はちろうななこ

永坂暖日

はちろうななこ

 東の空にかかるのは、数日後には満ちるであろう月だった。その明るさに、星の輝きはほとんど押しやられている。

「腹が減ったなあ、天助てんすけ

「そうですね、八郎様」

「疲れたからこれ以上は歩けないよ、天助」

「ちゃんと歩いていますよ、八郎様」

「もうすぐ歩けなくなる」

「歩けますよ」

「いや、歩けない。もうだめだ」

「でもちゃんと歩いているじゃないですか」

「天助」

「はい」

「僕はつまり、これ以上はもう歩きたくないんだ」

 天助の一つ年上の主は、峠を越えるくらいの元気はありそうである。

 ただ、体力はあっても、やる気は尽きたらしい。天助はため息をつき、立ち止まった主にならうことなく道を進む。

「天助、置いていくなよ」

 情けない声がすぐに追いかけてきた。

「がんばってください、八郎様。こうなったのは、八郎様のせいなんですから」

「僕が何をしたって言うんだ」

「今のこの状況、七子様がなんと仰ることやら」

「な、何のことを言ってるんだ、天助」

「茶店の看板娘がちょっとかわいいからといって、声をかけようかどうしようか、一刻以上も迷っていたのは八郎様でしょう」

 八つ時をいくらかすぎた頃に、街道沿いのこぢんまりとした茶店で休憩をした。そこで働いていた、十四、五歳のよく笑う娘が、八郎の心に適ったらしい。

 しかし、気軽に声をかけられるほど八郎は女慣れしていない。それどころか、どちらかといえば人見知りである。初めて会った同性と話をするのにも苦労するというのに、それが異性となればなおさらである。

 だが、それでも勇気を振り絞って声をかけたいと思うくらいに気に入ったらしい。茶碗と団子を握りしめ、彼女がそばを通るたびに、今度こそ、と身じろぎしたり天助にも意味を聞き取れない声を発したりと、挙動不審になっていた。

 天助は雲を眺めながら、八郎がさっさと声をかけてふられるのを待った。

 結局、八郎は声をかけることができず、いい加減待ちくたびれた天助にせき立てられて店を後にしたのであった。

 それで、今日の夕方にはたどり着くはずだった里にたどり着けず、月が登ってきたというのにいまだ山道を歩いているのである。

 伏球磨ふすくま家に物の怪退治を依頼した里の者たちは、もしや退治屋が食われたのではないか、とやきもきしていることだろう。

 八郎は、物の怪と戦うことを生業とする伏球磨家十二代目当主の第七子。末子ながら兄姉の中でも屈指の呪力を持っている――のだが、悪く言えば意気地がない性格が災いして実力を発揮できず、物の怪退治に向かっていても、里に到着する前からこの有様である。

 彼の姉・七子がこの場にいたら、またそんな情けないことを、と激怒するに違いない。

「七子姉には言うな、天助」

「ばれていると思いますが」

「とにかく言うな。黙ってて」

 八郎は顔を青くして、急に足早になった。いまさら遅れを取り戻そうとしても、すでに夜になっている。ここらあたりで野宿に適した場所を探す方がいいかもしれない。

 ただ、野宿をするとして、心配なのは盗賊や獣ではなく――。

「天助、あそこに明かりが見えるぞ!」

 道から外れた木々の向こうに、ぼんやりと一つ、まあるい光が見えた。空の星が落ちてきたにしては明るく、大きすぎる。こんな山の中に、人家だろうか。

「このあたりに人は住んでいないはずですが」

 天助は首を傾げた。今は暗くて地図で確認できないが、彼の記憶に間違いなければ、このあたりは人家どころか畑さえない。

「助かった。あそこに泊めてもらおう」

「ちょっとお待ちを、八郎様」

 生色を取り戻した八郎の襟首をむんずとつかむ。

「ぐえっ」

「物の怪に悩まされている里に向かっている途中で、なおかつこんな山道。いつ物の怪と出会ってもおかしくないんですよ」

 物の怪は、人里からちょっと外れたところやこういう山中の人気のない場所に現れ、通りかかった人にとりつき、人の心を喰らい、魂を喰らい、体も喰らう。刃物や火はほとんど通じず、呪力を介した攻撃のみが有効とされる。それゆえ、伏球磨家のような物の怪退治屋が必要とされているのだ。

「物の怪が家を建てるものか」

 咳き込みながら八郎が明かりを指さす。おぼろげながら、窓枠と、茅葺きの屋根が見えた。

「ですが」

「天助、おまえの持つ地図が古いのだ。最近になって、あそこに居着いたのかもしれないだろう」

「そうかもしれませんが、少々不便そうな場所です」

 見回すが、人家らしき明かりはほかに見えなかった。一軒だけで暮らすのは、なにかと不都合があるように思える。

「人嫌いなのかもしれないだろう」

「でしたら、わたしたちを泊めてくれないかもしれませんね」

「ぐっ……とにかく、尋ねるだけ尋ねてみればいいだろ」

 人見知りで意気地がないのに、一度決めたらなかなか折れないのが八郎である。天助はため息をつきながら、元気付いて歩く主の背中を追いかけた。


「夜分に恐れ入ります」

 その家は新しくはないが、古くもなかった。伏球磨家の屋敷とは比べるべくもないが、伏球磨家に代々仕えている天助の実家、粉久万こくまの家とさほど変わりない大きさである。つまり、一般的な民家だった。

「どうか一晩、泊めていただけないでしょうか」

 戸を叩くと、少し間を置いて、がたがたという音がした。戸がするりと横へ滑る。

「どちらさまでしょう」

 出てきたのは、妙齢の女だった。黒く艶やかな髪を緩く一つにまとめ、体の前に垂らしている。切れ長の目、小ぶりな鼻、紅をさしたように赤い唇に、透き通るような白い肌。こんな山奥にいるのが不思議なほどの色香を立ち上らせる、文句なしの美人だった。

 あ、これはまずい。

 後ろにいる八郎の顔は見えないが、鼻の下をだらしなくのばしているに違いない。八郎にはこの美女に夜這いをかける度胸などないが、茶店の娘以上にでれでれになって、明日の朝、発つのは嫌だとかごねそうだ。

「わたしたちは旅の途中の者でして。こんな時間になっても人里にたどり着けず、今宵は野宿かと覚悟していたところ、こちらの明かりを見つけた次第。ご迷惑でなければ、どうか一晩、軒下で構わないので、泊めてくださらないでしょうか」

 こう言わねば、後で八郎がうるさいので天助は一気にまくし立てる。しかし心の中では、断れ、と女に念を送っていた。

「まあ、それは大変でしたね。こんなあばら屋でよろしければ、軒下と言わず、どうぞ、中へお入りください」

「……たいへんありがとうございます」

 もうすっかり夜だというのに若い男二人がいきなり訪ねてきたのだから、もっと警戒してほしい。それとも、ほかに人がいるのだろうか。

 いや待て、彼女の旦那がいるかもしれない。あの年齢ならば、いてもおかしくはない。むしろいてほしい。それならば、八郎が明日の朝、四の五の言うことはない。

「女一人で、何のお構いもできませんけれど」

 彼女はことごとく天助の望みを裏切っていく。

 一人暮らしで、二つしかない部屋はふすまで隔てられているのみ。彼女が眠る隣の部屋で、天助たちは眠ればいいそうだ。

 ご丁寧に布団まで敷いてくれた。

「では、ゆっくりお休みください」

 唯一助かったのは、無駄な話はほとんどせずにてきぱきと寝床を整えてくれたことである。こちらの名前を聞くことはなく、かといって彼女が名乗ることもなかった。

 八郎はきっと尋ねたかっただろう。だが、それがすっとできるような主だったら、そもそも今頃里に着いていた。

「ありがとうございます」

「わたしは隣で休みますけれど――」

 女はすっとふすまを開け、ちらりと振り返った。

「このふすまは、決して開けないでくださいませ」

「もちろんですとも」

 天助が即答し、八郎は何度も頷いた。うら若い女性の寝室に入るなど、非常識きわまりない。

 女は妖艶な笑みで、おやすみなさいませ、と言い、ふすまの向こうへ消えた。

「さて」

 部屋は六畳の畳敷き。床の間はなく、押入や家具もない部屋だ。天助は四隅の壁と畳の縁の隙間に、指ほどの長さの小刀を突き立てる。

 四本目の柄頭に人差し指を載せ、天助は気合いを入れる。すると、小刀が淡い緑色の光を帯び、光はほかの三本の小刀を目指して畳の上を走る。小刀に到達すると、それもまた緑の光を帯びた。

 結界の完成である。これで、内側から破らない限り、物の怪は入ってこられない。

 物の怪退治の伏球磨家に仕えるのだから、粉久万家の者も当然ながら呪力を持っている。粉久万家の祖は伏球磨家出身だと言われている。

 女は人間のように見えたが、人に化ける物の怪はいくらでもいるし、物の怪でなくとも、どこからそれが湧いて寄ってくるか分からない。伏球磨の屋敷を離れて外で寝るときは、どこであろうとも、こうして結界を張るのが習慣となっていた。

「ほら、八郎様も結界を張ってください」

 未だぼけっとする八郎に耳打ちした。天助は一族の中では呪力を持っている方だが、伏球磨家の人間には及ばない。

 天助がしたように、八郎も小刀に人差し指をあてる。ちゃんと呪力を注げるのか若干心配だったが、緑色を打ち消すほどの青い光が小刀を包んだ。

 呪力を持たない人間には見えないらしいが、天助は緑、八郎は青といった具合に、人によって呪力の色は異なっている。伏球磨家は青い呪力を持つ者が多いが、みな微妙に色味が異なる。兄姉でも、まったく異なる色の場合もあった。

「それでは、八郎様。おやすみなさいませ」

 結界は無事張れたことだし、あとはもう寝るのみである。

「綺麗な人だよなあ、天助」

 旅装束を解いた八郎は、布団の上であぐらをかいて悩ましげな息を吐いていた。目線はもちろん、ふすまに向いている。

「……八郎様もすぐお休みください。明日は早くに発つんですから」

「え。明日は早く出るの?」

「当たり前でございましょう。遅れているんですから! 日の出と共に出発したいくらいですよ、わたしは」

 ふすま一枚で隔てているだけなので、会話はすべて小声である。それでも天助は、自分の置かれている状況を把握し切れていなさそうな主に、語気を強くする。

「天助。それはいくらなんでも早すぎるだろう……」

「今回の遅刻、七子様がなんと仰るやら」

「七子姉には言うなと言っているだろう」

「いいからお休みくださいませっ」

 掛け布団の端をぐっとつかみ、思い切り引っ張り上げた。転げ落ちた八郎を布団の上に引きずって、全身を隠すようにずっぽりと掛け布団をかける。頭があるあたりに、どすっと枕を置いて差し上げた。

「天助……これが主にすることか……」

 布団の中からしくしくと泣く声が聞こえてきたが、気付かないふりをして、天助は自分の布団に潜り込んだ。


   ●


 青い呪力の光だけが、部屋をぼんやりと照らしている。八郎の方が圧倒的に力が強いので、天助の緑色の呪力はほとんど見えなかった。

 天助は心配性なのだ。伏球磨の屋敷以外で夜を過ごすときは、必ず八郎にまで結界を張らせる。寝込みを襲われたことは一度もないのに、大丈夫だという主の言葉を頑として聞き入れない。まだ十六になったばかりだというのに、あれほど心配性で剛愎な性格では将来きっと苦労するだろう、と八郎は常々考えている。自分が天助をそうさせてしまったのだとは、夢にも思っていない。

 その天助は、物の怪がいるかもしれないなどと危ながっておきながら、今はすうすう寝息を立てていた。

 一方、八郎はなかなか寝付けずにいた。何度も寝返りを打ち、目をぎゅっと閉じてみるが、いっかな眠気が訪れない。それどころか、女主の姿が瞼の裏に浮かんでくる始末。

 茶店にいた垢抜けない看板娘の顔は、彼女の前に霞んでしまってもうよく思い出せない。こんな鄙びたところに、あんな妖美な女がいるなんて。

 なんという名だろう。年下は好きだろうか。どうしてこんな山奥に一人で暮らしているのだろう。盗賊や物の怪が恐ろしくはないのだろうか。彼女も眠っているのだろう。どんな寝顔なのか見てみたい。ふすまを開けるなと言われたが、だめと言われるほどに開けたくなる。いや、彼女の不興を買いたくないから開けはしないが、寝顔は気になる。

 そんな埒もないことばかり考えていたら、不意に、物音が聞こえた。布団の中でごそごそと動いているような音だ。天助ではない。

 ふすま越し――女主の眠っている部屋から聞こえてくる。

「あ……」

 しばらくすると、女の声がした。色気の滴る、どこか淫らな声。それが、とぎれとぎれ、八郎の耳に届く。

 目を見開いた八郎の鼻息はどんどん荒くなる。布団の中でうごめく音と、生々しい女の声。

 ふすまの向こうでいったい何が起きているのか、八郎はめくるめく想像に浸った。眠気を待つどころではない。声を聞いているだけで、八郎の興奮は鰻登りだ。

 彼女は一人暮らしだと言っていた。共に床に入る相手はいないはず。

 するとつまり一人で――。

「あぁ……」

 扇情的な声はいっこうにやむ様子がない。

 これは聞き耳を立ててはいけない。しかし、もっと艶めかしい声を聞かせてはくれまいかという願望はなかなか消えず、八郎の息子がどんどん元気になる。

「ああ、苦しい……どうか助けてくださいませ、八郎様……」

 ぎょっとして、八郎は思わず、え、と声を漏らしそうになった。

 女は、確かに八郎の名を呼んだ。ずっと耳をそばだてていたから気のせいではない。

 だが、なぜ彼女が八郎の名を知っているのだろう。

 あ、寝る前に天助が八郎の名を口にしていた。いや待て、天助は小声でしゃべっていた。ふすま越しに聞こえるだろうか。

「八郎様……こちらへいらして……」

 やはり、名を聞かれていたのか。

 八郎は掛け布団をめくりあげ、上半身を起こした。

「八郎様ぁ……」

 呼ばれている。思いっきり呼ばれている。息も絶え絶えに、悶えるような声で。

 据え膳食わぬは男の恥。こんなに呼ばれているのに無視するのは失礼というもの。

 いやしかし、ふすまを開けるなと言われていたのだった。待て待て、言ったのは彼女だ。その彼女が来てと言っているのだから、開けても構わないということだ。

 八郎はそうっと布団を抜け出して、ふすまの前に正座した。一度、咳払いをする。

「僕を呼びましたか」

「ああ、八郎様……早く、早くふすまを開けて、こちらへ……」

 これはもう行くしかない。

 天助は寝入っている。八郎は興奮が頂点に達しつつあるせいで、いつもの気弱さはなりを潜めていた。息子も元気だ。この勢いに身を任せ、ついでに女に身を任せるのも悪くない。いや、むしろ良い。

「すぐに参りますよ」

 八郎はためらわずふすまを開けた。青い呪力の光が、一度強く輝き、ぱっと消えてなくなる。

 まずい、結界を破ってしまった。天助にばれたらなんと言われるか。しかしまあ、どうせ何か起きるわけではないし、構わないだ――。

「八郎様。ふすまを開けてくれて、嬉しいわ」

 しどけない姿を期待していた八郎だが、実際は全然違っていた。

 八郎に流し目を送る女の顔は天井近くにあった。豊かな乳房が柔らかそうに揺れている。

 その下の体も露わで、八郎は目を見開いた。

 みぞおちから下は、虫の体だった。腕も、途中から人のものではなくなっている。腕も虫――あれは、カマキリだろうか。しかし、鎌の部分は淡い緑色ではなく、鈍色に光る本物の鎌のように見えた。

 乳房に目を奪われたのは一瞬のこと。女が笑いながら鎌を振り上げる。

 八郎は喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げ、次の瞬間、意識を失った。


   ●


「八郎様!?」

 叫び声を聞いて、天助は飛び起きた。開け放たれたふすまと主の背中をすぐに見つける。

 呪力の光がどこにもない。八郎自ら結界を破ったということか。

 やりかねないなと舌打ちしつつ、八郎の背中越しに、物の怪の姿を認めた。刃物のようなものが今まさに八郎の体を切り裂こうとしている。

「八郎様、お逃げください!」

 天助は枕元に置いていた刀の鞘を払う。

 だが、八郎は緊縛されたかのように動かない。天助は今動き出したばかりでとても間に合いそうにない。物の怪が間合いを見誤ることを願うしかないような状況だった。

「八郎おおおおぉぉぉ!!」

 突如、八郎が自分の名を叫びながら横へ転がった。物の怪の鎌が彼の残像を切り裂く。

 八郎は素早く身を起こすと、部屋の隅にあった小刀を抜いた。気合いのこもったかけ声と共に、小刀が呪力に包まれる。

 天助があっと思った瞬間には、おぞましい姿をしている物の怪めがけて放たれていた。

 物の怪は鼻で笑って、鎌で小刀をたたき落とす。

「天助っ、刀!」

 その場ですっくと立ち上がり、物の怪からは片時も視線を外さずに命じる。

 天助は、自分のではなく、八郎の枕元にある刀を差し出した。

 受け取るや抜刀してふすまを蹴倒し、勇ましい声と共に物の怪に躍り掛かる。抜き身の刃を包む呪力は、炎のように赤かった。

 大上段から振り下ろされた刀を、カマキリ姿の物の怪が鎌で受け止める。甲高い音が響き、火花が散った。

「ひどいわぁ、八郎様。いきなり切りかかるなんて」

 と言いつつ、物の怪鎌を振り上げ、右から左から襲いかかる。

「この、くそカマキリめ。助平で阿呆なこやつがいかにも引っかかりそうなことをしてくれおって!」

 赤い刃は、二つの鎌を難なく受け止めた。流れるようなその動きは、残像となって天助の目に焼き付いていく。

 手助けしたいが、天助の出る幕はなさそうだ。せいぜい万が一に備え、刀を抜いておくくらいである。

「天助!」

「はい」

「このカマキリを倒したら、この阿呆の股間を思い切り蹴り上げろ!」

 物の怪の攻撃を次々しのいでいるとは思えない、強い口調。

 しかし天助は思わず、え、と言ってしまった。

「天助、返事!」

「は、はい! 必ずやそう致します――七子様」

 今、物の怪と戦っているのは八郎であって八郎ではない。彼のすぐ上の姉、七子である。

 八郎は青い呪力、七子は赤い呪力。

 なにより、発する雰囲気がまるで違う。普段の軟弱さはどこにもなく、怒り狂っているような猛々しさが、八郎――いや、七子を包んでいた。

 まあ、実際に怒り狂っているのではあるだろうが。

 八郎がなぜふすまを開けたのか詳細はわからないが、おおかた、ふすま越しに色仕掛けされ、まんまと引っかかってしまったのだろう。

 伏球磨家の退治屋ともあろう者が、ああ、なんと情けない。七子がいなければ、これまで何度、八郎が命を落としたかわからない。

「手加減などするなよ!」

「はっ。承知致しました」

 伏球磨家の家系図には記されていない、本当の第七子。それが七子だ。彼女に肉体はなく、魂だけが、弟である八郎の体に同居する形で生を受けた。天助はそう聞いている。

 普段は八郎の中でひっそりとしているらしいが、今宵のように、八郎が危機に陥ったとき、七子と意識が入れ替わり、彼女が表に出てくるのである。

 雄叫びをあげ、七子はそれまで受け流していた鎌を弾き返した。返す刀で左の鎌を根元から切り落とす。物の怪が身の毛もよだつような悲鳴を上げた。

 痛みでめちゃくちゃな動きをする鎌の間をくぐり抜け、七子がカマキリの眉間に刃を走らせる。物の怪がまた悲鳴を上げてのけぞった。

 七子は怒りをにじませたままの表情で、胸の谷間に赤い刃を突き立てる。刺されたところを中心にして、赤い呪力が物の怪の体を覆うように広がっていく。

 物の怪は耳をつんざくような断末魔の叫びを上げた。体の半分が七子の呪力に絡め取られた頃には、それも途切れていた。

 赤い光がひときわ強くなる。網膜を焼くような光に、天助は目を細めた。物の怪の体がぼろぼろと端から崩れていく。

 七子が刀を引き抜くと、支えを失ったように一気に崩れ落ちた。刀を包む呪力が消えると同時に、形をなくした物の怪の体はさらに細かく砕け、塵になる。

「七子様。見事なお手並みでした」

 両手で恭しく鞘を差し出すと、

「天助」

 それを受け取った七子にじろりと睨まれる。

 姿形は八郎なのに、まるで別人だ。天助は、なんでしょう、と体を固くした。

「わたしは眠る。さっきの言いつけ、必ず果たせよ」

 七子が勢いよく刀を鞘に収めた。

 突き出されたそれを天助が受け取ると、七子の目から険しい光が消える。一瞬、焦点の定まらない目になるが、すぐに数度瞬きをして、正気を取り戻した。

「八郎様」

「あ……天助、また、七子姉にたす――」

「お許しください!」

 天助は素早く一歩踏み込むと、八郎の無防備な股間を全力で蹴り上げた。

 八郎が声にならない悲鳴を上げて白目を剥く。股間を押さえ、さっきの物の怪のように崩れ落ちた。

「て、て、て、ん……」

「お許しください、八郎様。七子様のお言いつけを守らないと、あとが怖いんです」

 天助とて、主の股間を蹴りたくなどなかった。今の八郎の惨状を見ているだけで、天助もきゅっと引き締まってしまう。

 だが、七子は怖い。天助が言いつけを守らなかったと知られたら、何をされるかわからない。

 天助の足下でうずくまり、悶えている主からそっと目をそらす。

 仕方ないんです、八郎様。七子様の方がずっと恐ろしいから。

 いつの間にか、家はぼろぼろの荒れ屋に変わっていた。塵になった物の怪の体が風にのって四散していく。

 さて、あのカマキリは、里の者たちを困らせていたくだんの物の怪だろうか。で、あれば、遅れた面目も立つというもの。

 朝はまだ遠そうだったが、眠気はすっかり消えていた。朽ちかけた床の上に天助たちの荷物が散らばっているから、ひとまずそれをまとめよう。

 屋根も壁も、ほとんど用をなしていない。

 いまだ苦悶の表情でうなっている八郎を、月明かりが煌々と照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はちろうななこ 永坂暖日 @nagasaka_danpi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る