第39話 エピローグ 赤墨の三角形

 二月末のある日、千里は久しぶりに制服に腕を通した。定期テストは春休み中の受験が特例で認められたため、実際はその日まで登校の予定はなかった。しかし、紗花のメールをきっかけに千里は家を出る。


 千里の現状を知った紗花は気遣う必要はないと登校を促してきた。しかし、それは千里だけで決められることではない。小夜に確認を取ったところ即座に拒否されたものの、結局は紗花の働きかけによって実現することになった。


 ただ、学校では予想通りの視線が待っていた。噂には尾ひれがついて、故郷に恋人がいながら新しく女性関係を作ったことで刃傷沙汰に発展したと出回っている。それは事実と異なっているものの、大きな相違があるわけではない。情報がどこから出回ったのか千里は疑問に思った。


 しかし、噂はいつか消えるものである。敏感になってその日を先延ばす必要はなかった。


 登校によって前倒しされた定期試験は散々な結果に終わった。当日に追試が言い渡される教科もあったほどである。


 紗花の一言によって学校に出向いたものの、その期間に誰かと会話をすることはなかった。憎みはしないが友人として振る舞うことはできない。紗花がその言葉を徹底するならば、小夜も追従するはずである。


 そうして三学期は終わった。ただ、追試を残す千里に休みはない。帰宅しても勉強漬けの毎日が続いた。


 一方で、勉学から解放される時間もあった。それは退校手続きのために予備校へ赴いたときである。誰も千里の事情を知ることなく、紙面上のやり取りが続く。その瞬間だけ千里の頭は空になった。


 面談室で手続きを終えて、半年間の記憶を手繰りながらロビーまで戻る。ここは千里がいるような場所ではなく、二度と足を運ぶこともない。千里がいなくなっても誰も気にしないものと思われた。


 しかし、玄関口で走り寄ってきた美波に声をかけられた。


 「久しぶり、元気にしてた?」


 「……あ、うん」


 美波の雰囲気は変わらない。茜と美波が電話を聞いていたことは、栞奈の逮捕後に小夜から伝えられた。その時の千里は驚いたが、同時に美波と話すことは二度とないと思っていた。


 「辞めちゃうんだね」


 「まあね……」


 「そっか、残念だな」


 美波は千里の悪行を知っている。それでも千里との別れを惜しむ。


 「……怒らないの?美波を騙してたんだよ?」


 「あんなことがあったんじゃ仕方ないよ。本当の気持ちを知って少し苦しいけど、それで怒ったりしない。千里と一緒にいて楽しかったから」


 美波の表情はいつも通りである。ただ、そんな美波だからこそ言っておかなければならなかった。


 「美波には謝っても謝り切れないことをした。本当にごめん。だから、もう顔を合わせるようなことはしないって約束する」


 「そんなの約束されても困るよ」


 美波は千里に対して過度に優しく、それが不幸しか生まないことを伝えようとする。しかし、美波は嫌そうな顔をした。


 「私は今でも千里が好き。千里にそんな気がないなら、今度は私が積極的になりたい」


 「でも……」


 「悪いことしたって思ってるならそれくらい許して」


 美波は上目遣いで近づいてくる。千里が目を背けると、その先に移動して顔を覗いてきた。


 「……もう会えないと思うけど」


 「それでもいい。また連絡するからその時に返事を聞かせて」


 「ああ」


 千里が頷くと美波から満面の笑みが零れる。ただ、自分の腕時計を確認するなり慌てて離れた。


 「ごめん、講義が始まっちゃう。それじゃまた今度ね」


 手を振る美波は小走りで階段に向かっていく。剥き出しの好意に千里はただ困惑した。


 三月の初め、卒業式までに進級を決めるよう発破をかけられた千里は追試を受け続け、苦手な現代文で赤点を回避したのは前日のことだった。千里はこれで面倒事の一つから解放される。


 廊下の暖房は動いておらず、教室から出た千里は静かな空間に身震いしてしまう。寒さから逃げるように心を無にして家路を急いだ。


 ただ、そんな誰もいないはずの下駄箱で人影が揺れた。足を止めて様子を窺うと、靴箱の前で佇む紗花を見つけた。そばに小夜の姿はない。


 「……北山君、久しぶり」


 千里を見つけて紗花から声をかけてくる。千里は近くの掛け時計を確認した。


 「どうしたの?」


 「今日は卒業式の練習日だよ。北山君は参加できてなかったけど」


 「そういえば……でもそれって午前中だったんじゃ?」


 千里は追試の多さに午後まで拘束され、今は二時を回っている。卒業式の練習は十一時には終わっているはずだった。


 「話したいことがあって」


 「でも……」


 紗花の言葉は引っかかる。千里が理解に苦しんでいると紗花は少し笑った。


 「歩きながら話そう?」


 「そうだね」


 紗花は千里の了承を得て正門に歩き始める。外気は廊下以上に冷たい。


 「怪我はもう大丈夫?」


 「少しかゆいくらいかな」


 千里は腕の傷を触る。縫合するほどではなく、医者からは少し跡が残る程度だと聞かされている。


 「テストはどうだった?進級できそう?」


 「まあね。先生にはもう頭が上がらないな」


 「そっか、これで次も一緒だね」


 栞奈はただ純粋に喜ぶ。しかし、千里はそれどころではない。釈然としないことを質問しようかと考えていた矢先、紗花から次の話題が出た。


 「小夜を追い払うの大変だったんだよ。北山君に会うって言ったら一緒にいるって。でも、今日は二人きりが良かったから、一回家に戻って小夜を帰らせたの。最近は小夜の過保護がすごくて」


 紗花は笑っているが、千里には小夜の気持ちがよく理解できた。紗花の行動の方が理解しがたいのだ。


 「それで話って?」


 待ちきれなくなって千里が本題を促す。紗花は小さく頷いて話し始めた。


 「あの時、もう友人としても振る舞えないって言ったよね。どうしてか分かる?」


 「ああ」


 「でも、時間が経って苦しくなっちゃった。千里は約束を守ってくれてた。だけどそれが辛くなっちゃって。……どうしてか分かるよね?」


 「それは……」


 「それで今日会うことにしたの。先生に北山君の追試がいつ終わるのか聞いて」


 「……ちょっと待って」


 「待てない!」


 千里が会話を止めようとすると、紗花はそれを押し切る。千里と交わす表情は苦しそうで、どこか見覚えのある顔だった。


 「北山君は全部忘れて終わらせる気なのかもしれない。……でもそんなの耐えられないよ」


 「それなら……僕はどうしたら?」


 千里は周囲を何度も窺って挙動不審となる。紗花が千里のために苦しんでいるならば、それを改善しなければならない。それが千里の罪滅ぼしなのだ。


 ただ、紗花の要求は意外なものだった。


 「私は北山君を忘れられそうにない。……だからお願い。千里も私を忘れるようなことしないで。私はいつでも千里のことを考えているから」


 あまりにも重い。千里が立ち止まると、紗花は顔を隠して千里の胸に飛び込んだ。驚いた千里が両手を広げると、紗花は脇の下に腕を通して抱きつく。泣いているのか肩を震わせ鼻声になっていた。


 「……やっぱり千里が大好きなの」


 今にも消えてしまいそうな紗花の声を聞いて、千里は大きく息を吐く。反省していながらも同じ轍を踏むところだったのだ。


 千里もゆっくりと紗花を抱く。すると、それに反応して紗花の抱擁は強くなった。それから長い時間が経過する。


 最初に離れたのは紗花だった。涙の跡はなく、顔を綻ばせている。


 「紗花の気持ちは嬉しいよ。でも……」


 「どうして気持ちが変わったのかって?」


 紗花は千里の疑問を先読みし、千里はただ頷く。すると、紗花は上着のポケットから一枚の紙を取り出した。千里の血液はすでに乾燥していて、変色のために赤黒くなっている。もはや文字も読めない有様だった。


 「これ、投げつけられたから貰っちゃった」


 「汚いよ。捨てた方が良い」


 「そんなことない。これのおかげで本当の気持ちに気付くことができたの。大切な宝物なんだから」


 紗花は大事そうにその紙を見つめる。そしてポケットの中にしまった。


 「……何も変わってなんかなかったんだよ。綾人を好きになってからずっと」


 千里は久しぶりに紗花の穏やかな表情を見る。美しいあまり歪んでいることに気付かない。


 「また隣にいてもいいの?」


 「それが千里の罪滅ぼしだから」


 紗花は千里の手を引いて足早に歩く。千里はただその後を追った。

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赤墨の三角形 クーゲルロール @kugelrohr

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