第57話 目覚め

 アダムとハヴァの洗浄(あえてこう言おう)には、宣言通り試作品の石鹸を使うことにした。麻の実から取れた油を使った石鹸である。


 まだ油を採れるほど麻がたくさん栽培できていないので、石鹸のために油を作る……すなわち実をそれだけ食べないという点については、不満もあった。

 しかし油はいろんな面で有用だ。特に麻の油は、食用にもボディケアにも、工業用にも使える逸品。これを作らないという選択肢は俺にはなかった。

 この有用性を見せつけるために何が一番かと言えば、やはり石鹸だろう。汚れが落ちるという効果は、見た目にもわかりやすいからな。


 というわけで、麻布作りに並行して、ちまちまとだがやっていて……とりあえず作ったのが今回使った試作石鹸だ。

 比率をあれこれ試しながらやっていたから、できたのはテシュミの手のひらに乗る程度のものが一つだけだったけどな。


 ついでに最近やっと形になった麻布のタオル(くどいようだがタオル生地ではない)の使用感も確かめようということで、俺も一緒に身体を洗う。


〈なにこれ!? すごくきれいになる!〉


 と喜んでいたのは、ハヴァだ。やはり原始時代であっても、女性は身ぎれいにしていたいのだろう。


〈これもギーロが作ったの!? どうやってできてるの!?〉


 アダムはそんな風に質問をぶつけてきた。彼の興味は身だしなみより構造や仕組みなのだろう。

 これも科学的な説明を全開にしてかわしておいた。石鹸の説明なんて、土器の説明よりも時間がかかる。何かしながらの片手間で解説できるものではない。


 ともあれ結果としては、やはり石鹸の力は大きいということと、麻布で身体を拭くのは痛いということがわかった。

 それからもう一つ。テシュミが紡いだ糸だけが、まるで木綿生地みたいだということもわかった。


 これが以前(五十四話参照)に少しだけ触れた、布作りで発生した「気になること」である。

 なぜかはわからないが、テシュミの糸はものすごく柔らかく、ふわふわなのだ。それで作られた布は、明らかに他とは一線を画した仕上がりになっていたのである。


 ただしこの糸、テシュミの糸すべてというわけではない。普通の麻糸同様の仕上がりのものも多く、どういう理屈で木綿的なものができたのかは今のところ謎のままだ。

 この辺りのからくりを探ることが、今後の課題になってくるだろう。


 ……と、まあそんな感じで身を清めた二人を迎えた群れでは、彼らを歓迎する宴が開かれた。


 洗ってもなお全身が黒い二人を見て驚く者も多かったが、結局はみんなわりとあっさりと受け入れてくれた。群れ自体が様々な群れの寄合だし、外から新しい人間が入ることに抵抗が薄いのだろう。

 裏を返せば、警戒心が薄いとも言えるのだが。


 ともあれ宴だ。


 ここでのアダムは終始群れにあるものにあれやこれやと興味を示して続けていて、俺は彼のそばで質問攻めにあっていた。

 彼の知識欲はサピエンスの習性というより、彼の気質かな。ハヴァはそこまで気にしていなかったから、そうだと信じたい。


 ただ、今のところアダムの理解は即効性がある、もしくは目に見えて成果がわかりやすいものに限られている。そうでない……たとえばトイレの存在意義などは、即座には理解してもらえなかった。

 この辺りは定住してみないとわからない要素もあるが、それにしてもやはり、バンパ兄貴の理解力はずば抜けているのだなぁと改めて思ったものだ。


 そんなアダムが一番喜んだのは、塩だ。肉の味を引き立てる塩の存在は、素材の味しか知らない彼にとっては全身を貫くほどの衝撃だったのだろう。

 これはハヴァも同様だったようで、全身で喜びを表現していた。


 即物的とは言うまい。塩の有無はあまりにも大きく、これだけで食の彩は大幅に変わるのだから。


〈気絶するくらいおいしい!〉


 とはアダムの弁である。衝撃的すぎたらしい。

 彼が味皇でなくてよかった。リアクションで周辺を破壊されたらたまったものではない。


 まあ俺などは、しばらくろくに飯を食っていなかった人間がいきなり肉を食うなんてとんでもないとも思っていたのだが。かといって腹に優しい食事を作るための材料がないので、俺にはどうしようもなかった。

 俺にできることと言えば、突然のハードワークを強いられたアダムたちの胃腸が、やられてしまわないことを祈ることだけだ。


 と、そんな感じで宴はつつがなく終わった。

 その後は片づけをして一日を終えたのだが……。


「…………」


 自宅に戻ってきた俺は、やり場のない複雑な感情を持て余していた。


 夜の竪穴式住居は暗く、入口から入り込んでくる月光はあまりにも頼りない。今まで喧騒の中にあって考える余裕のなかったものが、このわびしい状況で一気に噴出したようだ。


 そんな中、入り口に座り込んで空を眺める。すぐ近くで燃え盛っている聖なる炎の火の粉と共に、満月一歩手前の月が静かにたたずんでいた。


 メメとテシュミには、しばらく考えをまとめさせてほしいと断ってある。二人は今、家の奥で何か話し合っているみたいだが、そちらに耳を傾ける精神的な余裕はなかった。


 つきっきりの通訳で疲れたわけではない。もちろん一切疲れていないとは言わないが、そちらは問題ではない。どちらかといえばそれは、心地よい疲労だ。

 では何が問題かと言えば、ハヴァである。正確に言うなら、サピエンスの女と言ったほうがいいか……。


 いや、ハヴァは悪くない。悪いのは勝手に期待して、勝手に失望した俺だ。

 九割九分どころか、十割俺が悪い。それはわかっている。

 しかしそれでも、俺は……。


「……何も感じなかった……」


 ため息と共に、日本語が口をついて出た。


 そう、俺はハヴァに対して何も感じなかったのである。その事実は、俺を困惑させるには十分すぎた。


 彼女が女性として魅力的ではなかった、ということは断じてない。それは彼女と、彼女をつがいとして選んだアダムの名誉にかけて、ないと断言できる。

 確かに顔立ちは、日本人の感性を引き継いでいる俺にとっては、ストライクゾーンからかなり外れていた。けれど造形という点で見れば、ハヴァは美人だと言ってよかった。

 水を浴びて汚れを落としたあとは、アダムと大体似たような年齢の……つまりは二十一世紀で言えば中学生か高校生くらいの、少しだけあどけなさを残した可愛らしい女の子だったよ。

 まあ、いくら土台が良くても、栄養状態が悪かった彼女の実際はお察しなのだが。


 付け加えるなら、おっぱいもなかなかのものを持っていた。

 栄養の足りないこの時代に、過酷な長旅を終えたばかりということを考えれば、あれはマックスではないはず。まだまだ大きくなるかもしれないと夢が膨らむくらいには、素敵なふくらみだったと思う。

 今後はしっかりと栄養を摂って、身だしなみにも気をつければ、アダムもハッスル間違いなしだろう。


 サピエンスならまず間違いなくそうなるはず。そう言っていいくらいには、美人だった。

 ならばサピエンスの感覚を持つ俺も……と思うのだが。


 これが不思議なほど何も感じなかった。ふーん、とでもいう感じだったのだ。

 目の前には、ずっと望んでいたおっぱいもあったのに。

 なぜ、どうしてこんなことに……。


 ……いや、理由はおおよそ察しがついている。それを受け入れるのがまだためらわれるだけだ。

 しかしだからといって、事実は変わらない。どうしようもなく確固として、俺の目の前に横たわっている。


「……俺はもう、サピエンスじゃないんだな……」


 その事実を、そっとひとりごちる。自分に言い聞かせるように、ゆっくりと。


 そうだ。俺はもうサピエンスではない。

 およそ十月十日で生まれ、男女の性差よりも個体差のほうが大きく。

 十五年前後で性成熟を完了し、健康下であれば八十年以上を余裕で生き抜く。

 そんな生物ではないのだ。


 今の俺は、アルブスだ。

 詳細な生態はわかっていないが、それでもおよそ半年程度で生まれ、あまりにも男女の性差が大きい。

 そんな生物。それが今の俺なのだ。


 だからきっと、今の俺は――。


「……メメ、テシュミ」


 身体ごと向きを変えて、声をかける。

 するとすぐに、返事が飛んできた。


「なんじゃ? さっきから一体どうしたんじゃよ?」

「頭抱えたり空を見上げたり……ほんまに大丈夫です?」


 返事と共に二人がこちらへ近づいてくる。

 それを見ながら己の身体を傾ける――と。


 俺の身体が遮っていた月光が屋内に差し込み、メメとテシュミの身体を照らした。

 小さい身体だ。百三十センチ前後で、サピエンス的には子供でしかない。

 けれどアルブス的には既に性成熟を済ませている、れっきとした大人の女性だ。


 そんな二人を見た瞬間、俺の身体には電流が走った。

 枷が外れるような、蒙が啓かれるような……そんな衝撃が。


「……あぁ。やっぱりそうなんだな」


 だから俺は……ほとんど無意識のうちに、そんなことを言っていた。日本語ではなく、アルブスの言葉でだ。


 わかる。サピエンスの女を実際に見た今ならわかる。二人の身体の魅力が。


 メメのほうが大柄で、身体つきはふくよかだ。自分で歩くより、俺の肩車で移動することが多いからだろうか。

 マシュマロのように、とまでは言わないが、それでも柔らかそうな(実際にふにふにとした触り心地の)身体は、あらゆる男の視線を奪う魅惑のセクシーボディだ。


 テシュミのほうは小柄で、筋張ったところが多いものの、全体的に引き締まった身体つきをしている。巫女として踊りを捧げるため、鍛えられているのだろう。しなやかでスレンダーな体型だ。

 そこに褐色の肌が合わさった彼女は、何とも言えない色気と、エキゾチックな魅力を振りまいている。


 方向性は違うが、二人とも小さい身体の中に抑え切れないほどの色香が満ちている。濃縮されているとでも言えばいいのか。サピエンスとは比べ物にならないほど蠱惑的だ。

 この二人を前にして、よく今の今まで俺は平気だったな。頭がおかしいとしか思えない。


 けれどもう、大丈夫だ。

 俺は正気に戻った。

 今なら行ける。


 下半身が臨戦態勢に入るのを感じながら、俺は目の前の二人に……心配そうに俺を見てくれているかわいい二人の嫁に、改めて声をかけた。


「二人とも。……子供、作ろうか」


 それを聞いた二人は、驚いた様子で互いを見つめ合ったあと……それぞれのやり方で笑い、大きく頷いてくれた。


 秋の夜は、長い――。

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