第188話 親殺し2

 ――そして事件当日。


 いつものように寒さに耐えてソファーに横になっていた。


 ガチャリと鍵の空く音がした。


 母親が帰ってきた――のではない!


 時間がまだ早い。


 刀夜は青ざめてすぐさまキッチンへと逃げると角を陣取って両手両足で身を固める。


 扉を開けて入ってきたのは父親だ。会社で何か大失敗したのだ。上司や部下にボロクソ言われて、自尊心が保てなくなった最も危険な状態である。


 父親は迷わず刀夜の前にやってくる。刀夜は腕の隙間から様子をうかがった。コートは半分ずれ落ち、ずれたメガネの奥の目はすでにイッてしまっている。


 会社を早退してどこかで飲んできている。


「ふざけるなァ!!」


 一蹴り入れるが両手両足でガードする。両端にキッチンがあるから蹴られる方向にはかぎりがある。加えてキッチンが邪魔になって蹴りにくいから思いっきりは来ない。ここが一番安全で防御力が高い。


「どいつもこいつもバカにしやがってッ!!」


 執拗しつように蹴ってくる。腕も足も痛くなり、痺れてくる。しかし頭やボディをやられたら耐えられない。したがって手足がどれだけ痛くともガードを解いてはいけない。


「こ、この私をおとしめやがってぇぇぇぇぇ!!」


 突然、刀夜の髪を捕まれた。


 ゾクリと嫌な予感がした。


 髪の毛を引っ張られて無理やり引きずり出された。


 勢い余って食卓の足に肩をぶつける。


 痛みに耐えきると我に帰る。


 この場所は危険だ!


 犬のように四つん這いで食卓の下に逃げようとした。


 だが父親は刀夜をまるで蟻を踏み潰すかのように背中に足を叩きつけた。


「うぐッ!」


 背中に激痛が走って床に叩きつけられた。まるで車に引き潰された蛙のごとく。父親にはそれは滑稽にみえただろう。


「このクソがッ! クソがッ!」


 何度も腹を蹴られた。


「ゲボッ!」


 みぞおちに蹴りが入ると胃液が逆流して吐き出す。そのせいで喉がやけそうだ。いつもならもう止めている頃なのに止めようとしない。


『痛い! 苦しい! 痛い! なんで皆はお父さんやお母さんに笑顔でいられるの? 僕だけが違うの?』


 そう思うと涙が溢れ出てきた。


「――痛い」


 つい耐えきれず声に出してしまう。絶対に出してはいけなかったのに。


「ああッ!?」


 更に強く蹴られた。


「痛い、ご免なさい!」


 もう耐えられそうになかった。


 一体いつまで続くのだろうか?


 謝る必要性がどこにあるのか?


「痛い、痛いよ、お父さん!」


 酒に我を忘れているこの外道は刀夜の声など聞いていない。手加減などというものも知らない。


「刀夜ァ!」


 帰ってきた母親が血相を変えて刀夜を庇った。壊れた母親の唯一の残りカスである愛情、そのほんのわずかな愛情が刀夜の命を救った。


 恐怖に包まれてガクガクと震える刀夜を母親が抱き締めて守ろうとした。それは刀夜にとって唯一の心の拠り所である。唯一の命綱であると幼い心に刻まれていた。


「お、お前もか……お前までもがオレを!!」


 怒りの矛先は母親に向いた。容赦のない強い蹴りが加えられた。激しい振動が母親越しに伝わってくる。自分が蹴られているときとは異なるほど強く。


 母親が咳き込む。


『止めて……お母さんが死んじゃうよ』


 振動は絶えず伝わってくる。尋常ではないと振動の伝わり具合で判断した。


『誰か、助けて!!』


 そのとき、極めて強い一撃が加えられて母親は強くキッチンに体を叩きつけられる。キッチンの上に乾かしていた食器が一斉に崩れて音を立てた。


 シンクの中にも落ちた。床にも落ちてきて食器が何枚か割れた。そしてチャリンと金属音を立てて落ちてきたのは包丁だ。


 普段は足場を使っても絶対に届かないところにあるのに落ちてきた。それはまるで神の啓示かのように刀夜の目には映った。


『このままではお母さんは動かなくなってしまう!』


 幼心に別の言葉で『死』を連想させた。母親が動かなくなったらもう誰も助けてくれなくなる。最後の心の拠り所を失う。


 それだけは絶対に嫌だ。刀夜の脳裏に悪夢のような未来が見えた。


『こいつだ。こいつさえ居なくなればいい!』


 刀夜は父親の消滅を望んだ。落ちていた包丁を掴むとおおい被っていた母親の隙間を掻い潜って父親へ駆け寄る。


 突き立てた包丁からグニュリとした感触が手に伝わった。


 それはいとも簡単に刺さった。


 生暖かい物が握っている包丁づたいに流れてくる。


 父親の白いシャツが赤く染まってゆく。


 恐る恐る顔を上げて父親の顔をみる。父親の顔は怒りと驚きが入り雑じった顔で小刻みに震えている。


 刀夜は青ざめる。なぜまだ動いているのかと。


 血が沢山でたら動かなくなるのだと思っていた。だが父親は驚いたものの動いている。


 刀夜は急に怖くなり、無我夢中となる。


「うわああああああああああ!!」


 更に体重をかけて奥に挿し込むとドバドバと血が溢れ、幼い体と手を血に染めあげる。


 今度はどうだと再び父親の顔を見ようとしたとき、父親の手が包丁を掴んだ。


 そのことに刀夜は絶望する。なんで動くのかと。こんなにも血が出ているのに……


 父親が包丁を抜くと鮮血が飛び散って、刀夜の顔に降り注ぐ。だがそんなもの気になどしていられない。


 目前の父親の顔は怒りで悪魔のようだ。体が言うことを効かず、包丁はあっさりと奪われた。


「このクソガキがあッ!!」


 父親は奪った包丁を高々と掲げるが、刀夜は蛇に睨まれた蛙のごとく身動きができない。ただ目前の殺意に呑まれていた。


 振り落とされる包丁に見向きもできず、ただ父親の顔を見つめるしかでかなかった。


 ゾクリッ


 妙な感触が母親越しに伝わった。


「え!?」


 なぜ母親が目の前にいるのか分からない。母親の肩越しに再び包丁を振り上げる父親の姿が映る。


『違う。こんなはずじゃなかった。僕が守るはずだったんだ。なんでこんなことに……』


 父親は再び包丁を母親に立てた。二度、血しぶきが上がる。


 三度目、振り上げたとき父親は糸の切れた人形のように崩れた。


 同時に刀夜におおい被さって守ってくれていた母親の体から力が抜けた。だらりとした重い体が刀夜にのし掛かる。


「――あ、あ、あ…………お母さん……お母さん!」


 呼べど返事はない。


 自分の浅はかな行為が二つの命を奪った。だが刀夜は命のなんたるか知る機会も教育も受けていない。


 そんな刀夜には二人の死は理解できなかった。


 ただ分かっているのは血を流した二人はもう動かないということ。


 3日後、不振に思った幼稚園からの連絡により大家立ち会いのもと警察が踏み込んだとき、そこにあったのは悲劇の惨状であった。刀夜は3日という月日を得て『死』を理解し、放心状態で発見された。


 一体何がおきたのか、包丁を握っている父親が母親を殺害したのは状況より明白であった。父親が刺されたのは母親だと思われていた。だが鑑識の結果刀夜の指紋しか無かった。そして刀夜は自分が殺したことを自白した。


 あっという間にニュースとなる。


 名前を伏せられても近所や親戚にはすぐに知れわたった。親を殺したような子供の引き取り手などあるはずもなく親戚は口論を始める。


 業を煮やした刀夜の母親の父方、八神克彦に引き取られることとなり、姓を八神に変えた。


 たがそれ以後も人の死と自分が親殺しであることを理解してしまった刀夜の心は救われることはなかった。真実を知っても刀夜の元を離れなかった親友、三木晴樹を得るまで彼の地獄は続いた。


◇◇◇◇◇


 それゆえ刀夜は愛されることを拒むようになった。母親を救えなかったことを後悔し続けている。それは今もなお彼の心には深く突き刺さっている。


 由美の言葉は刀夜の忘れ去りたい記憶を引きずりだして再認識させられることとなってしまう。


 そしてその晩……刀夜は二度目の発作を引き起こした。

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