黒猫と弟子

亜桜趙蝶

黒猫と弟子

 周囲を山々に囲まれた盆地にあり、黄昏の町とも呼ばれるスタッドベーソン。

 主な産業は林業で、裕福でも貧困でもない景気の、ごく普通の田舎の町。産業革命の波もさほど届いていない。

 秋に入り日も短くなったためもう夕暮れであるが、多くの人が冬に備えてあくせく働いている。

 気候としては暑くもなく寒くもなく、湿度も極端でない日常生活に適した気候である。

 母親たちは家族の為に腕をふるってご飯を作る。そのため、いたるところの煙突から煙がもくもくと出ていた。


 とある家。一人の全身黒づくめの赤い瞳の少女が、暖炉に設置された釜をかき混ぜていた。釜の中では緑色のドロッとしたものが煮詰められている。

 大きなへらを持って必死にかき混ぜる姿はなんとも可愛らしい。

 そんな少女を窓際で夕日に当たりながら見守る、真っ黒な毛並みの猫。知性を感じさせながらも温かい目で少女を観察している。


 ふと、少女が身を乗り出してスンスンと釜の中の物体の臭いを嗅ぐ。

 ちょっぴり苦い臭いの後に甘酸っぱい臭いが広がってくる。数秒置き、うんと納得したように頷く。へらを置いて、後ろに振り向いた。


「お師匠。薬、出来たと思うけど…どうかな?」


 その言葉を聞いたからか、はたまた偶然か。耳をピクリと動かすと、黒猫はのそりと立ち上がった。トテトテと釜の方へと歩いていき、暖炉の真横に設置された木の棚の上に飛び乗る。そして、釜の中の物体の臭いを嗅ぎ始めた。


 数秒置いて、顔を上げると猫は鷹揚に頷く。


「うむ。中々の出来だ。だが、ハロロの葉が0.5gだけ足りないな。しっかり量らないと駄目だ」

「わかった、お師匠」


 少女は黒猫が語った言葉に従い、リビングの大部分を占めているタンスの中でも、最も引き出しの数が多い物の方へと駆けて行った。


「ハロロ…あった」


 少女はタンスを見上げて、『haroro』 と書かれた紙が貼られた引き出しを見つけた。だが、少女の背では背伸びをしても届かないような場所にある。


 少女はおもむろにその引き出しの方へと両手を向けた。その目も真剣に引き出しへと向けられる。そして、両手を自分の頭上辺りに持っていく。すると、先ほどの引き出しが開き、そのままタンスから外された。


 そんなことが起きながらも少女の目は真剣そのものである。上半身を少し右に傾けると、ゆっくりと両腕を降ろしていく。宙に浮いていた引き出しは、少女の手の動きと連動するようにしてゆっくりと地面に降りて行った。


 コトン、と音を立てて引き出しが床に降り立った。少女は脱力して疲れたように一度深呼吸をした。そして、床の上の引き出しに向かって行き、その中から三枚ほど乾燥した葉っぱを取り出す。


 次に葉っぱを持って、釜の近くにある作業用のテーブルへと向かう。目の前に天秤を持ってくると小さな金属の板を片方に乗せ、もう片方に葉を置いて重さを量った。

 若干、葉の方が重かったらしく、少女は葉を千切ってまた量り直す。


 天秤は水平になった。葉っぱを再び手に取ると、釜の傍に行き細かくちぎって入れ始める。緑の液体はぐつぐつと煮えたぎっているため、葉はすぐにその姿を消した。


「よし、良いだろう。用意をしなさい」

「わかった。お師匠」


 少女はそういうと、お椀を持ってきて緑の液体を入れた。そして蓋をする。

 次に壁にかかっていたフード付きのコートを羽織る。が、かなりぶかぶかで袖口から手が出てすらいない。少女はそのまましゃがむとチラと黒猫を見た。黒猫は床に降りると少女の背をよじ登り、だらんと少女の頭に乗っかる。


「お師匠良い?」

「ああ」


 少女は立ち上がるとフードを被った。ぶかぶかなコートのためフードも大きく、少女と同じ身長程度では頭に乗った黒猫はおろか、少女の顔さえ窺うことが出来ない。

 少女は少しだけフードを上げると、お椀を持って家の外へと出て行った。


「オリオスさんの家って…こっちで合ってる、お師匠?」

「そうだ。…ここを右だな」


 黒猫の案内に従い、テクテクと町を歩く少女。道行く人々は少女を見かけると左右に避け、こんばんは。と丁寧な、親しみのこもった口調で少女に話かけた。少女はそれに時々頷くことで答える。


 やがて少女は一件の家の前で立ち止まる。コンコンと扉をノックし、


「こんばんは、オリオスさん。薬をお持ちしましたよ」

「はいはーい、待ってください。今開けます」


 黒猫の呼びかけに応じて、家の中から女性の元気な声が響いてくる。ガチャリとドアが開き、エプロンをつけた女性が姿を現した。


「いつもありがとうございます先生。うちの馬鹿亭主が骨折なんてするものだから…でも夫が働けないと1ペンスもお金が手に入らなくなってしまうからねぇ…」

「まぁまぁ…わかっているとは思いますが、飲んだ後半日は絶対安静ですからね?」

「わかってますよ、先生。縛り付けてでも寝かせておきます!」


 そこまでしなくても大丈夫ですよ。と、笑いながら言う黒猫。少女は打ち合わせていたかのようにジェスチャーをする。


「それで…骨折の治療薬は何ペンスでしたか?」

「骨折の治療薬は89ペンスです」

「89ペンス…ありがたいねぇ…本当に。聞くところじゃ、他のところの魔術師さんは300ペンスも取ったりするって聞きますもの……この町の魔術師が先生で良かったわぁ…」


 女性が銀色の硬貨8枚と銅色の硬貨9枚を少女に渡す。少女は袖の上で枚数を数え、自分の手に丁度あることを確かめるとコクリと頷いた。黒猫はその動きを確認して語った。


「確かに、89ペンスです。まぁ、私も最低限の生活がしたいので少し原価よりも高いですがね」

「わかってますよ、先生。…あ、シチューお食べになりますか? 作りすぎてしまって」

「よろしいのですか?」

「はい。ちょっと、待ってて下さいね。今、お椀に入れてきますから」

「わざわざありがとうございます」


 女性はそう言うと家の奥に行った。ポツンと家の入口に佇む一人と一匹。黒猫はふと少女の顔を上から窺った。同じように少女も上を向いて黒猫を見つめた。同じ事をしたのが面白かったのか、少女は無邪気に黒猫に笑いかける。

 黒猫はほんの少しだけ微笑んだ。


 ◆◇


 少女は家に帰るとフードを脱ぎ、黒猫を床に降ろした。手櫛で髪を梳き、頭についた黒猫の毛を落とす。黒猫は食卓の方へと歩いて行き、椅子の上に飛び乗った。少女はコートをかけながら黒猫に話かける。


「ねぇ、お師匠。今日のエルフィオが作った薬、何点だった?」

「70点。ハロロの葉は一番重要だ。その分量を間違えたのは駄目だな。それと手際が悪い。時間が経ちすぎるとアネハムシの鮮度が落ちる。だがそれ以外は良かった」

「お師匠厳しい…」

「そんなものだ」


 黒猫は大きなあくびをすると、少女を見ながら口を開く。


「薬の精製で汚れているだろうから、お風呂に入って来なさい。お前が薬を作っている間にお湯は沸かしておいた」

「…だからお師匠、窓際で体乾かしてたのね…」

「な、なんのことだ? し、知らないな」


 図星を突かれて尻尾を逆立てる黒猫。少女は悪戯っぽく笑ってシチューを手に取りながら問いかける。


「…お師匠は一緒に入らないの?」

「は、入らないぞ! 風呂など絶対に入るものか!!」

「…エルフィオ、お師匠と入りたい…」

「それは、昔だけの話だ! お前が風呂に入る事に慣れていないからであって、今どき入る必要性は無いからな!!」


 ジリジリと自分の方へと向かってくる少女に、黒猫は威嚇の姿勢を取る。そんな黒猫を横目にお椀を食卓に置くと、ズイと顔を黒猫に近づけた。ジッと黒猫を見る。


「ど、どうした…?」

「お師匠、お風呂入らないと…汚い」

「っな…! 失礼な! 毎日毛づくろいしておるわ!」

「駄目、汚い」

「…や、やめろ…掴むな…!」


 少女は辛辣な言葉とは裏腹に、嬉しそうな表情を浮かべている。黒猫を抱き上げようと胴体を掴んで抱き上げようとし、それに椅子に爪を立て黒猫は必死に抵抗する。少女は機転を利かせた。


「あ、ねずみ。」

「何!? どこだ! …あっ!」


 時すでに遅し。少女の言葉に乗せられて力を抜いた一瞬に、黒猫は抱き上げられていた。


「やだ…風呂だけは…いやなんだ…」

「お師匠とおっ風呂~♪」


 片方は悲嘆に暮れ、片方は嬉々として鼻歌を歌う。両極端な二人(一人と一匹)はそのまま家の奥へと消えていった。


 その数分後、ギニャー!という猫の大きな鳴き声が聞こえてきた。


◆◇


「もう風呂は嫌だもう風呂は嫌だもう風呂は…」


 暖炉の前で下着に、大き目のシャツ一枚という格好のまま、師匠の体乾いた布でを拭く少女。風呂上りで眠たくなっているのか、目がぽやんとしている。そしてたまに眠気に負け、頭がゆらゆらと揺れていたりした。気を取り戻した黒猫は、少女のその様子を見て叱責する。


「こら! お前が風呂に俺を入れさせたのだからしっかり拭きなさい!」

「っわ! …寝てた、ごめんお師匠」


 ハッとして拭き直す少女。が、再びうつらうつらとし始めた少女を見て、黒猫は溜息をつく。


「…もう良い。食事をして寝なさい」

「…ん」


 少女はふらふらと食卓へ向かって行った。黒猫はふと外を眺める。夕方と夜のまじわる時間帯である。多くの人々は自宅へと帰途につき、あまり外を出歩く者は居ない。

 黒猫は視線を布へと移し、自分の体を拭き始めた。食卓の方からはカチャカチャと少女の食事をする声が聞こえてくる。


(そろそろ俺も食事にするか)


 猫は自分の体を拭くのを中断し、暖炉の上の棚へと視線を向けた。紙に包まれた細長いものが猫の視線に誘導されて黒猫の目の前の床に降りてくる。猫は器用に口で包装を外した。

 黒猫は目の前のパンへとかじりつく。固くなってはいるが、猫の歯ならば食べられないほどでは無い。


(そういえば、ここ最近まともに肉を食べていないな…必要最低限は取ってはいるが…まぁ、金が溜まれば肉食生活も再開できるか…)


 チラリと振り向き少女を見る黒猫。少女は食事を終えて机に突っ伏している。黒猫は溜息をつくと食事を再開した。ガブガブとパンなどを食すのに適さない肉食動物の歯でパンを噛む。


 程なくして、満腹になったのかケプッとげっぷをする。毛づくろいを何度かした後、ゆっくりと少女の方へと歩いていき、机に飛び乗った。すやすやと眠る少女の間近に行くとその頬を舐める。

 少女はその感触によって目を覚ました。


「お師匠…?」

「寝るのなら自分のベットで寝なさい」

「…うん」


 ゆっくりと立ち上がり、家の奥へと歩いていく。黒猫は少女の先を歩き、ドアなどを開けていった。

 扉を三枚ほどくぐると少女の部屋へとたどり着いた。少女の部屋ではあるのだが、部屋の壁は多くの書物に埋めつくされている。そんな部屋の窓際にベットが一つ置かれていた。

 ふらふらと少女はベットに倒れこんだ。黒猫はベットに飛び乗って少女に毛布を掛ける。大きなあくびをした少女は薄目で黒猫を見て、小さな声でねだる。


「お師匠と一緒に寝たい…」

「甘えるんじゃない」

「やだ」


 少女は黒猫に手を伸ばすとギュッと抱きしめた。そして黒猫の毛皮に顔をうずめる。黒猫は小さく溜息を吐いたが、抵抗はしなかった。


「えへへ…お師匠好き…」

「…もう寝なさい」

「お師匠…おやすみなさい…」


 よほど眠たかったのか、すぐに寝息が聞こえてきた。黒猫は後ろを振り向き、少女の顔を窺う。愛らしい顔である。黒猫はその顔に一種の愛おしさを感じた。それと同時に、このままで良いのだろうかと不安が押し寄せる。


(この子は、このままで良いのだろうか? あの日からずっと俺について回るばかりで、俺から離れるということをせずに過ごしている。…本当に良いのか…やはり俺には、弟子を育てるなど無理なのだろうか…)


 黒猫はとある昔のことを思い出していた。

 少女と出会った四年前のこと。

 一度も弟子をとったことの無かった黒猫が、少女を弟子にすると決めたある日の朝のこと。


 ◆◇


 首都、スロッスシュタッド。

 産業革命が起き、爆発的な活気に満ち溢れていた。


「産業革命、か。魔術師たちの時代も終わりということだろうか…」


 大通りを良く見渡すことの出来る大きな商館の屋根で、黒猫はジッと行きかう人々を見つめる。腰に巻いた小さなポシェットから革の水筒に入った水を取り出して飲み干す。


「今日の集会でもそのことばかり話していたからな……俺には関係の無いことだが。金儲けの為に魔法を扱う奴なんかは発狂ものだろう」


 黒猫は自身が先ほどまでいた魔術師たちの集会場を冷たく睨んだ。今もなお金に目のくらんだ連中はあの場所で論争をしているのだろう。黒猫はイライラしているのか、尻尾を鞭のように屋根に叩きつける。


「もう、帰るか。スタッドベーソンはどの方角だったかな…」


 黒猫は水筒をしまって、代わりに方位磁針と地図を取り出し、自身が拠点とする町へ帰る方法を考え始めた。


 数分後、黒猫は帰りの方向へと屋根を飛び越えながら移動した。金髪、茶髪の都市民が騒がしく歩きまわる表通りを横目に、黒猫は跳ねて走る。ふと、黒猫は足元の路地裏からガサガサという音を聞いた。普段は黒猫も気にしない様な音だが、この時ばかりは何故かとても気になった。

 屋根を伝い、音の方へと歩を進める。日の当たらない薄暗い路地で、夜目の利く黒猫はその中で蠢くものを見つけた。黒い髪にボロボロの服。黒猫はその者がいる路地に飛び降りた。


「だ、だれ…!?」


 黒髪の人間は黒猫の降り立った音に、怯える反応を見せた。黒猫は黙ってその人間を観察する。


「ね、猫さん…?」


 音の元を猫だと確認し、ホッとした様子の子供。おそるおそる黒猫に触ろうと手を伸ばす。黒髪に黄色の肌。そして赤い目。黒猫は静かに質問をした。


「お前は、東の国から来たのか…?」

「ひっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


 少女は自分の頭を守るようにうずくまった。見れば体にはアザのようなものが数多くある。黒猫は奴隷か。と思い至った。田舎町に拠点を置く黒猫は見たことがなかったが、体中の傷から判断する。

 立ち去ろうかとも思ったが、こんな状態の少女を見捨てて帰るのは躊躇われた。


「これを飲むんだ」

「ど、毒…! ごめんなさいごめんなさい! それだけは許してください!!」

「毒などでは無い! 良いから飲むんだ!!」

「…」


 黒猫が少女に渡したのは一般的に魔術師達が製造する傷薬であった。自身に何かあった時の為に持ってきたものだが、それを少女に渡した。

 少女は震えながらその薬を飲み込む。


「…え?」


 少女は驚きの声をあげた。毒だと思って飲み込んだ。しかし、想像とは真逆に、体中の傷がみるみる直っていく。どうしても痛かった腕や足の打撲や、切り傷。少女の理解する速度と同じように、ゆっくりと回復していった。


「傷薬…な、なんで…」


 よたよたと立ち上がりながら、少女は目の前の不可解な猫に問う。


「お前の親はどうした?」

「パパもママも居ないです…」

「先ほどの傷は?」

「か、髪の色が違うから。肌の色が違うから…目が紅いから…みんなに、怒られて…殴られて…」


 黒猫は少女に聞いた。そして、何故か怒りを感じた。

 この怒りはどこから来るのか。黒猫はすぐに気が付いた。偽善から来ているのだと。

 少女は泣きじゃくりながら黒猫の質問に答えた。黒猫は更に激しい怒りに襲われた。黒猫はまた自分に問う。やはり、この怒りは偽善である。

 そして、黒猫はとある言葉を口にした。


「…俺は魔術師だ。俺の、弟子にならないか?」

「で…し…?」


 黒猫は頷いた。


「俺はお前に魔術を与えよう。教養を与えよう。服を与えよう。帰る家を与えよう。食べる物を与えよう。生きる術を与えよう。そして…愛を与えてやる。だから、そんなみっともない顔は、もうやめるんだ」

「…」

「もう一度聞こう。俺の弟子にならないか?」


 偽善だ。どんな甘美な言葉を並べても、行動の本質は偽善には変わりない。だが、黒猫は偽善であったとしても少女を救いたいと思った。守りたいと思った。この少女を笑顔にしたいと思った。


「…ほんとうに」

「俺は嘘をつかない」


 少女は再び涙を流し、そして泣き崩れた。わんわんと泣いた。自分に優しくしてくれるヒトと、出会うことが出来たことに。


「…なり、ます」

「……」

「弟子に…して、ください…!」


 少女はこころの底から言葉を吐き出した。


「あぁ、わかった。俺はお前を弟子として迎えよう。お前の名は?」

「無い…です…」

「そうか。それじゃあ俺が名前をつけてやろう。その赤い目から……魔法語で、焔(ほのお)という意味の、エルフィオっていうのはどうだ?」

「エルフィオ…」


 少女は自分の名前を一回呟いた。そして、嬉し涙を流しながら笑った。


「エルフィオ、これから頑張るね。お師匠」


 ◆◇


(あれから四年。魔術の修行にもついて来れるようになり、性格も明るくなったが…やはり人間への恐怖が拭えていない。それに、私に依存しているようにも見える)


 黒猫はコートを着た少女の姿を思い出しながら考えた。どうしたものかと、黒猫は悩む。


(田舎町の住人達は多少の変わった者くらいなら気にしないようだがな……この俺でさえ受け入れてもらえたのだから。この子はすでに受け入れられているというのに…)


 ここ毎日、夜になると黒猫は毎日考えごとをしていた。だが答えは出ず、いつものように眠りへと落ちていった。


◆◇


 そしてとある日。少女と黒猫の下に大慌てで、やや筋肉質な男がやってきてドアを叩いた。


「せ、先生! た、大変なんです! 居ませんか!!」


 目の前の道を通る人々は何事かと振り返る。男は大声で叫んでいるため多くの人々の視線を集めていた。しばらくしてドアが開き、中からコートを着た人物が現れる。


「どうしたんですか?」

「り、流行性感冒りゅうこうせいかんぼうの幼児が現れました!!」

「なんだって!?もう現れ始めたのですか!」


 流行性感冒。別名をインフルエンザとも言い、毎年冬になると大流行し、幼児が感染すれば高確率で死に至らしめる病気である。


「わかりました! すぐに治療薬を作ります!」

「1歳の男の子、身長69cmの体重8kgです!」


 少女と黒猫は家に入ると急いでコートを脱ぎ、薬を作る準備を始めた。釜を用意し、すり鉢に包丁。そして天秤。


「よし、お前はアカミカゲの実を刻んでくれ!」


 少女がわかった。と言いかけた瞬間、またドアを叩く音が響いた。


「先生! 火災が発生して10人もの人が火傷に! 重症の患者も居ます!!」


 少女と黒猫は戦慄した。一刻も早く薬を作らねば赤ん坊が死んでしまうというなか、更に急を要する事情が入ったのだ。

 黒猫は決断した。


「わかりました! 今から作ります!」

「お、お師匠!?」

「お前は流行性感冒の薬を作るんだ。何度も作っているんだ、一人でも作れるはず」

「む、無理だよ!」

「じゃあお前に10人分もの傷薬を作れると言うのか! まだ見習いのお前が!」


 魔術師の傷薬は一般的な呼び名こそ「傷薬」というありきたりなものだが、精製の難易度は骨折の治療薬や、流行性感冒の薬よりも遥かに高い。材料費こそ安くとも、万能なモノには技術が必要なのだ。


「わかった…エルフィオ、頑張る」

「ほら作るぞ!」


 そして、長い間二人は慌ただしく動き回る。体重などから適量の薬草などを計算し、魔法で引き出しを取り出して、薬草を切り刻みすりつぶす。

 数刻が経ち、少女の薬が先に完成した。


「お師匠…で、出来たけどどうしよう…」

「何がだ!!」


 黒猫は今なお忙しく動き回っている。


「エルフィオだけじゃ、持っていけない…」

「…」

「ひっ…」


 黒猫な少女から紡ぎ出された言葉を聞くと、猛烈な怒りを孕んだ目で睨んだ。


「甘えるな! 自分で届けにいけ! 病院の場所は知っているだろう!!」

「でも、でも…怖いんだもん…」

「お前なら大丈夫だ」

「嘘だよ! エルフィオが外に出たら、いじめられるもん! それに……お師匠が悪く言われるのが嫌なんだもん!」


 黒猫は作業を再開しながら、優しい声音で少女の名を呼んだ。


「…エルフィオ、お前が人に怯えるのもわかる。だけどね?」

「…」

「お前が今行かなくては、救える命を救うことが出来なくなってしまう。そうなれば、お前は殺人を犯したことになる」


 少女はポロポロと涙を流した。

 黒猫は背後で少女が泣いていることに気づきながらもなお、作業を止めずに言の葉を並べた。


「俺は、殺人犯になったお前の姿なんて見たくないんだ。頼む、俺のためにも」


 黒猫はそう言ったきり黙った。少女は泣いたままであったが涙を拭って自分の頬を叩いた。泣いたためか、はたまた叩いたためか。顔は赤くなっていた。


「行って、来ます…!」


 黒猫はチラと少女の方を向くと、限りなく優しい声音で


「行ってらっしゃい、エルフィオ」


 と少女に言った。



 少女はこの街に来てから初めて一人で外に出た。しかし、病院へと向かおうとしても、ショックのために場所を忘れてしまっていた。

 町の大人達が少女のもとへ集まってきた。少女は恐怖に震えたが、住人からの言葉は至極まともな言葉だった。


「どうかしたのかい?」「そのお椀…」「先生ってこんな可愛らしい女の子だったのか」「か、可愛い」「なに惚れてんだよこのマセガキは」「う、うるせぇな!」「え、ど、どうかしたんですか!? 先生!」


 少女はまた泣き出した。嬉しさから来る涙である。黒猫が言った通り大丈夫だったのだ。少女は、町に。


 少女は、世界に受け入れられていた。


 ◆◇


 翌日、黒猫と少女の姿は町のレストランの中にあった。周りからは奇異な視線で見られてはいるが、視線に害意などはなく、好意や敬意の方が多くを占めていた。

 二人がレストランを訪れた理由。それは二つ。

 少女が人間に慣れること。もう一つの理由は少女がトルテというものを食べてみたいと、黒猫言っていたからである。


 一ヶ月ほど前に黒猫はその少女の願いを聞いた。とはいえ最低限の収入だけ得ている黒猫達では、簡単に食べられるものではない。そのため、黒猫は駄目だと言った。

 だが少女の落ち込む姿を見て、なんとか食べさせてあげたいと思った。だから、自身が摂取せねばならない肉を切り詰めてパンを食す生活を続けた。

 予定ではあと一ヶ月後に食べさせてあげられる予定であったが、昨日の火災事件で町長の息子が重症だったらしく、助けた御礼として収入の二ヶ月分ものお金を受け取ったのだ。


(こんな簡単に手に入るとは…俺の一ヶ月の苦労はなんだと言うのか…)


 黒猫は悔し涙を飲んだ。

 黒猫は隣の席に座る少女を見た。何故か両手にフォークと持ち、目をキラキラと輝かせながら今か今かと、周りの目線も気にならない様子で笑顔を浮かべ続ける。


(まぁ良いか…)


 黒猫は嘆息しつつも満足した感情に包まれた。


「はい、お待ちどうさま。ショコラトルテだよ」

「うわぁ! これがトルテ…!」


 レストランの女主人が少女の目の前に、皿に乗った焦げ茶と白色で出来た食べ物が置かれた。

 直径6cmの円形で高さ3cmほどのパンのようなものに、少し黄色味がかったクリームが乗っている。


「ほう、これがトルテか。他の地方ではケーキとも呼ばれる

「…美味しい!」


 少女はすぐに自分の口へショコラトルテを運んだ。蜂蜜が入ったホイップクリームはとても甘い。だが生地にはチョコレートが入り、少し苦味があるものの、クリームとの調和がなされている。

 少女の食べる様子は周りの客の喉をゴクリとうならせた。それほど幸せそうに食べているのだ。

 少女は半分ほど食べると口の周りにクリームをつけながら黒猫に言った。


「お師匠は食べないの?」

「イヤミか? …冗談だ、本気にするな。猫にチョコレートは毒だからな。甘すぎるのも駄目でな」

「お師匠なんで知ってるの?」


 少女の素朴な疑問に黒猫は言葉を詰まらせた。数秒の間を置き、黒猫はバツが悪そうに言った。


「昔、食べて死にかけたから…」

「え… 」


 少女は固まった。黒猫はその様子を見て、笑いたいなら笑うが良いさ。とふてくされる。

 だが、黒猫の予想は大きく外れ。


「大丈夫? 大丈夫なのお師匠!? 死んだりしないよね!?」

「く、苦し…」


 少女は黒猫に泣きながら抱きついてきた。黒猫は強く抱きしめられて苦しいため、周りの客に助けてと目線を送る。

 が、他の客達の目にあったのは怒りの炎。


「なに先生を泣かせてるんですか、大先生!」「いくら大先生でも許さないですよ!」「このアホ猫!」

「な、なんでだぁ…! は、放しなさい…苦しい…」


 黒猫に言われてやっと解放した少女。だがまだ泣いている。


「俺はまだ、死んだりしないから…大丈夫だよ、エルフィオ」

「…うん」


 やっと落ち着いた少女を見て、この一週間で何度目かわからないため息をつく黒猫。だが満更でも無さそうなため息であった。


◆◇


 黄昏の町、スタッドベーソン。

 その大通りを真っ黒な猫と少女が歩いていた。少女が駆け回って様々なお店を覗き、黒い猫がその後をゆっくり追う。仲の良い親子のようにも見えるその光景を、町の人々は微笑ましそうに見つめていた。


 少女は今日も幸せそうです。

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