第92話 終わりの始まり
前世で、日暮れ前後を初めて逢魔時と表現したのは一体、どこの誰だったのか。
そんなことはもちろん知る由もないが、なんとも言い得て妙な表現だと思う。地平線の彼方に隠れながらも、残光が周囲をかすかに照らす光景は確かに、魔物に出会いそうな雰囲気だ。原始時代だと特に。
だからなのか。その日、もう間もなく完全に夜になるであろうタイミングでメメが異常に見舞われたのは、なんとも奇妙な巡り合わせに思えてならない。
「兄貴! テシュミたちといつもと同じ体制を整えておいてくれ! 可及的速やかに!」
「わかった!」
「あ、ただし布多めで頼む!」
「ああ!」
「アダム、今あるメスのストック全部持って来てくれ!」
「はいヨ!」
「チハルとソラルは研究室から作業台を!」
「おっけー!」
「わかったです!」
「ダイチ、お前は中を見えないように人をさばいておいてくれ! あまり見せたくないんでな!」
「あ、ああ、わかったよ」
事前に考えていた通り、みんなに指示を飛ばす。
大丈夫、今の所焦りはない。こんな事態が起こるのではないかと、正直思っていた。だから役割分担も、脳内でシミュレーションしてあった。ここまではいい。ここまでは。
問題は……。
「ぎ、ギーロ、これ、これ本当に大丈夫なんじゃよなっ? なっ!?」
「ああ大丈夫だ、なんとかする! なんとかするから、だから……」
うろたえるメメを落ち着かせるために、俺は半ば強引に彼女の唇を奪った。直前、己の舌を思い切り噛んで血を出して、だ。
そしてそれを、キスのどさくさに紛れてメメに飲ませる。
彼女は突然のことに目を点にしたが、すぐに意図を理解したのか大人しくなった。
「……落ち着いたか?」
「う、うん……うん……」
まだメメの顔からは血の気の引いているが、彼女はなんとか静かに答えて頷いた。そんな彼女の背中をさすりつつ、口の中に広がる鉄の味とはまた別のものに対して自然と眉が歪む俺。
この騒動の理由はただ一つ。メメのお腹が動いているからだ。
彼女の真下の視界を、完全に塞ぐほどに肥大化したそこ。今やその表面は、波打つかのようにほとんど絶え間なく動いている。考えるまでもなく、胎内の子供が原因だろう。
場が整うまでの間、メメを励ましながらまじまじと見る「妊婦の腹がうごめく」光景は、さすがにだいぶ精神を削る。
正直に言って、その……グロい。
日が落ちかけていて明かりがほとんどないということもあってか、思っていた以上にエイ◯アンのワンシーンみたいで……。
これが突然始まったのだから、それはもう全員が盛大にうろたえたものだ。
まあ俺は、取り乱している人間がいると周りは逆に冷静になるというあれに見舞われたらしく、存外落ち着いて対処できた。今回関わっている面々を召集して、今に至るのだが……。
メメの顔に血の気がないのは、そういった精神的なものだけではない。これと同じくして、物理的に血を吐いたからでもある。
恐らくだが、胎内で暴れる胎児のせいで、どこかの内臓が損傷したのだろう。だからこそ、俺はまず血を飲ませた。これである程度経てば、そのダメージは消えるだろう。
しかしだからと言って、このまま手をこまねいているわけにはいかない。
何せ腹が動き続けているから、血を飲ませて治しても、さほど間を置かずにまた吐血する羽目になるだろう。要するにループだ。
これを乗り切るには、延々と血を飲ませ続けるしかない。しかし俺の血液量や、メメが血を飲める量には限界がある。いずれどこかのタイミングで破綻するだろう。
もちろん出産が完了すれば収まるだろうことは、ほぼ間違いないと思うが……それは一体いつになる?
答えはわからない、だ。そんなこと、誰にもわかるはずがない。
となれば残された手段は……。
「父さーん!」
「持ってきたです!」
そこにチハルとソラルが戻ってきた。
「よし、そこに置いてくれるか。そのあとは藁を敷いて……」
「わかった!」
「はいです!」
そして二人は、空中に浮かべていた作業台を空いていたところに置く。次いで、そこらに余っていた藁を上に並べ始めた。
「メス、持ってきたヨー!」
と、ここでアダムが戻ってきた。その手には、青い刃のメスが五本。
「今あるのはこれだけだネ。なるべく時間を見つけて作ってたケド、やっぱりブルーメタル(俺命名)は硬くテサ……」
「いや、いい。気にしないでくれ、これだけでもだいぶありがたい。五本もあるじゃないか」
ばつが悪そうに眉をひそめたアダムだったが、俺は首を振って応じた。
「お父、残しておいた隕鉄のメスです!」
「おお、ありがとうな」
さらにそこに、ソラルが一本のメスを手渡してきた。以前、最初に造ってもらった青い刃……ブルーメタルのメス。その最後の一本である。
隕鉄製ブルーメタルのメスは、もうこの一本しか残っていない。他の二本は性質を調べるための実験で壊れてしまっている。
そして隕鉄は既に残っていないので、アダムが持ってきた五本のメスはいずれも青銅製ブルーメタルだ。
その性能はあとで説明するとして……これからのことをメメに説明せねばなるまい。
そう。残された手段、強制的に出産させる……帝王切開だ。
……あ、しかしその前に、一応念のため。
「メメ、陣痛の感覚はあるか?」
「……ほとんどない、のじゃ」
「そうか。ということは、まだ始まっていないわけだな」
やれやれ、本番はいつ始まるのやら。メメの内臓が傷つく状態がいつまで続くのか、まるで見通しが立たないじゃないか。
陣痛が始まっているなら、一縷の望みをかけて自然分娩……と思っていたのだが、これ以上は無理だ。俺のこともそうだが、何よりメメの負担が大きすぎる。
やるしかあるまい。もはや一刻を争う。
「……メメ、いいか。よく聞いてくれ」
「う、うん……」
彼女の身体をそっと抱き上げながら、俺の見立てとこれからのことを告げる。できるだけ目線を彼女の顔に合わせて。
「……というわけで、前に場合によっては帝王切開をすることになると言ったが、その場合になった。すまないが、お前の腹を切り開く」
「……わかった、のじゃ……」
俺の隠さない言葉に、メメはやはり血の気の引いた顔ながら、気丈にも頷いてくれた。
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かくして帝王切開手術が始まった。執刀は俺。助手にチハルとソラル、そしてスズメバチたちがいる。
どういうメンバーだと思うだろうが、俺は大真面目だ。
なにせうちのスズメバチたちは光る。ろくな明かりがない原始時代の夜では、手元で繊細な作業を要求される手術をする上で、明かりはどうしても不可欠だからな。
一匹だけではその光量はごくわずかだが、群れとなればそれなりに行ける。
まあ、羽音がうるさいことと、俺やソラル、あるいはチハルとの距離間次第で光の色がうっかり変わることが難点だが。
あと、うん。
周囲にひしめくスズメバチに、メメが怯えて執刀開始が遅れたことも難点と言えば難点か。今はとりあえず落ち着いたが、それでも目と口をぎゅっと閉じている。
最初は耳も塞ごうとしたのだが、それはさすがに俺の声も聞こえなくなるから、我慢してもらっている。その点については、全力で謝罪せざるを得ない。
それでもスズメバチの明かりは火と違って火事の危険がないし、燃料の残りを気にする必要もないし、ほとんど揺らめかないし、照らす位置を柔軟に変えられるから、この時間帯にあってはいてもらわないと困るのだ……。
そんな彼らのおよそ四分の三、広範囲に向けての光源を担うのはソラルだ。彼女の指示により、スズメバチたちは鉄の規律で小屋の中を照らし続けている。
そしてソラルの役目は他にもある。
「ふふん……生まれる前の子供が、魔術に勝てるわけがないのです」
手こずりながらもなんとか開腹を進める俺のすぐ隣で、ソラルがつぶやく。
その視線はメメのお腹に集中しているが、俺の手元には向けられていない。彼女の目は、見えない胎児に向けられているのだ。
これがソラルの役目の一つ。彼女には、胎児の暴走を抑制してもらっているのだ。……いや、暴走と言うのは語弊があるかもしれないが……。
ともあれ、手術を行う上で最も邪魔だったのは、メメのお腹を中から動かし、彼女の内臓にダメージを与えかねない胎児の動きそのものだった。それがどのようになされているかは、透視などできないのでわからないのだが……いずれにせよ、その動きを抑えないことには手術ができなかった。
だからこそのソラルだ。彼女の念動力で、胎児の動きを抑えてしまうというわけである。
もちろん、完全に抑制できているわけではない。胎児にも、あまりよくない影響が出る可能性は十分にある。
だが、俺の最優先事項はメメだ。悪いが胎児にはこれ以上の譲歩はできない。
それに、どうせ俺の子供なら多少粗雑に扱っても問題ない。何かあってもすぐに治るから、構うものか。
……こんなこと、メメには絶対に言えないけれどな。墓場まで持って行くつもりだ。
「ふー……、ふー……」
その一方で、玉のような汗を額に浮かべて深い呼吸を繰り返しているのはチハルだ。俺を挟んで、ソラルの反対側にいる。
彼女の視線はソラルと異なり、開腹作業を進めているまさにその場所に向けられている。何と言っても彼女の役割は、バリアの魔術でメメの出血を抑えることだからな。
今日に至るまでの間に、彼女は訓練を重ねて魔術の精度をさらに上げている。また、魔術を効果的に使えるブルーメタルの力もあって、魔術の連続使用でかかる負担もだいぶ軽減されているようだ。
おかげで今のところ、メメの出血はほとんどないと言ってもいい。ここまでは、順調だ。
それでも手術が長引けば、俺たちで最初に限界が来るのは恐らくチハルである。今も、現在進行形で人一倍集中して精神をすり減らしてくれている。彼女のがんばりに報いるためにも、できるだけ早く手術を終わらせたいが……。
「くそう、なかなかうまく切れないな……」
できるだけ誰にも聞こえないように、ひとりごちる。一瞬手を止めて、二の腕で顔の汗をぬぐった。
……想定していなかったよ。これほどアルブスの体脂肪率が高いとはな。
いやまあ、見た目から言って男はまた勝手が違うと思うが……。
おかげでメスがすごく滑る。俺はヌタウナギか何かを切り開いているのだろうか。隕鉄ほどではないにしろ、ブルーメタルに仕上げた青銅は並みの青銅より切れるはずなのだが。
まあ、仕方ないと言えば仕方がない。アダムの腕は信頼しているが、それでも日本刀の切れ味を持たせるレベルの技術はないだろうから。
ただ、そうこうしているうちに、切れ味はみるみる鈍っていく。
魔術を同時に使うと劣化が加速するブルーメタルの性質は、元が隕鉄だろうと青銅だろうと同じだったのだ。バリアが乗せることは避けられないので、この劣化も避けられない。
「チッ、一本目が逝ったか。……いやでも、一応想定よりは持ったほうか?」
ほどなくして、遂に一本目が限界を迎えた。
掲げて刃を見てみれば、青かったそれが完全に朽ちてしまっており、指でつついたら即座に崩れてしまいそうだ。
これが魔術を乗せることができるブルーメタルの、最大の欠点だ。酷使すると、さながら風化するかのようにして崩壊するのだ。効果自体はいいものだし、限界を迎えるまでは並みの刃物よりも切れる(原始時代基準で)のだが……。
ちなみに、ファンタジックな金属なのにミスリルやオリハルコンと言った定番の名前をつけなかったのは、魔術併用時の劣化速度が速すぎてイメージと違ったからだ。ミスリルにしろオリハルコンにしろ、もっと頑丈だと思う。
「はいお父、二本目です」
「ああ、ありがとう」
余談はさておき、ソラルが渡してきた二本目を受け取り、作業を再開する。
やはり新品はよく切れる。鈍っていく速度は相変わらずだが、それでも出だしの切れ味はすさまじい。おかげで二本目が使えなくなる頃には、なんとか第一段階……腹膜を突破することができた。
そして俺たちの眼前に現れたのは、拍動や脈動とは異なる動きを見せる子宮。
その姿に、思わずごくりと喉が鳴った。やはり、中で胎児がうごめいているからか。どうにも長く見ていたい光景ではない。
両隣の二人も同じようなことを思ったのだろう。息を飲んで、驚いている様子だ。
だがここからだ。ここまでは比較的順調と言ってもいいが、ここからが本番なのだ。
「……ソラル、メスを」
「……あっ、は、はいです!」
そして俺は意を決して、三本目のメスを受け取った。
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