第187話 親殺し1

 ――刀夜5歳。


 寒い冬、暗い灰色の雲は今にも雪をちらつかせてもおかしくない。そんな空模様がまるで自分の心を表してかようだ。


 幼稚園帰りのバスの中から刀夜は空を見上げるとため息がでてしまう。


『ああ、帰りたくない……このままどこか連れていって欲しい……』


 だが無情にも送迎バスは停留所へと着いてしまう。窓の外には迎えに来ている母親が二人。


「さくらちゃーん。げんきくーん。とうやくーん」


 先生がにこやかに降りる子供の名前を呼んだ。残った三人を降ろせば先生の仕事はひとまず終わりだ。子供を預かるという責任から解放され、あとはのびのびと残りの仕事ができる。


「せんせーさようなら」


「さようならー」


 同じバスに乗っていた園児は元気な声で先生に別れを告げた。楽しそうに笑顔で若い先生に声をかける。


 先にバスの外に出ている先生から手を添えてもらってステップから降りてゆく。


『今日も楽しかったのか? 親に合うのがそんなに楽しみなのか? 僕はこんなにも憂鬱なのに、皆とはなにが違うの?』


 刀夜は黙ってバスを降りる。先に降りた園児達は親に抱きつき甘えていた。刀夜はもう一月以上母親の手など触ったことなどない。


「あ、待ってとうやくん」


 先生の前をとおりすぎようとしたとき呼び止められた。振り向くと先生がしゃがんで刀夜と同じ目線になると手を伸ばし刀夜のボロいマフラーを治してくれた。


「今日は寒いからね、気をつけて帰るのよ」


 優しい笑顔を向けてくれる。


 本来なら親が迎えに来てくれなければ園としては問題なのだが、刀夜の親はここ1ヶ月ほど来ていない。朝は送りに母親が来てくれてはいるのだが、すでに園では問題視されていた。しかし子供に罪はない。先生はそんな刀夜に同情をしていた。


「とうやくん一緒に帰る?」


 さくらちゃんの母親が手を差しのべてくる。細くて肌が艶々で綺麗な手だ。たったひとつの手でさえ刀夜の母親と違いを見せつける。


 だが彼女の好意に刀夜は首を振る。


「すみませんが、今日もお願いできますか?」


 先生は仕方なくさくらちゃんの親に頼んだ。さくらちゃんの家とは途中まで一緒だ。


 しかし刀夜は差しのべられたこの手に触りたくない。刀夜は知っている。この人が影で母親の悪口を言っていることを。


 どうせ今日も迎えにこなかったのを近所で話題にする。そのことを知っているだけに彼女の笑顔がたまらなく気持ち悪い。


 マンションの階段を上がった2階に刀夜の家はある。ポケットからひも付きの鍵をだしてドアを開けると家に入る。扉を閉めるとすぐに鍵をかけた。


 暖房も入っていない寒い玄関で靴を脱ぐときっちりと揃える。連絡帳を食卓の上にある箸入れの下に隠す。


 あいつに見つかるとろくなことにならない。


 鞄をパステルカラーの子供用三段棚の横にかけて、棚の上にある毛布を取る。幼稚園の服のままジャンパーとマフラーも外さず刀夜は毛布を被った。


 そしてソファーの上に座ると体育座りで足にも毛布を巻き付けた。


 口から漏れた息は白くなり、回りに広がってゆく。ハーッっと大きく息を吐くと更に大きく白い煙が広がる。刀夜の冬場の遊びといえばこれだけだ。


 この家にはテレビというものはない。あっても電気を使えばそれは悪いことだと一週間かけて体に教え込まれる。玩具などもってのほかだ。


 刀夜の持ち物は先程の三段棚と中の衣類、食器と歯磨きセットぐらいなものだ。


 息を吐くのも飽きるとソファーにごろんと横になる。横になると眠たくなるけれども寝てはいけない。


 長いときが過ぎる……ガチャリと鍵のあく音がした。刀夜は体をビクつかせると、すぐさま体を起こす。体育座りもやめて正しく座ってただじっと待つ。


 扉が開いて入ってくるのは母親だ。玄関で靴を脱ぎながらも刀夜の靴が揃っているのをチェックしている。


「ごめんねぇー遅くなって」


 食卓に買い物袋を置くとコートを脱ぎながら優しい言葉とちょっと歪んだ笑顔を向けた。


「お帰りなさい」


 機械のように返事をする。バサバサの髪、荒れてゴワゴワの手、やつれた顔、くたびれた服。


 優しい声と笑顔に騙されてはいけない。うちのお母さんはもう壊れている。病んでいるといったほうが正しいのかも知れない。だが普段のことを思えば壊れたのほうがしっくりくる。


 一度スイッチが入ったら手がつけられない。絶対に粗相をしてはいけない。


 母親はすぐさま夕飯の用意をする。壊れていてもちゃんと手料理のご飯は作ってくれるのは救いだ。


 午後6時半になるとようやく暖房が入る。暖かくなるとようやく刀夜は普段着に着替えた。午後7時、あの男が帰ってくる。


 扉がガチャリと音を立てると母親は玄関前で待ちかまえている。ただいまの言葉もなくブスッとしたしかめっ面で男が入ってくると鞄を母親に渡した。


 靴を乱暴に脱ぎ捨てて指一本でネクタイを緩めながら、四角く細長いメガネの奥底にある細く鋭い目が刀夜を確認する。


「おかえりなさい。ご苦労様でした」


 母親は脱ぎ捨てた靴を揃えながら父親に労いの言葉をかける。上着を脱いでソファーに投げかけてドカリと座った。


 母親はテーブルにビールとコップを置いて脱ぎ捨てられた上着をハンガーにかける。


 これはいつもの光景。この威張り腐ったクズのような人間が刀夜の父親である。


 あたかも威厳があるかのように見せているが所詮は見せかけ、中身は世にも下らない取るに足らない人間だ。


 会社では年下の上司に下らない理由でどやされても何も言えない。部下にすら嘲笑されている。仕事のできない人間。周りとうまく付き合っていけない不器用な人間。そして反吐が出そうなほどの下劣な人間である。


 この男の威張れる場所はここしかない。


 そして酒を飲むと豹変する。刀夜は急いでL型キッチンの角のくぼみに身を隠した。ここが一番安全な場所なのだ。


 父親は母親のちょっとしたことで怒り出す。母親は自分を守る術を知らない哀れな女だった。父親の言うがまま、されるがまま、負け組の人生。


 暴力を振るい出す……母親の微かな悲鳴と許しの懇願をえてようやく満足する。


 夜になると刀夜は別の部屋で一人で寝る。布団に潜って寝る。寒いからではない夏だろうが冬だろうが潜る。


 隣の部屋から獣のような声が聞こえてくる。ときおり悲鳴に変わる。近所迷惑など考えない。


 お陰で両隣の部屋はいつまでたっても人が入らないと大家が刀夜に嫌みを言う。直接本人に言えばよいのに。


 聞きたくないから布団に潜る。『最低だ』齢5歳にして最低というものを知ってしまった。


 土曜日曜ともなれば家にいるのは地獄だ。誰もいなくとも公園へ逃げる。誘拐したい者がいれば絶好の標的だっただろう。


 こんな毎日を幾度も繰り返される。


 生きていて何が楽しいのか?


 楽しいことなど知らない。毎日が生き地獄。それが当たり前の日常。


 まだ5歳の刀夜は『自殺』というものを知らない。ただ生ある者として生まれ、本能にしたがって生かされている。そんな辛い毎日を生きる。


 あの忌まわしい事件が起きるまでは……

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