夢はいつか醒める。





 逢瀬おうせと呼ぶにはあまりにも拙く、また同時に無垢な時間であった。朝と夜が混ざり合う藍色の空に、丸みを帯びた声が二つ響く。


 山暮らしの厳しさや、触れてはならぬ毒草を緋奈に語って聞かせる時、烏兎の心を不思議な誇らしさが満たした。人里の掟や、想像に任せるしかない馳走ちそうの話を緋奈が語って聞かせる時、烏兎の中には形容しがたい焦燥感が芽生え、もどかしさを覚えることもあった。


 次に会う約束など出来るはずもなく、また長話をするには誰時たれどきは儚い。緋奈が恐怖する母親に見つかる日は今日であるかもしれないし、日に日に言葉少なになっていく烏兎の祖母が、いつまでも沈黙を貫いているわけもないだろう。


 あなぐらに帰る前には念を入れて砂埃を浴びる烏兎であったが、天狗の嗅覚が子供の小細工で誤魔化せているとは考えづらい。


「なぁ、緋奈は毎日が楽しいか?」


 川べりの丸石に並んで腰掛けながら、乱反射する水面みなもの煌めきを眺めている時であった。何気なしに口をついて出た自らの言葉の残酷さに気付き、烏兎は沈鬱な気持ちで自らを呪う。


「お年寄りみたいなことを聞くのね。楽しいわよ? だって烏兎がいるもの」


 緋奈のませた口調に、烏兎の心臓はばくんと跳ね上がった。しかし彼女の答えがどのような意味合いであっても、浮かれてはならないことを理解出来ない烏兎ではない。


「俺も、楽しい。ひ、緋奈がいるから。でもっ」

「今日こそは会えないんじゃないかって、裾野に下りるたびに思う?」


 自分の台詞を先回りされて、烏兎は赤面した。頬が火照ほてっていくのが自分でも分かる。きっと緋奈の瞳と同じ紅色に染まっているのだろう。


「これはね、夢だと思ってるの。あたしはきっと毎朝、早起きに失敗してるんだって」


 妙に大人びた表情で、緋奈がとんちんかんなことを言った。だがその言葉は、烏兎の軽率な問いかけよりも、ずっと残酷なものとして彼の心に突き刺さった。もしかすれば、発した緋奈自身の心にも。


「……夢でも良いよ。続くなら、夢でも良いと俺は思う」


 絞り出した言葉が本心からなのかどうか、烏兎にも分からなかった。緋奈の反応を必死で窺うものの、薄い笑みの向こうには何も読み取れない。


 一抹いちまつの不安が、大きなうねりを生む。続かないからこそ、夢なのではないかと。人間の子と天狗の仔が、こうして関わりを持っていることは決して許されないことだ。いつか醒めると分かっているからこそ、緋奈はこの時間を夢にたとえたのではないか。そうだとしたら自分は、なんて情けないことを口走ってしまったのか。


 夢ではないと、力強く否定してあげるべきだったのだ。頭の中で渦を巻く後悔が、怒りにも似た後ろめたさとなって烏兎の心を掻き乱した。


「緋奈、俺たち、明日も会えるよな」

「……うん、きっと会えるよ」


 緋奈が差し出した小指を真似て、烏兎も恐る恐る小指を突き出した。すると緋奈は指に指を絡めて、何やら軽妙な童歌わらべうた口遊くちずさむ。その儀式の意味を知るはずもない烏兎であったが、絡み合う指のあたたかさが、心の乱れを和らげていく。


 しかし果たす当てのない約束は、時間の経過と共に物悲しさに変わるものである。そう何処かで知っていたからこそ、これまで一度も約束を交わさなかったのではないか。


 二人は逢瀬の強要はもちろん、取り決めさえも作ったことがなかった。烏兎は林檎飴の瞳を宿した少女を山道に探し、緋奈は美しい天狗の羽根を中空に探す、ただそれだけの繰り返しだったはずだ。


 明くる日もその明くる日も、烏兎と緋奈が巡り合うことはなかった。

 すっかり冷めてしまった小指の熱が、夢の終わりを静かに告げていた。




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