第38話 終焉

 日の入りとともに雪が降り始め、帰宅時には横殴りの吹雪に悪化する。千里の足取りは安定せず気は散漫としていた。


 脅迫から解放されて誰かを傷つける必要はなくなったが、心は一向に落ち着かない。栞奈との記憶が蘇っては儚く消えていく。昔の栞奈はもういない。


 ただ、千里は栞奈の支援を約束した。大きな間違いを犯した栞奈ではあるが、やり直す機会は与えられなければならない。二度と同じ過ちを繰り返すわけにはいかないのだ。


 千里は下手良での後処理を担い、栞奈に下る罰は知るところではない。しかし、千里も同様に罰を受けなければならない。帰宅して自室に籠った千里は天井を眺め、しばらくしてから携帯を取り出した。


 画面には小夜の連絡先が映る。小夜が栞奈を許すことはない。しかし、栞奈を助けると誓った千里は小夜と話をつけなければならなかった。


 しかし、そう思い立った矢先に千里の携帯が震えた。相手はその小夜だった。


 「静かに聞いて……いい?」


 不可解に思いながら通話を始めると、小夜の囁くような声が飛んでくる。千里は突然の要求に首を傾げた。


 「どうかした?」


 「静かに。……あの後、栞奈を一人にしたの?」


 「ああ。聞いてたと思うけど、駅まで送るの断られたから」


 雰囲気に飲まれて千里も小声になる。小夜は焦っているようだった。


 「よく聞いて。電話の後、紗花の様子がおかしくなったの。一人で帰るなんて言い出して」


 「……それで?」


 千里は状況を掴めない。ただ、嫌な予感が部屋に充満した。小夜の乱れた呼吸音が不安を煽る。


 「おかしいと思って追いかけたら栞奈と待ち合わせた。駅の前で」


 「え!?」


 驚きのあまり大きな声が出る。即座に小夜から叱責が飛んだ。


 「声が大きい。……追いかけて本当によかった。今は移動して大学の中にいるの。暗くてよく分からないけど、不思議なところで立ち話をしてる。……私、どうしたらいい?」


 小夜のらしくない声が状況の奇怪さを物語っている。ただ、千里も頭が追いつかない。部屋をくるくると歩いて頭を働かせた。


 もともと紗花と栞奈に面識はないはずで、そんな二人の接点を千里は考える。ただ、その時になって大切なことを思い出した。


 要求が飲めなければ、関わった全員に危害を加えると栞奈は言った。ただ、千里は別の約束を取り付けたことで栞奈がそれを守ると安心していた。理由は単純で、その時の栞奈であれば信じられると思ったからである。


 しかし、この一年間を振り返って千里は冷や汗をかいた。人とは持っている信念を簡単に捻じ曲げ、たやすく嘘をつけるまで大きく変わることができるのだ。


 「すぐに向かう。そこで待ってて」


 「場所分かるの?」


 「見晴らしのいい場所だろ?開けた先に下手良の都会が一望できる」


 千里は急いで準備を済ませて部屋から飛び出す。小夜は電話越しに何度も頷いた。


 外に出た千里は予想以上の悪天候に驚く。ただ、新雪で滑りにくくなっていて、視界の悪い中を走り始めた。


 栞奈が悪意を持っているとは断言できない。しかし、三人の中で紗花を選んだ考えは引っかかった。紗花は栞奈の人間性を把握しているだけでなく、千里のように昔の栞奈を知っているわけではないため持っている印象は余計に悪い。それでも会うことに同意した理由が分からなかった。


 千里が全力疾走していると、再び携帯が震える。それは栞奈からのメールだった。


 タイトルはない。しかし、本文には短い言葉が書かれていた。


 喧嘩両成敗


 たったそれだけの内容。それを見て千里は焦る気持ちを抑えられなくなった。


 「千里、聞いて……千里」


 ポケットから小夜の声が漏れているが、気を配っている時間はない。喧嘩をした両者はどんな事情があっても共に罰を受けなけらばならない。千里の評価に不満を持っていた栞奈を説得するために使った言葉であり、それが意味することはたった一つだった。


 目的地に近づくと最初に小夜の姿が目に入った。二人を気にしつつ千里に見つかりやすい場所で待っていたのだ。ただ、千里はその横を通り過ぎて栞奈と紗花に突進した。


 「……千里?」


 紗花が先に気付き、その瞬間栞奈が上着から何かを取り出す。危険を察知した千里は紗花を押しのけ、叫びながら栞奈に体当たりした。紗花は道脇の雪山に倒れこみ、栞奈は千里に押し倒される。鈍痛に襲われながらも千里は栞奈を睨んだ。


 「紗花!」


 遅れてきた小夜が携帯のライトで三人を照らす。そして悲鳴を上げた。


 千里のすぐ脇に包丁が落ちている。滴り落ちる血は雪を赤く染めていた。


 「……北山君?」


 立ち上がった紗花が後ろから近づく。それを見て栞奈が転がる包丁に手を伸ばしたが、小夜が遠くに蹴り飛ばした。


 「栞奈」


 「私のために来てくれたの?嬉しい。……でも早いよ。せっかく三人で死ぬつもりだったのに」


 栞奈はそう言って笑う。完全に壊れていた。


 「大切な人を傷つけられるとどうなるか、栞奈が一番知ってるだろ!?」


 叫ぶと腕が痛み、千里は顔をしかめる。栞奈は小さく息を吐いた。


 「……やっぱりそうなんだ。千里、こいつが好きなんだ」


 栞奈が紗花に視線を向ける。千里が痛む腕をかばって立ち上がろうとすると、栞奈は千里の胸元を引いてそれを阻んだ。


 「この紙……こんな適当でこじつけたものに興味はないけど、一つだけよく分かった。……あれって、千里と上村紗花が一番の関係になるようになってるんでしょ?」


 「………」


 「すぐに分かるよ。それで、私たちの関係はどこ?……きっと一番悪いところ。そうでしょ?」


 千里はただ黙る。栞奈は折り畳まれた紙を取り出して千里の傷口に押し付けた。


 「千里のことは何でも知ってる。だから私がもう心の中にいないことも分かる。……それならもう全部壊すしかないでしょ?」


 言い訳にも聞こえる栞奈の言葉は千里を怒りに導く。思わず握りこぶしを握ってその手を振り上げた。


 「……いいよ、千里の気分が晴れるなら。好きになってくれるなら乱暴したって」


 栞奈は抵抗する素振りを見せず、千里は力任せに腕を振るった。栞奈のすぐ横の雪が抉れて穴ができる。


 「優しい。だから私みたいな人間に傷つけられるんだよ。いい加減それを分かったら?……でも、そんな千里だから好き。こんな真剣に私を見てくれたの、とっても久しぶりだからすごく嬉しい」


 「もう終わりだ。……小夜、警察に電話して」


 「わ、分かった」


 千里の指示を受けて小夜が携帯を取り出す。千里の腕からはまだ出血している。切傷は右手首の甲から十センチに渡り、袖からその長さだけ服が破けている。栞奈が押し付ける一枚の紙は大量の血を吸い込んでいた。


 栞奈は千里から視線をそらそうとせず、抵抗もしない。これからのことなど全く考えていないようだった。


 「北山君、大丈夫?」


 紗花が千里に声をかける。その瞬間、栞奈が暴れ始める。千里は痛む腕も使って抑え込んだ。


 「千里はお前のために怪我したんじゃない!私のために!」


 「………」


 栞奈は紗花を威嚇して赤黒くなった紙を投げつける。千里には栞奈と話すだけの力は残っていない。涙を流さないようにするだけで精一杯だった。


 警察が到着するなり、栞奈の身柄は素早く引き渡された。その場では千里に対する傷害で逮捕され、より詳しい話は持ち越される。怪我を負った千里は病院に運ばれることになった。


 連行されるまで栞奈はひたすら叫び続けた。千里にまた会いに行くと伝え、紗花には何度も殺害を予告する。紗花は無言でそれを見つめ、小夜はそんな紗花に寄り添っていた。

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