夜の闇を葬る。





 山全体をぐるりと囲うように引かれた油に、咲耶の号令で一斉に炬火たいまつが放たれた。緋奈の悲痛な叫び声は、沸き立つ人々の歓声に掻き消されて誰の耳にも届かない。


 土を這うように燃えていた炎が、乾いた木々に燃え移りさかんに火柱を上げる頃になると、魑魅魍魎たちの襲撃に備えて槍やもりを構えていた男たちが、けたたましく勝鬨かちどきをあげた。


 不気味な黒煙に覆われた空に、凱歌がいかは鳴り響く。無数の走り火を伴って、侵略の炎は夜の闇を片っ端から奪っていった。人里の者たちはおそれを払い、未知なる異界を今その手に掛けたのだ。


 誰かが言う。「もっと早くこうするべきだった」と。

 誰かが言う。「流石さすがは咲耶様じゃ」と。


 山焼きを眺める全ての人々の目に、緋色の炎が灯っていた。しかしその色は、緋奈のひとみのように林檎飴の美しさを宿してはいない。永い年月のあいだ抱えた畏怖いふの念が、咲耶の呼びかけによって膨らみ弾け飛んだのだ。赤黒く濁りきったまなこが、狂気に燃えている。


 炎に蹂躙される山を囲んだまま、擾々じょうじょうたる狂乱のうたげが開かれた。大人たちの醜さに、緋奈は深く激しく絶望する。


 一人残らず殺してやりたいと願う彼女は、鼈甲べっこうの色をしたかんざしに手を伸ばした。このような髪飾りであっても、喉元に突き立てれば人一人くらいは殺せるだろう。せめて母親だけでもこの手で殺めて、私もこの山と共に燃えて散るのだ、と。


 思い詰めたその腕が、ふいに誰かに掴まれる。女と見紛みまごうほどに白く華奢な指先は、夜白のものだった。


「離して、夜白」

「離すわけがないでしょう。緋奈さまがお怪我をされたらどうするのです」


 夜白の力は思いのほか強く、緋奈が全力で腕を振りかぶろうとしても、びくとも動かなかった。苛立ちを込めて彼を見やれば、困ったように微笑んでいる。それは緋奈の傷の手当てをした時と、全く同じ表情であった。


「緋奈さま、どうか心を落ち着けてください」

「馬鹿なことを言わないで! そんなこと出来るわけが!」


 半狂乱の緋奈の両目に、夜白は白い布地を巻き付けた。いつか彼女の傷口をくるんだように、その胸のうねりごと優しく。


 夜白が問う。

 この世のものとは思えないほど澄んだ声で。


「よく見てご覧なさい。この山は今、本当に燃えていますか?」


 そしてはらりとほどかれた布地。


 緋奈の視界には、人々がおそれ敬うべきである常闇とこやみの世界が広がっていた。





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