旋回する心臓

凡ミス

光は体を這い上がる

 あの頃の私は宇宙に浮かぶ透明な結晶だった。


 もがく。

 大体は歓声に掻き消されてしまっているけれどそれでも聞こえてくるわずかな音のリズムに乗り遅れないよう、私以外の四つの鼓動に遅れないよう、必死に耳を澄ませた。反響する音楽と、慟哭。気を抜けばなにも聞こえなくなるだろう。音の波に溺れないように、腕を振り、地面を蹴り、喉を震わせる。客席を指す手が揃う。心臓はドクドクと血液を循環させ、肌にはスポットライトに照らされてじりじりと炙り出された汗が球になって弾けていた。


 眩い光の中で、私以外の存在は四つ。ステージから観客の顔が見えるなんていうアーティストはみんな嘘つきだ。眩しくて、眩しくて、何も見えなかった。

 私たちは何処へ行くのだろう。何も見えない。喉が渇ききってひゅうひゅう鳴る。誰も見ていないのならこのまま倒れてしまいたい。他の四つの陰に隠れて…こっそりと眠ってしまいたい。

 しかし視界に入る、リズムに合わせて揺れるサイリウム。倒れるわけにはいかないようだ。

 

 ねえ。君たちから私は見えてる?

 

 あと三小節後に世界は私のものになる。折角ならそれを堪能してから死にたいものだ。3…、2…、1。

 足元から湧き上がる光、それは私をなぞるように天高くかざされる。メロディに合わせ何度も繰り返されるそれは、祈りを捧げるようだ。すべての注目が私に集まる。教祖のように高く挙げた手を握りしめる。漏れる溜息。ここが私の世界の全てで、この世界の全ては私だった。握りしめた掌には何も掴めなかったけれど、それを離したくなくて。


 小さな小さな私の世界で、私は叫ぶ。


 夢、現実、夢、現実。

 波のように寄せては返す朦朧とした意識の中で、ただひとつ真実だったのは、いつもより少し速いこの鼓動だけ。この瞬間が永遠のように思える、いつも。私はもしかしたら死んでしまったのではないかと錯覚する。しかしこの瞬間だけは生きているのだとも思えた。矛盾。ステージの上は矛盾だらけだと私は思う。


 孤独、共鳴、生命と、死と。

 こんなにも私達は溶け合っているのに孤独で孤独で、誰もが夢を見ている。自分だけの。仕方のないことと割り切れれば、こんなにも息を吸うのが嫌にはならないのかもしれない。偽りの、本物の、曖昧で確実な存在。


 それが私たち。


 溺れてしまわないように腕を振る。紛れもなく生きていた。ふわふわと浮かぶように。自分が誰だかわからない私を、誰だかわからない人が必死に求めている。


 鼓動の音。

 噴き出る汗。

 光を泳ぎ。

 散らかった思考。

 混乱。

 音楽は鳴り止み。

 拍手。

 荒い呼吸。

 歓声。

 有頂天の唇が空っぽの五文字を紡ぎ。

 暗転。

 私だけの小さな世界に幕が降りる。

 終焉。終演。


 最低で最高な気分。


「生きてる〜?」

 その声にハッとして、飛んできたタオルが地面に落ちる寸前で受け取った。

「うわ」

「ナーイスキャッチィ!花ちゃん今日のトリップ長かったね」

「そうかな」

「ついにしんだかと思ったよ」

 ケラケラ笑うメンバーを横目に見て、今日はどのくらいトンでいたのだろうと考える。ライブのあとはいつもこうなってしまう。体力の限界とかではないと思う。意識がどこかに飛んで行ってしまうのだ。ライブにのめり込んだ日ほどこの意識が返ってくるまでに時間を要する。

 意識とはどこにあるのだろう。たまに自分が内側にいると強く認識するときがある。着ぐるみのように、自分が自分という皮のナカにいるという感覚になる時があるのだ。そういうときはナカにいるのだなあとぼんやり思ったりするのだけど。意識は何処へ行って、何処に帰ってくるのだろうか。ともかく今はこの個体が意識を把握できる。私はホッと息をついた。

 風邪をひかないようにしっかりと汗を拭き、湿った髪の毛を乾かし、メイクを直してマスクをつけた。メンバーは先に行くよと私のことを置いて、そそくさといつものファミレスに行ってしまったので、ひとりで楽屋を出る。非情なやつらめ。よたよたと大きなカートを引き摺りながら、入り口でスタッフにお疲れ様でしたと声をかけ外に出る。


 風が頬を掠めていく。

 冷えた空気が心地よかった。空は薄紅色に染まっている。私の中に何かがじんわりと沁み込んでいくのを確かめる。心が肉体に還っていく。私は私の芯を取り戻していくのを感じた。

 お腹が空いたなあ。黒いバッシュの紐を結びなおして、私はみんなの待つファミレスに急いだ。

 春が、近づいている。 

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旋回する心臓 凡ミス @occhokochoi

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