余幕「マスター黄の霊界修行」

 それは地上にあるような、普通の板張りの道場に見えた。


「今日から修行が始まるわ、マスターウォンの地獄の修行がね。正直死ぬほど辛い思うけど、一つだけ強く念じなさい。

 誰のために戦うか、何のために戦うか。

 それさえ忘れなければ、坊やなら修行をやり遂げれると信じてるわ」


 それがヴィオがくれた唯一のアドバイスであった。

 美帆の母、渚姉さんが死んだとき以来、入舸は空手を習い始めた。小学生にしては発育がよく、空手教室でも筋が良いとめられていたから自信はあった。

 しかし、現実はそんなに甘くはないと、入舸は黄龍鴻ウォン・ロンフォン、通称マスター黄の修行で思い知ることとなる。


「沖波入舸君じゃな、初めまして黄龍鴻じゃ。師匠と呼べばよい」

「は、はい師匠! よろしくお願いします!」

 入舸は元気よく答え一礼する。黄もそれに合わせゆったりと礼で返した。

 身長160センチメートルにも満たない小柄な老人だった。山吹色の中国拳法着を身に纏い、にこやかな微笑みを絶やさない老人は、確かにカンフー映画に出てきそうな雰囲気を持ってはいた。だが、とてもヴィオが言うような地獄の特訓を行うようには見えなかった。


「では基本の透過とうかから始めようか」

「……透過、ですか?」

「そうじゃよ、透過じゃよ。霊体や幽体の基本じゃな

 ひょっとしたら、もう出来ておるかも知れんが一応確認のためにもな」

 そう穏やかに喋りながら、黄は袖口そでから出したナイフを構えた。

「…は? え?」

 状況を理解できない入舸に対し、一切の説明も何の気づかいもないまま、入舸めがけて無造作に、本当に無造作にナイフを投げた。

 ドスン。

 身動き一つできないまま、それは入舸の胸に突き立った。

「あ…がぁあああ……ッ!?

 ああああああああ!!!」

 ナイフが心臓に達している。味わったことのない痛みと恐怖。入舸は発狂するように叫び、ナイフを抜き取る。噴水のように胸から血が噴き出し、ごぼごぼと音をたててあふれ出す血が、入舸にうがいを強要する。


「誰が抜いていいと言った?」

 激痛で床を転げまわる入舸の足をい付けるように、新たなナイフが突き立てられる。

「あ……が……ッ!」

 ドスン、ドスンと次々に入舸の躰にナイフが突き立つ。手足を縫い留められ、身動き一つできないまま、入舸は血反吐を撒き散らしビクビクと白目をく。

 殺される……そう思った。ヴィオに連れられて来た道場の主は、穏やかな老人に見えたが、真正の狂人にしか思えなかった。


「何をしとる、死ぬ気か小僧?」

「し……だ…の…で」

 誰のせいで死にそうになってるんだと抗議の声をあげたかった。しかし溢れ出す血がそれすら許してはくれない。

「言ったじゃろ、透過じゃ透過。お主は霊体で、そのナイフはは霊的存在ではない俗界ぞっかいの物じゃ。ただの物質じゃ」

 耳を引っ張りあげられ、耳元で黄がささやく。

「だが…ら…ど…うか……で…」

 透過とは何だ、そもそも何でこんな真似をする。助けを求めるように道場の端にたたずむヴィオに視線を送った。

『そのまま死ぬ気坊や?』

『だから、透過って何なの……』

 声にださない分、念話なら辛うじて会話が成立する。

『あんたはそれをもうしてたはずよ、病院のベッドを思いだしなさい』

 ヴィオの言葉で思い出す。確かにあの時僕はベッドを透けていた。そう認識した瞬間、ストン、ストンと音を立てナイフが入舸をり落ちていく。

「あ…ば…ぶ……」

 ナイフから解き放たれ躰は自由になった。しかし全身穴だらけで、今も血が止まらない。このまま死ぬしかないじゃないかと思った入舸に、再び黄は囁く。

「傷は治さんのか? そのままでは死んでしまうぞ」

 治すも何もかすり傷じゃあるまいし、こんなの手術でもしないと治りっこない。入舸はそう思う。

「死にたいのか?」

 黄は囁く。

「どう……やっ……て?」

「死にたいのか?」

 黄は繰り返す。だからどうやって! 入舸は叫びたい気持ちだった。

「生きたくないのか」

 執拗じつようなまでに繰り返す黄の問いかけに、入舸は叫ぶように願う。

(死にたいわけがないじゃないか、生きたいに決まってるだろ!)

 躰の傷が燃えるように発熱し、次の瞬間再生を開始する。

「あ……え?」

 仰天ぎょうてんした入舸が我に返ると、傷の再生が止まった。

「やはり死にたいのか」

 黄の言葉はいつも短い。入舸はたまらずヴィオに問いかける。

『なんなの……どういうこと』

『自分で考えなさい』

 ヴィオの言葉はない。正直狂っている、この大人二人は狂いきっていると思う。何なんだ、何なんだと入舸は思う。

 自分で考えろと言った。さっきはどうして傷が治ったのか、老人が執拗に口にする生きたいという言葉の意味は。

「死…にたく…な…い」

 生きたい、生きたい、生きたいと強く願う。治れ、治れ、治れと強く念じる。

 傷が再び熱を持ち、自覚できるほどの速度で治り始めた。ナイフで断たれた筋繊維きんせんいが繋がるのが分かる。全身の毛細血管が、血にまみれた肉の血を洗うように吸い上げるのが分かる。断たれた血管が繋ぎ留められ、皮膚は再生し、心臓までが何事もなかったように元に戻る。


「が……っ……かは!」

まだ食道に残っていた血の塊を吐き出す。ぜいぜいと呼吸を荒げ息をつく。

 ドスン。

 背後から入舸の胸をすり抜けて、道場の床にナイフが突き立った。背筋を氷の塊が駆け上がるように、悪寒がはしる。

「な、何をするんだよ!」

「何もしとらんじゃろ」

 老人はそう言って、再び入舸にナイフを投擲とうてきした。

「やめ……っ!」

 咄嗟とっさかばった腕にナイフが突き立ち、骨をけずられ身をよじる。

「あが……!!」

「何度やれば学習する」

 黄の声は冷たい。ヴィオの表情はよく分からない。病院のベッド、病院のベッドだ。そう認識すると、ナイフはするりと床に落ちた。

「傷は……治せる…」

 念じる。強く念じれば傷は治る。治るものだと認識すれば治ると気づいた。ナイフにしてもそうだ、透けれると認識すれば透ける。

 入舸が傷の治療に集中していると、顔面の中をナイフが横切った。

「あ……ぶっ!?」

「そうではない、入舸よ」

 また言葉が少ない。老人の話は長いと聞くが、そうではない者もいると知った。だが入舸にも見えてきた、透けると認識するから透けるのではなく、刺さると認識するから刺さるんじゃないかと。


 黄は、いつの間にか手にしてた青龍刀を横に構える。

「そ……れは…」

 さすがにどうなんだと思う。だが考えが正しければ、あれも本来は当たらないものだ。

 黄は躊躇ちゅうちょなく入舸の顔目掛けて青龍刀を振るった。よりにもよって顔を狙う。恐怖。感じない方がおかしい、思わず当たると思ってしまう。咄嗟とっさに透けろと念じ、顔面を刃が透けていくのが見えた。目の真下を大ぶりの刃物が通過していく、何も考えない、考えてはいけない。空気のようなものだと必死で念じる。

「―――っぷぁ!!」

 全身で息をする。傷一つない、出来た。

「……怖いうちはまだまだじゃ」

 冗談じゃないと、入舸は黄をにらむ。いくらなんでもおかしいだろと思い、たまらず声に出した。

「せ、説明がなさすぎ……だとおもいま…す!」

 ぶふっとヴィオが噴き出す。

「何がおかしいのさっ!」

「いや、だって坊や……うん。

 やっぱり坊やは、本当にいい子だわ」

 可笑しそうに笑いをこらえるヴィオに本当に腹が立った。こっちは何度も殺されかけているのに、霊界人ってやつはみんなこうなのか?

 外人みたいなものだって言ったけど、こんな外人いないだろといきどおりを覚える。


「こんな師に対しても敬意を払うのはえらいのぅ。感心、感心」

 あぁそういう事かと気づく。こんな目にあっても師に対して礼儀を守った事をヴィオはおかしく思ったのか。

「それは……空手教室でも、どんだけ腹が立っても師範しはんにはきちんとしゃべらないと怒られるから」

「殺されかけてもか?」

「……空手教室では、生徒を殺したりしないです」

 ヴィオが前屈ぜんくつ状態で笑いを堪える。何なんだこの人たちは、狂ってる、霊界人は狂ってる。入舸はそう思わずにいられない。

「それより教えてはくれないんですか?」

「ふむ……では教えてやろう」

 黄は軽く息をつき、話し出した。

「霊体とは肉体を持たぬ生命体じゃ。人間は死んでおると言うが、別にしんでおらん。人間の言う生は三次元空間でのみ認識される肉体の状態じゃ。

 霊体とはもう一つ上の次元、四次元空間での生を得る者であり、それが知覚出来ぬ三次元生命体……人間は、四次元生命体の霊体を視る事も触れることも出来ぬのじゃよ。ここまでは解かるか?」

「……い、いえ、分かりません」

「では続けるぞ」

 分からないと言ったのに、黄は入舸を無視して説明を続ける。

「では何故、念じるだけで身体が修復するのか。それは霊体とは自我のある霊子、まぁ人間で言う細胞みたいなものじゃな。

 その自我のある細胞の集合体じゃからじゃ。人間の体にも自然治癒能力しぜんちゆのうりょくはあるが、あれはあくまで肉体の作用じゃ。

 霊体の自己修復はもっと強いもので、コップに張った水を切るようなものじゃな。

 コップの水を切っても元に戻るじゃろ、むしろ何も起こらんとさえ思うはずじゃ。あるべき形に戻る力。心臓は心臓の形へ、肉は肉へ、骨は骨へ、内腑ないふは内腑へと念じるまでもなく戻るのじゃ。彼ら自身が元ある姿へ戻ろうとするのじゃよ。そういうものじゃと知覚さえしておればな。

 個々の自我を持つ霊子は放って置いても戻るが、体内の余剰霊子よじょうれいしを使ってやれば修復は加速するのじゃよ。という事でいくぞ」

 言い終わるや否や、黄は入舸の腕を手刀でぐ。肘から先は飛び、血が噴水のようにき出した。


「あ……う、うわぁああああ!!」

 腕を抑え転げまわる。血は止まる気配はなく、傷が治る気配もない。治れ治れ治れと必死で念じる。傷口が熱を持ち、腕は生える気配がする。生えろ生えろ生えろ生えろ。繰り返し繰り返し念じるが、腕が生えるというイメージが浮かばないせいか、傷口がふさがりかけるが、腕は生えてこない。

「さっき教えたじゃろ。個々の霊子の自我を信じよ。霊力を感じるんじゃ」

 何を言ってるか意味が解らない。霊子とか霊力とか違いも分からないし、そもそもそんな事で腕が生えるわけがない。助けて、助けてと入舸は願う。


「じゃから言った。生きたいのかと」


 生きたい……そう思う。ただ、腕が無くても生きていける。そう思えばそう思うほど、傷は塞がり生えてはこない。


「その腕は死にたいらしいの」


 腕が……死にたい? いや、腕が生きたい? 僕の腕は生きたがってるのか?

 生きるってなんだ。死んだら死ぬんじゃないのか。じゃあ死ぬってなんだ?

 さっき心臓を貫かれても死ななかった。そもそも僕は今お化けじゃないか、お化けは死んでるんじゃないのか、死んでるけど生きてる気はする。痛いし苦しいし血だってこんなにいっぱい出てる。


「生きたいんじゃないのか? その腕は」


 生き……たい。生きたい、生きたい、こんなところで死にたくない。僕の腕はまだ死にたくない。生きたがってる。

 思うわけでも、考えるわけでもなく、そう感じた時、腕に急激に熱が集まり、肉が伸び、骨が生え、血管が巡り、神経を再生し、皮膚を貼りめぐらせて、腕は生える。

 躰は僕のものであって僕のものでない。僕であって僕でない。僕の躰は躰自身のものでもあるんだ。よく分らないけど、そうなんだから仕方がないんだ。

 入舸は漠然ばくぜんとそのことに気が付いた。

「……っ! はぁはぁはぁ……」

 元通り左腕が生えていた。いや、生えるんじゃなく、腕自身が生き返ったというべきか。


「お話が、何か役にたったかの?」

 言葉が出ない。そういう事じゃない、何かよく解からないまま、勝手に治ったというのが近い。


「人は鳥に飛びかたを学べんし、魚に水での呼吸を学ぶ事はできん。

 同じように人に霊体の知識を与えても、人はそれを理解できんのじゃ」

「……どう言うことですか?」

「お主はとやかく知恵をつける前に、自分がどういう存在か自覚せねばならん。

 習う前に、慣れよ。

 己が人でないと無自覚に意識できる領域で慣れるのじゃ。

 全てはその後の話じゃ。知識や戦い方なんかはの」


 なんとなく解かった気がした。自分は人間じゃない。少なくともこの状態の自分は人間じゃなく……

「……幽体」

 お化けでも、霊体でもなく、幽体と口にした。確かヴィオがそう言っていた。

 ……僕は、幽体沖波入舸だ。


「上出来よ坊や」

 そう言いながらヴィオに抱きとめられ、頭をぐりぐりとでまわされる。

「な…なんだよ、いきなり!」

「今日はもう終わりよ、へとへとでしょ?」

 言われて気づいた。信じられないほど体が重い、全身が鉛のように感じる。

「だいぶ無茶な霊力の取り回し方したからね。ロスが多すぎて消耗が激しいのよ。

 まぁ死にかけたり腕を生やしたりしたから、当たり前なんだけどね」

 そう言い終えると、ヴィオは軽く入舸に口づけをほどこす。止めてよと突っぱねようと思うが、躰に流れる感覚がそれをこばむ。明らかに躰が軽くなっていくのだ。


「………」

 ほんの2~3秒のことだったが、顔を真っ赤にした入舸は、何を言っていいか分からないままヴィオを睨む。

「だから人工呼吸みたいなもんだって、意識しすぎよ坊や。

 それよりご飯食べるわよ」

「……ごはん?」

「そりゃそうじゃろう。儂らも生きておるといったじゃろ?

 飯も食えばクソもする」

 入舸は驚きの表情でヴィオを見る。

「それはどういう意味で見てるのかしら、坊や」

「な、なんでもないよ!

 それよりご飯は家で食べるからいいよ」

 何が入ってるか分からないし、とは口に出さない。

「駄目よ、これも修行の一環いっかんよ。

 霊界の食べ物を食べた方が霊子を直接取り込めるし、霊的存在も食事を採るということを認識していく中で、霊体や幽体も生きてる、霊的だと自然に自覚する訓練になるのよ」

 言われて確かに納得する。霊子云々うんぬんはよく分からないけど、ご飯を食べるのは確かに生き物っぽい。生命体を自覚するのには向いてると思った。

「……分かったよ、食べる。

 食べるけど何を食べさせる気?」


「そうねぇ……坊や子供だし、ハンバーグとかカレーとか?」

「……霊界にハンバーグとかカレーが…あるんだ」

「何でもあるわよ、地上にあって霊界にないものなんて……

 戦争とか殺し合いくらいのもんね」

 ふほほと黄が笑う。黄はヴィオのたちの悪いジョークが嫌いではなかった。


「しかし、お主が連れてきただけあって、相当なたまじゃの」

「……え、僕…ですか?」

「そうよ、坊やの事よ。

 大の大人でも、死にそうになったり、殺されかけたら泣き叫んで話にならないことが多いものよ。

 ……でも坊やは、なんだかんだで全部自分で乗り越えた。初日なのにね」

 言われて思う。どうしてこんな異常な状況を受け入れて耐えきれたのだろう?

 あっと気づきヴィオを見た。ヴィオの言った言葉。

『誰のために戦うか、何のために戦うか』

 その言葉のおかげだと気づく。もう駄目だと思いかけた時、無意識の内に、いつも母の顔が浮かんで耐えることが出来ていた。

 でも素直にヴィオに礼を言う気にはなれない。こんな無茶苦茶な修行、どう考えたっておかしいから。


 結局マスター黄の要望で、中華料理になった。僕が生まれて初めて食べた北京ダックは、霊界産のものだった。


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