第19話 パンスラヴ社【自己実現】

 ソシュールの荒かった息遣いが落ち着いてきたのを確認すると、スロヴィオは立ち上がって彼の傍にいく。大きく上下している背中に手を置き、ゆっくりとさすった。

「ごめんなさい。無理をさせて」

 ソシュールは腕枕のうえに突っ伏していた頭を持ち上げると力ない笑みを浮かべた。

「いいんです。仕事ですから、仕方ありませんよ」

「家には戻れる?」

「大丈夫そうです」

 ソシュールはそう言ったが、スロヴィオが彼の肩を抱えるようにして立たせると、足元がおぼつかなかった。よほど疲弊したらしい。


 ふたりは研究所を出てゆっくりと二人三脚で丘をくだっていく。疲れた身体を癒すようにやわらかい風が吹く。「気持ちいいですね」とソシュールがつぶやき、「そうね」とスロヴィオは返した。


 詰所に到着すると、扉を開けるなり、ソファからライカが走り寄ってくる。主人の身を案じるようにソシュールの身体に飛びつく。

「大丈夫、少し休めば元に戻るから」

 ソシュールはライカの頭を撫でると、自力でソファまで歩いていき、横になった。目を閉じて大きく息を吸ったり吐いたりしている。

 身体を横に向けたままうずくまるように寝ているので、補助脳インプラントを施していない頭のかたちがはっきりと見えた。卵のようにすっきりとした美しい曲線を見て、スロヴィオは子供のころの自分を思い出す。彼女は彼の横に腰掛けると、自分でも無意識に彼の後頭部に触れていた。

 ソシュールは静かに目を開ける。どうかしましたか、と目で訴えている。

「ごめんなさい。あなたの頭のかたちがうらやましくて、つい」

「ぼくの頭が、ですか?」

「私たちは……私も含めて補助脳インプラントをしているせいで、こんな大きな頭になってしまったから」

 スロヴィオは言い訳がましく自分で自分の後頭部をポンポンとたたいた。

「ぼくは優秀な人間じゃないので、そういった手術で優秀な人間になれることがうらやましいです」

「インプラントをしたからといって優秀になれるわけじゃない。視床スクリーンとか演算処理能力の向上とかそういった機能拡充ができるだけ。私はいまだに出来損ないです」


 ソシュールは息を整えながらぽつぽつとスロヴィオにやさしい言葉をかけた。彼女は彼の言葉をぼんやりと受け止めていたが、目の前で苦しそうにしている人間が逆に自分をなぐさめようとしてくれていることに思いあたり、自己嫌悪に陥る。彼女はシャツの胸ポケットから取り出したハンドタオルでもう一度彼の額の汗を拭うと、気を取り直して彼に向き直った。

「なにか私にできることはある?」

 スロヴィオがそう訊くと、ソシュールは「ありがとうございます」と首を振る。

「少し眠ればよくなります。また明日からも引き続きよろしくお願いします」

「わかった。今日はありがとう。おつかれさま」

「おつかれさまです」


 スロヴィオは詰所を出る。ハナシノブの丘を下りながら、彼女は今日の仕事について振り返る。騎譜についていろいろと聞くことができたし、実際に四十三の騎譜データも入手することができた。厳しい条件のなか、職務はじゅうぶんはたしたはずだ。

 しかし、そこによろこびはなかった。結局、どれだけ仕事をうまくこなしたとしても誰も幸せにならないのだ。自分もソシュールも摩耗する一方。よろこぶのは「主席」くらいだろうと彼女は思う。

 会社には法律上ヒトとおなじように人格が認められているが、そうした概念的なレベルを超えて、パンスラヴ社の管理機構AIには設立当初からはっきりとした人格が存在していた。彼は「主席」と呼ばれ、そもそものはじまりから今までずっと社の意思決定に関与し続けてきた。スロヴィオのような末端の社員は主席の顔(そんなものが存在するのかはなはだ疑問だが)を見ることすらできない。主席と直接意見を交わすことができるのは社のなかでも役員や理事といったほんとうに一握りの人間だけだった。

 主席のことを考えるといつも彼女はやるせない気持ちになる。もともとはヒトがつくりだした二次的な存在のはずなのに、今ではすっかり立場が逆転してしまって、人間の方がいいように使われている。

 ちょっと前まではそれでも自分だけは関係ないと高を括っていたのだが、手当が打ち切られた今、生活していくためには彼女自分も巧妙につくられたシステムの一部になることを避けることはできない。


 スロヴィオは大きく息を吸いこむと、新しい空気で肺を満たす。気を取り直して丘をふたたび下っていく。この状況を何とかしたいとは思っていても、結局どうすることもできないことは彼女自身が一番よくわかっていた。今日が終われば頼んでもないのに明日が来る。明日が終われば明後日。明後日が終われば明々後日。この世界で毎日を生き延びようと思ったら、好むと好まざるとに限らず、どうしたってまっとうに働くしかない。考えるべきはこの世界から解脱しようなどという大それた妄想ではなく、自分自身が擦り切れてダメになってしまわないための現実的な解決策だ。

 スロヴィオは肺のなかの空気が入れ替わったことを確認すると、心の扉を閉めた。また明日からはじまる騎譜の分析に向けて自分なりに課題や手順を考えてみる。

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