怨みを抱いて生きる。





 かちかちと火打ち石をって、烏兎が囲炉裏いろりに種火を灯すと、岸壁の横穴を刳り貫いただけの簡素な住処すみかを暖色が照らした。陽の光よりも心許ない炎の揺らめきは、見る者の心に揺るぎない安寧あんねいを感じさせてくれる。


「おばあ、冷えるから種火は絶やしちゃダメだって言ったろ」


 穴の奥で横たわっている年老いた天狗こそが、烏兎の祖母である。古びた敷布団の上で烏兎に背中を向けている祖母は、火の世話をする孫の方を向き直ることもなく答えた。


「ふん。年寄り扱いしおって」


 いつもの小言が始まる予兆に辟易へきえきしつつも、烏兎はせっせと夕餉ゆうげの支度に取り掛かる。山腹さんぷくで刈り取った野草を石鉢に放り込んでは、湧き水で溶いて煮汁を作った。先日に干しておいた野うさぎは貴重なたんぱく源であるから、祖母の器には多めに盛り付ける。もちろん、悟られないようにこっそりと。


「待て、人の臭いがせぬか。それも薄汚い娘の臭いじゃ」


 老いてもなお、天狗の凄まじい嗅覚は健在のようだ。


「あ、ああ。俺さ、今朝人間に会ったんだ」

「なっ、まさかお前、人里に降りたのではあるまいな」


 勢い良く上体を起こした祖母は途端に咳き込んだが、それでもその声は充分な迫力を備えていた。隠せない緊張感が走る中で、烏兎は怖気おぞけを振り払いながら答える。


「違うよ、裾野でたまたまさ。人間ってさ、おばあの話に聞くほど猿って感じじゃないよな」


 烏兎は緋奈の目を奪うような着物の美しさと、好奇に輝く一対の林檎飴を思い出しながら言った。その間にも幼い両手は、山が育んだ薬草をせっせと磨り潰している。老衰がいちじるしい祖母は、きっと今日も恨み辛みを垂れながら薬を口にするのだろう。


「ああ、なんと情けない。まさかたぶらかされおったのかこの大馬鹿者が」


 弱々しい声で、祖母は烏兎をなじった。激昂する祖母の姿を覚悟していた烏兎は、予想に反する態度に戸惑ってしまう。


「……おばあ、メシ。それに薬も」

「要らぬ。毒を盛られてはたまらぬからの」


 そう言って祖母は、また背中を向けて寝転んでしまった。再び咳き込み始めた祖母の背をさすろうとする烏兎の手は、後ろ手でぴしゃりと退けられてしまう。


 掛ける言葉を失った烏兎は、わびしい夕餉と向かい合った。それでも空腹の虫が鳴く以上、機嫌を損ねた祖母を置いてひとり食事を平らげる。


 流れる静寂の中に、火の粉がぜる音だけが不規則的に響いていた。やがて眠気が烏兎の意識を遮ろうとしたまさにその時、祖母がまるで独りごちるように言う。


「お前がせめて、爪の先ほどでも親の仇を憎んでくれたら……この儂が一体、どれだけ救われたことか」


 小刻みに震える祖母の声が、嵐となって烏兎を責め立てた。祖母は泣いているのかもしれなかったが、泣きたいのは自分の方であったから尋ねることが出来ない。


 その晩、月明かりが南天なんてんべる頃になっても、眠気がもう一度烏兎をいざなうことはなかった。あなぐらの外では、魑魅魍魎たちが薄闇に跋扈ばっこする時間だ。


 夜とは、こんなにも長いものであったか。

 住処とは、こんなにも息苦しいものであったか。


 夜が明け切らぬうちに裾野を散策するのは、食料を得るための烏兎の日課であったが、彼が夜明けを待ち遠しく感じたのは、これが初めての経験であった。




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