめられていたナイフが、そっと手を離れて、雪の中に埋まりました。
それを拾う者は、誰も居ませんでした。
あの冬の日から二週間。
春の日差しの下、二人の男女が向かい合います。
場所は雑木林の中、アズマの皇国は国土の七割が森なのでさもありなん。
それでも、大地には色鮮やかな花びらが咲き誇っています。
二人は真剣に睨み合っています。
二人の間にあるのは、一つの鍋。
「この具は私の……!」
「遅い」
二人は、新鮮な肉を巡っての争奪戦を行っていました。
一生懸命具を奪おうとする燕に対して、ブレイクは素早い箸の動きで具を確保し、一口で頬張っていきます。熱さにも堪えずにたいしたものです。
「これもまた、修行」
「うそ……!絶対うそ……!」
騒いで拗ねる燕に対して、ブレイクは仕方ないと肩を竦めると、彼女に幾つかの具を譲ってあげます。
「判ればよろしい‥…」
直ぐに機嫌を取り戻す辺りは、本当に現金な娘です。
「次は、何処に行くの?」
燕は、ブレイクに問います。
二人は、約束を交わしました。
燕を彼女が元居た世界に帰る手がかりを探す事、その為に、如何なる協力を惜しまない事。そしてその為に、燕をブレイクの旅に同行させる事。
「取りあえず、魔術の都、中東のエトアニアに、向かう。そこなら、何か帰る、ヒントが、あるかも、知れない。故郷の伝手にも、頼ってみる」
「確信は無いのね……」
「流石に、初めて聞く事柄、此処とは違う、異なる世界、とても、興味深い」
ブレイクは、異なる世界という言葉に、寧ろ期待を抱いているようでした。
結局、何処までもこの男は未知への冒険を愛して止まないのでしょう。
「もし行けたら、今度は……私が案内してあげる」
家族に、是非ともブレイクを紹介したいと、燕は考えるようになっていました。
二人は食事を終えると、荷物を整えます。
まだまだ、二人の行く先は判らないけれども。
暖かい春風が、二人を祝福するように世界を揺らがせました。
この後、二人が色々な大事件に巻き込まれていくのは、また、別のお話。
リンカーネーション・アサシンガール 三丁目の中川さん @cuclain009
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