徒花として育つ。





「緋奈、この傷はなに?」


 愛娘まなむすめの左脚に小さな掠り傷を見つけた咲耶さくやは、切れ長の眼をさらに細めて問いかけた。「名前を聞きそびれちゃった」などと悠長な物思いにふけっていた緋奈は、母親の剣呑けんのんな視線に身をすくませながら答える。


「ごめんなさいお母様。庭のお花に夢中でつい」


 裏山を散策した今朝方、茂みの中の蕁麻いらくさが悪さをしたのだろうか。言われてみれば今さらのように痛むし、目を凝らせば傷周りも赤く腫れている。湯浴みの時間まで気が付けなかったのは、自らが迂闊うかつだったとしか言いようがない。


 緋奈は慌てて、広大な屋敷の庭を頭に思い浮かべた。幾人もの奉公人によって剪定された四季折々の草花たち。鋭い棘を生やした植物はどこかに植えられていただろうか。浴室に立ち込めるひのきかおりが、記憶を辿る緋奈の邪魔をする。


のちほど夜白やしろに診てもらいなさい。声は掛けておきます」


 咲耶の冷淡な声音こわねは、緋奈の体をもう一度強張こわばらせた。だが、咄嗟にいた嘘が露呈せずに済んだことを思えば幸運であろう。一足先に浴室を出ていく母親の背中を見て、緋奈はそっと胸を撫で下ろす。


 夜白とは、この屋敷がお抱えにしている薬師くすしの名である。彼はまだ壮年期を迎えたばかりの優男やさおとこであるが、その腕前と知識量は確かだった。遠くのみやこにまで名を響かせていると、もっぱらの噂である。


 湯上がりの髪をかしながら、緋奈は夜白の診察を受けた。夜白は何やらひんやりとした緑色の軟膏を、すっかり蚯蚓腫れとなった緋奈の患部へと塗り付けていく。


 彼の整った顔立ちを、緋奈がこれほどの距離で眺めたのは初めてのことであった。彼女が子供心にも、夜白の美しさに吸い込まれてしまいそうな恐ろしさを覚えていたその時である。


「緋奈さま、裏山に出られたのですね」


 軟膏の冷たさのせいではなく、緋奈の心臓がどくりと跳ね上がった。傷口を見ただけで裏山に自生する毒草に思い当たった夜白は、やはり折り紙付きの薬師である。しかしその口調は、緋奈の腕白わんぱくを咎めているものではない。それどころか、他の者には聞き取れないようささやくほどの声量であったのだ。


「あのね、探しに行ったの。庭に来ていた猫がね、姿を見せなくなったから」

「どこかで野垂のたれ死んだのでしょう。猫とはそのような生き物です」


 猫を探しに出た話が決して嘘ではなかったからこそ、さらりと悲しいことを言ってのける夜白の姿が涙で滲んでいく。それでも緋奈には、反駁はんばくの言葉を紡ぐことが躊躇ためらわれた。どこにでも飛んで行けそうな烏兎の羽根を見かけた瞬間に、行方知れずの猫のことなど彼女の頭から抜け落ちてしまったからだ。


 母の目を盗み屋敷を抜け出したことに加えて、自らになついていた野良猫に対して薄情になれてしまったこと。ふたつの罪悪感が緋奈の心を咎める。


「お願い夜白。お母様には言わないで」

「冗談でも言えません。咲耶さまがお知りになれば、折檻せっかんまぬがれないでしょう」


 緋奈の父親である藤吉とうきちが、自らの商才と交渉術を活かすため都に出てからというもの、その妻である咲耶は、以前にも増して娘の扱いに神経質になっていた。


 由緒正しき商家を継いだ藤吉には、大きな野心があった。生まれながらに赤眼あかめに祝福された愛娘を、いつか時の権力者へと貢がせるのだ。富と権力を得るための切り札に、万が一があっては許されない。


「それに緋奈さま、山の奥にはあやかしが出ると言います」


 暗い影を落とす緋奈に顔を上げさせると、夜白は困ったように微笑んで見せた。彼が見せた表情のあまりの柔らかさに、緋奈は思わず話してみたくなる。


 皆が恐れるあやかしの仔が、大嫌いな両のひとみを林檎飴にたとえてくれたことを。それに語って聞かせたい。彼の背中から空に向かって伸びた、天狗の羽根の美しさを。


「……お母様のほうが、あやかしなんかよりずっと恐ろしいもん」


 様々な感情を呑み込んで、緋奈はそれだけを絞り出した。彼女の消え入りそうな声に、夜白はもうこれ以上この話題を続けようとはしなかった。


 夜白の慣れた手付きで、緋奈の傷口に白い布地が巻き付けられていく。彼女の胸のうねりを覆い隠すように、何もかもすべてをくるんでいくのだった。




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